課外授業は偽装恋人 先生、よろしくお願いします

 俺は、坂崎を呼び出した。
 もちろん、咲久良には内緒で。

 先方の指定で、自然食にこだわるバルに決まった。場所は新宿。帰路からは外れているが、仕方ない。
 昼はそれっぽいランチ利用の女子で占められているというが、夜は一転、飲める店になるという……のが、インターネットサイトの検索結果。
 
 はじめて会う男がふたりで、バルでディナー。
 いや、余計な雑念をいだくのはよそう。面談の予備面談だ。あくまで業務の延長に過ぎない。

 終わったら、定食屋で口直しだ。最近は忙しくて、食べに行っていない。


 意外にも、坂崎は先に到着していた。坂崎の名前を出すと、すんなりと通された。奥まった場所にある、テーブル席。内密の話もしやすそうだ。

「初めまして、坂崎です」

 俺は目を疑った。

 そう言って立ち上がり、名刺を渡してくる坂崎。
 名刺には『咲久良剣(つるぎ)事務所秘書 坂崎北斗(ほくと)』とあった。剣というのは、咲久良の父の名だ。

 どこからどう見てもさわやかな好男子なのだ。
 俺よりも背が高く、やさしい顔立ち。痩せているようで、わりと筋肉質のいい身体をスーツで隠している(多分)。学生時代には、スポーツでもしていたのだろう。短く切り揃えられた髪も着ている物も靴も小綺麗で、清潔感がある。
 電話ではちょっと高飛車な口調だったが、実際に会ってみると感じは悪くない。仕事柄、ああいう事務所には迷惑な電話もあるのだろう。

 想像していたような、ごついゴリラ男子ではなかった。残念ながら。そうか、そうだよな、冴木鏡子の愛人だもんな。俺は自分の考えが甘かったことに気がついた。

「咲久良みずほさんの担任で、土方といいます」

 負けじと、俺も名刺を出した。肩書きもなにもない、連絡先だけが書いてある自作のプライベート用名刺だ。

「ほう、土方歳三さんですか。これはこれは。剣道でもされているんですか」
「いいえ。まったくの文系で、教科は国語です」

 即座の切り返しに、坂崎は苦笑したが、その笑いさえもいちいちさわやかで、俺はいらついた。

「まずは乾杯しましょう。飲み物はいかがしましょうか」

 この店に何度も通っているらしい坂崎は、さりげなく俺に苦手な食材を聞いたあと、適当に食事の注文を入れた。手際のよさに、またまたいらつく。俺、そんなにカルシウム不足だったか。

 とりあえず、ビール。乾杯。

 和んでいる場合ではないけれど、こいつの人となりをそれとなく、探らなくてはならない。見た目はよくても、咲久良を苦しめている不倫男にして、偽りの婚約者なのだ。

「あ」

 しかし、オードブルから美味だった。野菜がいい。オリーブオイルと塩だけでいける。このあとに出てくる肉料理も期待できそうな味だ。
 いや、俺は食事に来ているのではない、咲久良のことを訊きに来たのだ。攻略されかかってどうする。なのに、ついついフォークが進む。
「みずほさんは、いい子でしょう」

 唐突に言われ、俺はにんじんのピクルスを喉に詰まらせそうになった。咲久良を、まるで自分のもののように売り込むその言いかたに、俺は怒りを感じた。

「それは、知っています。控え目なようでいて、自分を訴えるべきところでは前に出られる。基本です」
「それで先生は、ここ数日連れ回したと」

「は?」
「調べはついています。安心してください、まだ誰にも報告していません。けれど、みずほさんがあなたにべったりで、先生のマンションに外泊したことも情報は入っています。彼女の抱き心地は、いかがでしたか。若くて、とても魅力的だったでしょう」
「だ、抱……っ?」

 咲久良の迂闊な行動は、すっかりバレている!
 俺の動揺をよそに、坂崎は余裕の笑みを浮かべて、証拠写真を突きつけてきた。
 いくつもの買い物袋を下げて俺のマンションへ来た咲久良。車で出かける姿。翌日、墓参りをする場面や動物園デートの光景、などなど。探偵を雇っているのか、ストーカーでもいるのか。

「みずほお嬢さまは若い女です。先生のような、やや身近で、年上の男に憧れる時期もきっとあるでしょう。ですが、本気ではありません。ただの気まぐれです」
「抱いてはいません、断じて。行くあてがないというので、仕方なく泊めただけで」

「それでは、健全なお嬢さまを見ても、なにも感じなかったと。失礼ですが、先生は男色かなにかでしょうか。このようなお店ではなく、二丁目にご案内したほうが、よろしかったでしょうか」
「いい、いい! そんな気回しは要らない!」
「先生は、かわいらしい人ですねえ」

 ふふふ、とやさしく笑われたけれど、全身に鳥肌が立った。『直感で拒否』、これかもしれない、咲久良のいやがる理由は。

 メインの肉料理が来た。
 木製プレートの上に、ミディアムレアの赤い肉が、がっちりと盛りつけられている。玉ねぎで作られたオリジナルソースも添えられているが、これは塩で食べるべきだろう。

「そもそも、なぜ高校二年生の彼女に、婚約者がいるのですか」
「それは、家の定めです。咲久良家は、旧家。早く結婚して子を生み、一族を安定させる使命があります」
「しかし、あいつが家の犠牲になるなんて、俺は納得がいかない!」

 俺は、肉にぐさっとフォークを突き立てた。やわらかい。口に運ぶ。とろけるように美味だった。続いて赤ワインのグラスを手にする。口の中にまとわりつくような濃厚な味わいだ。

「おやおや。恋人、いえお嬢さまの愛人気取りですか。いけませんねえ、仮にも教師と生徒が、みだらな関係とは。しかも、みずほさんにはわたしという婚約者がいますのに」

 くっそ。この奸物、め。ここに刀があったら、一閃してやりたい。

 俺の脳裏にひらめいた単語は、そのひとつ。

「解消してくれ、婚約を。さもないと、俺が咲久良を奪ってやる」
「ほう。とうとう本音が出ましたね」           

「あいつを自由にできるのは坂崎さん、あなたです。婚約が解消になれば、咲久良もきっと目が覚めます。俺につきまとうのはやめて、普通の女子高校生に戻れるはず。咲久良には将来がある。周囲のおとなが潰してはならない。たとえ、親だろうと。あなたも、身辺をきれいに片づけてから、改めて咲久良に交際を申し込んでみてはいかがですか」
「へえ」

 坂崎は脚を組み替えた。その、長い脚の動きはやたらと大げさで、鼻につく。

「いいえ。ゲームはもう、はじまってしまいました。みずほさんって、いやに男慣れしている思いませんでしたか。あれは、わたしが調教したからですよ。どう接すれば、男が喜ぶのか。身体を張って、わたしがすべて仕込みました」

 調教? つまらない冗談はやめろ。そう、反論しようとしたが、俺は声が出なかった。グラスを持つ手が震えている。ワインが揺れている。

「みずほさんは、処女ではありませんよ。わたしが、以前に彼女を征服しましたのでね。おや、悔しそうですね。彼女、かなりいい声で喘ぐでしょう? わたしの教育の賜物です」

 思い当たるふしが多過ぎる。初めから、咲久良は俺を積極的に誘っていた。信じたくないけれど、坂崎の言うことは真実かもしれない。
「……指示か。それは、母親……冴木鏡子の、指示、なのか」
「ええ、まあそうですね。みすぼさんを手なづけるようにと、命じられまして。それに、彼女と結婚すれば、いずれは父の咲久良の持っている票田が、すっかり手に入る。咲久良剣は国政に出たがっていますし、わたしが我慢、いえ雌伏するのはせいぜいあと数年、といったところでしょうか」
「坂崎さん、見てくれがいいから誰もが騙されそうになるが、あんたと冴木鏡子、お前たちは浮気している仲ってことで間違いないな。旧家が聞いてあきれるよ」

「おやおや。証拠もなく、そのような出まかせを述べたら、あなた逮捕されますよ。それでなくても、教え子に手を出した淫乱担任なんですから」
「手は出していない。あいつは無傷。そっちがそのつもりなら、こっちも訴えてやる。冴木鏡子の不倫、冴木鏡子の盗作活動について、全部ぶちまけてやる。俺は咲久良を信じる。だから、婚約は破棄しろ」

 坂崎は大きく身を乗り出してきた。負けじと俺も、どうだとばかりに酒くさい息を吐いてやった。

「ほう、大きく出ましたね。しかも、冴木先生の作品にケチをつけるおつもりですか」
「ケチじゃない。事実だ。俺は咲久良を守りたい。どうだ、取引きしよう。そちらさんは婚約解消、こちらは浮気と盗作について口を噤む。坂崎さんも男なら、冴木鏡子を奪ってみてはいかがかな」

「政治は清潔なイメージが大切です。略奪結婚など、バカバカしい。人気を失うだけだ。それより、おとなしくみずほさんの婿におさまって、さわやかな好青年でいたほうが、確実に票を獲得できる。まあ、百歩譲って浮気疑惑だけならともかく、盗作ってなんですか。盗作とは」
「文字通り、他人の作品やアイディアを無断で拝借して、ほかの作品に仕立て上げることだよ。かつては、あなたも冴木鏡子の弟子だと聞きました。餌食にされた悔しい覚えはありませんか」

「心外な。先生のお役に立てるならば、むしろ喜びです。咲久良の秘書に推薦いただいただけではなく、現在ではひとり娘の婚約者に決定しているのですから」
「俺には坂崎さんの気持ちが少し、分かる気がしますがね。さて、婚約解消に賛同いただけないのであれば、これ以上席を同じくしても詮無いこと」

 俺は堂々と立ち上がったつもりだったが、足もとがふらついていた。それほど飲んでいないつもりだったのに、酔った。先日咲久良に飲まされたワインといい、俺はワインという酒にはめっぽう弱いらしい。飲み慣れていないものを正念場で飲むような暴挙は、今後一切やめようと誓う。

「証拠がないと、誰も取り合ってくれませんよ」
「浮気については、咲久良が証人になるだろう。盗作のほうの証拠も、めどがついている」
「盗作にめど?」

「用意ができたら、知らせよう。そのとき改めて、今回の取引きに応じるか、マスコミに流すか、決めていただきましょうか」
「こっちだって、証拠はある! 高校の一教師を解雇させることなんて、実に他愛のない仕事だ。退職の理由が病気やケガならともかく、教え子とただならぬ関係の元教師なんて、塾講師や家庭教師にもなれないだろうね」

 そう言い終えると坂崎は、グラスに残っていたワインを一気に飲み干すと、顔中真っ赤にして片手で伝票を握り潰しながら、大声で店員を呼び止めた。息が荒く、目も血走っている。俺以上に酔っている男が、間近にいた。

「経費で落ちますので、ここはわたしが」

 坂崎はやたらと必死だ。

「いや。禍根を残したくないので、半分は出す」
「結構です。外食に出て、咲久良剣の秘書が相手に割り勘させたとあれば、咲久良家の名折れです」

 丁寧だが、話の分からないやつだ。俺は手を振って坂崎と別れた。

「飲めないアルコール、無理に飲むことないのに。小さい人間だな」

 坂崎の外見のよさには少し驚いたが、中身は卑屈で残念な男だった。
 ひっかかるのは、すでに咲久良をものにしたというような坂崎の言いかただった。ほんとうのことなのだろうか。

 酔い覚ましに、近くのコーヒーショップへ立ち寄ったところで、俺の電話が鳴った。咲久良からだった。喋るには面倒な気分だったので、一度目は出なかった。
 また鳴った。二度目は着信拒否にした。うるさい。
 三度目はメールだった。

 俺は、こいつに利用されているだけなのかもしれない。ゆっくりと、着信メールを開く。

『電話に出なさいよ。
 としくんってばひどいな、もう。
 母が予定を切り上げ、明日の午前中に
 帰宅するって連絡が入りました。たいへん!
 今夜中に、母の部屋を調べませんか。
 先生の原稿、あるかもしれない』


 さっそく、坂崎が手を回したのだろうか。

 あいつなら、俺を脅すだけでなく、遠慮なくデート写真を親や学校へ送りつけるだろう。
 教師と女子生徒のスキャンダルに進展すれば、俺なんて若手の教師はあっという間に吹き飛んで人生終了だ。

 俺は時間をかけてじっくりとコーヒーを飲み終え、外に出ると咲久良に電話をかけた。

『おそーい! としくん、遅い。返事、遅いです!』

 当然、待ちくたびれていた咲久良は怒っていた。

「悪いが、土方先生はヒマじゃないんだ、放課後も多くの残務が山積している」

『で、来てくれますよね、ねねね? 友だちが来るからって言って、住込みのお手伝いさんはご実家に帰しちゃったんです』

「俺は、友だちか」

『まあ、そんなものですよね。今から、車ですぐに来てください』

 まったく……簡単便利な男として、いいように使われている。友だち? 恋人じゃなかったのか?

「あー。それが。今、新宿にいるんだ。どんなに急いでも、あと三十分、いや一時間はかかるな」
        
『新宿? としくん、大変なお仕事が終わった後に、わざわざ新宿へ? もしかして、顔に似合わず合コンとかですか。ひどい、信じられません!』

「バカか。俺がそんな会に参加すると、一ミリでも本気で思ってんのか」

『あはは。思っていません。だってとしくん、顔はいいのに、性格は極悪ですし。オトナの女性と、まともにお付き合いしたことは、ほとんどないんですよね。あーあ、だいじょうぶかな、私の将来』

 なんなんだ、極悪って。

「……今から行く。待っていろ」

『分かりましたって。でも、原稿が見つかったら、ご褒美くださいよ』

「褒美、だと?」

『こんないい情報、教えたんです。見返り期待、大いに期待、超期待!』

 声が弾んでいる。この緊急非常時にあほか。

「とにかく、行くから。なるべく早く」

 咲久良はまだ、なにかを続けて喋っていたが、俺は一方的に、電話を切った。ぶちっと。


 今夜はまだ、終われないらしい。
 とにかく、俺は最寄りの駅まで電車に乗り、その先はタクシーに乗り換えた。車で来いと言われたが、すでにしたかかに酔っている。無理だ。

 咲久良の指示は、自宅前五十メートル手前で待っているから、そこで降りろと、とのこと。車を自宅正面に横付けされると、困るらしかった。

 指示通り、俺がタクシーで向かうと、屋敷の前に咲久良が立っていた。その場で、ぴょんぴょんと跳ねている。

「こっち、としくん!」

 夜はだいぶ肌寒くなってきたというのに、やけに薄着だった。半袖パーカーにミニスカート。その下は素足にサンダル。

「おい、お嬢さまのくせに、こんな扇情的な格好で外出したら、襲われても文句言えないからな」
「だいじょうぶ、としくんになら襲われたいです。あたためてください。『原稿探しの正規推奨ルート』ではなく、そっちの、『既成事実でいろいろ突破の裏ルート』の選択肢へ進みますか?」
「進まねえよ、絶対!」
「そんな大きな声で、即否定しなくても……いちいち、か弱き乙女を傷つける人ですねー。では、それより今から言うことを、よく聞いてください」

 あくまで咲久良は自分中心。俺は閉口した。

「門と玄関に監視カメラがあるので、うまく躱してくださいね。私の言うタイミングで、一気に走り抜けてほしいんです。さあ、こちらへ」

「監視カメラを、走って躱すだと?」

 咲久良は、俺の戸惑いも知らず、俺の腕を自分の胸に押し当てて引っ張った。

 わざと、なのか?

 感触を味わったら負けだと思いつつ、俺はこんな非常時に咲久良の胸のふくらみを堪能してしまった。やわらかい。うん、下着……つけていない。どこまで狙ってんだ、こいつは。

 咲久良が言うには、門扉と玄関ドア付近に監視用のカメラが設置されているという。
 それぞれ、二十秒ずつで録画映像切り替わるそうなので、映っていない二十秒のうちに各ポイントを通ってしまえば記録されないらしい。

 見る限り続いている、長い長い塀。外見だけでも豪邸だと分かる。
 セキュリティもそれなりに強化してあるのだろうが、このあともいくつ困難が待っているのかと思うと……それに、仮にも教師が、娘の手引きで、不法侵入のような真似をしていいのか?

「泥棒みたいだな」
「せめて、アクション映画と表現してください。これしか方法がありません。さあ、走って!」

 監視カメラの切り替え時間を知っているこいつ、カメラの様子を時計と交互に見やって、いち、にい、さん、しい……咲久良が数を唱えはじめた。
 俺は、自分の鞄をかかえて咲久良の後を追う。ほぼ、酔いは醒めたけれど、夜中にスーツと革靴での全力ダッシュはかなりきつい。

 しかしとにかく、門扉の中には無事入れた。第一のポイントはクリアだ。

「ごめんね、先生。母が帰って来たら、原稿の在り処を調べられないし」
「急な知らせ、なの、か」

 息が上がっていてうまく声が出ない。毎朝、そこそこ走り込んでいるつもりでいるものの、それとこれとでは運動量が違うようだ。

「そう。予定では、あさっての夕方だったのに。取材、早く終わったのかも」

 やはり、坂崎の仕業か。

 俺が咲久良の周辺で、こそこそと嗅ぎ回っていると感じたに違いなかった。担任として、坂崎とは堂々と会ったつもりだが、淫行教師の認定を受けて終わっただけだった。向こうの持っている手札のほうが上だった。
『恋人のとしくん』は、冴木鏡子の盗作事実について、なんとしてでも証拠をつかみたい一心だった。そして立場大逆転、もうこの道しか残されていない。

 第二ポイントの玄関も乗り越え、俺はようやくひと息つけた。

「協力ありがとう、先生。ううん、としくん。こっちだよ」
 外から見ても実に壮観だったが、内側も豪華な家だ。玄関先ですら、人が住めそうに広い。

 まるで、高級温泉旅館。

 長い廊下は畳敷きで、壁には絵画や花が飾られている。和風だが、古びてはいない。大きなガラスが張られており、昼間はさぞかし明るいだろう。暗くて確認できないのが残念だ。

「まずは作戦会議をしましょう」

 案内されたのは、咲久良の部屋だった。
 いかにもお嬢さま風の、愛らしい部屋だ。白とピンクの色調でまとめられており、よく片づいている。うちに来たときの掃除も、丁寧で早かったことを思い出す。性格はアレだが、わりと家庭的なのかな……嫁さんに向いているのかも……おっと、そこまで!

「どうぞ、としくんも」

 そう言いながら、咲久良はベッドの上に座った。だらしなく見えない、絶妙な角度で俺に向かってゆるーく膝を開き、ぴっちぴちでむっちむち(死語)の脚を強調している。

「男を部屋に入れておいて、ベッドに座るのはどうかと思う」

 俺は正論を唱えた。
 
「相手が、としくんだからです。他の人にはこんなことしません。部屋にすら、入れません」

 言うだけ無駄か。咲久良の白くてまぶしい太ももから目を逸らし、その場に鞄を床に置いて立ったまま、乱暴にネクタイを緩めた。

「ああ、その仕草いい。おとなっぽい! これからしますよって合図!」
「……ちっ。俺は、おもちゃか」

「いいなあ。私、ほんとうは男に生まれてきたかったんです。そうしたら、咲久良家の後継になれましたし、婚約強要なんてされなくて済みましたし」
「人の話を聞け」

 咲久良が両脚を動かした。大きく開いたので、スカートの奥まで見えてしまった。白のレースだった。

「さ、作戦会議をしよう! じ、時間がもったいない、時間が」
「あー。としくん今、見ましたね。スカートの中!」
「お前が見せてきたんだろうが。不用意に動くな」
「嘘。覗き込みました。いいんですよ、としくんなら。動揺しちゃって、かーわいー」

「……原稿、一緒に探すんじゃなかったのか」
「どこにあるか分からない原稿を探すよりも、こっちのほうが確実ですよ。私に、としくんの赤ちゃんができちゃうの」
「バカ言うな。俺の社会的信用が失墜する」
「どこまでもお固いですね、もう。じゃあ、説明するから座ってください」

 結局、俺は咲久良の隣に座らされた。
 女の部屋に入ったのは久しぶりだ。当たり前だが、女の匂いがする。ぐいぐいと身体を密着させてくるし、俺の太ももに手を這わせてくる始末。

「咲久良、こういうのはよくない」

 男慣れしているのか、調教されているのか。あの、坂崎の顔が、目の奥にちらついて頭から離れない。

 俺は無言で咲久良の手を押し返した。
 白くて、爪がきれいに整えられた理想的な手をしている。しかし、指先は少し冷たい。

「としくんが近くにいると、なんとなく触りたくなるんです。こうしているとね、すごく安心。ちょっとどきどきしますけど」

 同じ気持ちだった。咲久良の手を押しのけたとき、いけないと思いつつ、ぬくもりが離れてゆくのは、同時に惜しいとも感じた。

 いや、いけない。理性理性。
 咳払いをして、感情の揺れをごまかす。

「で、原稿はどこだ」
「……母の、仕事部屋。たぶん」
 咲久良の案内で、そろそろと薄暗い廊下を進んだ。
 もちろん、誰もいない。俺たちが交互に床を踏み歩く音しかしない。

 これって、やはり犯罪じゃないのか。深夜、人の家に忍び込んでものを取ろうとしているのだから。
 もともとは、自分の身から生まれた原稿を奪い返すためとはいえ、この行動は現役高校教師のやることではなかった。

 しかし今さら、咲久良を止められず、勢いもあって、言われるがままついて来てしまった。酔いは醒めたと思うのに。
 こいつを守るには、盗作の証拠……つまりは原稿が必要なのだ。坂崎なんていう男に、咲久良は渡せない。

「ここです」

 当然だが、部屋の主が留守なので、鍵がかけられている。

「鍵は手に入ったんですけど、この部屋だけは、特に厳重な警備システムがついています。今から、私が電気のブレーカーを落として、家をわざと停電させますので、先生は十分以内に原稿を探してくれませんか」
「たったの十分で?」

「十分経過すると、非常用発電装置が作動して監視カメラが復活するし、十五分以上停電すると、警備会社に発報されて警備員さんが来る仕組みなんです。ですので、その前に」
「口で言うのは簡単だが、ヒントはあるのか。手がかりもないのに、人の部屋を十分で探せなんて、泥棒か探偵かどちらか、あるいは超能力者だ。あいにく、俺はしがない高校教師。人の道は踏み外したくない」

「そんなことは言わないで、そこをなんとかお願いします。ここまで来て、なにもしないで帰りますか」

 原稿は取り戻したい。しかし、そのために生徒の家を勝手に探るなど、やはり越権行為そのものだ。
 暗がりの中、むやみに探して回り、たったの十分で掘り当てる自信もない。俺は、鼻が利く犬ではない。

「……いい。これは、やめよう。だめだ」
「やめる? なぜ? ここまで来たのに」

 俺の宣言に、咲久良は反対した。

「これはよくない。咲久良も、薄々と気がついているはずだ。いくら家族でも、留守中に部屋を引っ掻き回されたら気分がよくないだろう。警察沙汰になるかもしれない」
「それはそうですけど、でも、母は先生の作品から盗作をしたんですよ。悪いのは母です。許せません」
「もう、忘れろ。俺はあの作品どころか、創作していたことすら忘れていたぐらいだ」

「……としくんの意気地なし。鍵がついていて、カメラが動いているぐらいで、怖気づくなんて。私が、誰かのものになってもいいんですか」
「だから、お前は俺を買いかぶり過ぎだ。俺は、ただの高校教師で、お前は普通の生徒。頼られて迫られて、俺も多少のぼせあがっていたようだ。すまない。恋人ごっこではなく、真正面から、婚約についてお前の両親に訊いてやる。すぐに破棄できなくても、延期ぐらいできれば上々だろうし、それでいいだろう」

「いやです! たとえ、坂崎さんとの婚約が解消になっても、母はきっとほかの男を、代わりの婿候補に連れてきます。次々と。私は、そんなのいやです。先生がいい。あんな素敵な作品が書ける人なら、いっそのこと、全部まかせたいって思っています。としくんがいい。としくんしかいません!」
「……あんな作品?」
「あっ、それは」

 しまった、という顔をしたあと、咲久良は口もとをおさえた。

「お前、まさか俺の原稿の在り処を知っている? それどころか、読んだことがある素振りだったな今」
「し、知らない。私、知りません。としくんのことが、好きなだけです」

「お前……はぐらかすな。もしかして、俺のことを前から知っていたのか」
「ううん、知らない。知りませんよ! 出逢ったのは今年、としくんが私の担任になって偶然ですもの」
「嘘をつくな」
 俺は咲久良を廊下の壁際に追いつめた。
 咲久良は明らかに動揺している。はぐらかそうとして、視線を合わせようとしない。

「だって、としくんが。ねえ、お願い。原稿を探しましょう? としくんがうんって言ってくれたら、私は助かるのに」

 咲久良は、泣いていた。
 おいおい、落選原稿を探すのをやめたぐらいで、なぜ涙? 俺は戸惑った。涙には弱い。咲久良の、か弱い肩を抱きたくなってしまう。 

「助かるって、なんなんだ。そんな言い方ってない。原稿を見つけたあとは、冴木鏡子との取り引きが待っているんだ、お前をすぐに助けられるわけじゃない」

 ん? 助かるって、妙だな。なんか、ひっかかる……?

「だ・か・ら。あなたが『うん』って言ったら、みずほは助かったのよ」

 冴木鏡子の仕事部屋のドアが開いた。

 出てきたのは本人、冴木鏡子だった。
 ただし、実際に会ったことはない。写真やテレビで見たことがある、その人。肩や胸もとは大きく開き、女性らしさを強調したワインレッドのワンピースを着ている。

「あなた、人間としては合格だけど、みずほの婚約者にはなれなかったわね、残念。初めまして、土方さん。いえ、土方先生と呼ぶべきかしら。私は、みずほの母です。そして、『冴木鏡子』。ご存じですよね」

 予期しない人物の登場に、思わず俺は身構えた。対保護者用の能面笑顔になる。

「こちらこそ、初めまして。土方です」
「ママ、どうして出てきたのよ。もうちょっと、待っていてくれてもよかったのに!」

 咲久良は顔を真っ赤にして怒っている。

「これ以上押しても、効果ないわよ。だって先生、あなたに多少の好意はありそうだけど、欲情はしていないもの。みずほも、男を押すのが下手ね。もっと勉強しなさい。先生、結末はこの通り。みずほが先生を落とすか、先生がみずほのために罪を犯すなら、あなたたちを許してもよかったんだけど、とうとう先生は最後までいいこちゃんだったわね。みずほ、もう諦めなさい」
「そんな」

 咲久良は、明らかに失意に打ちのめされている。
 俺は咲久良に騙され、冴木鏡子に試されていたようだ。冴木鏡子はとっくに帰宅していて、すべての行動を見られていたのだ。やられた。

 こみ上げてくる怒りをおさえ、俺は冴木鏡子に質問をした。

「あの、俺が不合格ならば、咲久良は予定通り坂崎氏と結婚を?」
「そうね。あの子にもそろそろ飽きてきたけど、ほかに代わりもいないし……先生が私の新しい愛人になってくれるなら、話は別かしら。みずほが急いで選んだ割には、わりといい顔じゃない。よりによって、担任教師なんてとんでもないチョイスだけど。先生、どうかしら?」
「なりませんよ、絶対に」

 即答、即断。

「そう? じゃ、お別れね。これは、返す。だいたい、こちらの事情は分かっているでしょうし、情報を売っても構わないわよ。いくら真実でも、陽の目を当てられないこともある。だって、このことが明るみになっても、誰も得をしない」

 冴木鏡子は封筒ごと、俺にそれを突きつけた。
 中身を確認すれば、かつて新人賞に出したときのオリジナル原稿だった。何度も読まれたらしく、用紙はやや色茶けていて角が折れていたり、くたびれていた。

「分かりました。取り引き、しませんか。『境界線』へのアイディア流用には、目を瞑ります。だから、咲久良の婚約を、なかったことにしてあげられませんか」
「先生!」

「咲久良はまだ若い。大学へ行って、もっと勉強したほうが、より豊かな人間になれます。結婚は、そのあとでも間に合います。家の都合はあるでしょうが、咲久良の可能性を潰さないでいただきたい」
「……咲久良家は代々、女系の家。だから、この家に生まれた女は、早くに婿を取るしきたりがある。私もそうしたし、この子も同じ」

「結婚はします。でも、相手ぐらいは選ばせて、ママ」
「ただの男ではだめなの。咲久良家の存続がかかっていることを認識し、咲久良家の家訓に染まれる人でなければ。顔だけで判断して、この先生を連れて来たのかしら。それとも、変わった趣味の持ち主? 私に対するあてつけ? わざとでしょ」
「最初は、狙ってやったことだった。だって、土方歳三って、かつてママが盗作した作品の著者じゃない。こんな同姓同名なんて、まずいないもの。でも、先生のことを知るたびに、先生がだいすきになった!」
 俺は本名のまま、作品を公募に出していた。俺の原稿に触れて読んだ咲久良は、俺を知った。そして、高校で出逢った。

 いや、それさえもあやしい。
 咲久良は俺を知っていて、俺が働いている高校を選んで受験したのかもしれない。俺に近づくために。

「先生はおとなしく、みずほの誘惑に乗っていればよかったのに。中途半端に聖職者ぶるのはよくないわ。ほんとうは、みずほの身体が欲しかったんでしょう。今からでも認めるなら、あげてもいいのよ。そうしたら、こちらもみずほとの関係を黙っていてあげる。でも、私のことも同じように愛して」

 とんでもない提案である。取り引きには条件、といったところか。

「先生、けっこう守備範囲が広くていらっしゃるようだし。教師と生徒とその母親の三角関係。ふふふ、新しい作品が書けそう。拒否したら、あなたを社会的に抹殺してあげる。みずほが、先生との仲を必死にアピールして、婚約解消に向けてアピールしていた証拠が、こちらには大量にあるのよ。高校に訴えたら、どうなるかしら」
「ごめんなさい、先生! 婚約解消できるなら、ほんとうは誰でもよかった。でも、あんな無理なお願いを頼めるの、身近には先生しかいなくて。でも、先生っていう職業じゃ、やっぱりアウトだった……みたい」

 坂崎が持っていた証拠写真は、咲久良当人が故意に流出したようだ。

 進んでも地獄、引いても地獄。体面を繕うには、咲久良と冴木鏡子の母子ふたりを相手にしなければならないし、あえて清廉な人間を主張すれば職を失う。

「あやまって済むと思ったら、大間違いだぞ咲久良。この世には、とんでもない悪人が相当数いる。善人面をかぶっている、悪魔がね」
「ママはずるい。私の好きな相手を、次々と奪うんだもの。坂崎さんだけじゃなくて、先生まで?」
「私は、咲久良家の責任を果たした。あなたも早くに結婚して子を生んで、そのあとに好きなことをすればいいじゃない」

 かつての咲久良は、坂崎のことが好きだったのか。確かに見た目は好青年だ、痛いほど分かりやすい。

「さ、先生。私の部屋へどうぞ。みずほも部屋に戻りなさい。これからは、おとなの時間」

 冴木鏡子は俺にしなだれかかった。咲久良のしぐさとまったく同じだ。おそらくは咲久良が真似ているのだろうが、似過ぎていて萎える。

「先生、どうかなさって?」

 反応しない俺に、冴木鏡子が入室を促す。
 俺とは二十ほど違うはずだが、歳の割には若くてきれいな女だと思うし、そもそも歳にはあまりこだわりがない。年上でもいい女は好きだ。しかし、冴木鏡子は受けつけられない。

「できません。あなたとはできません。過去のことはもちろん、孤立無援の咲久良を踏みにじることはできない。咲久良、行こう」
「先生……!」
「俺を辞めさせたいなら、どうぞご自由に。でも、婚約は解消だ。咲久良、行くぞ。それと忠告ですが、三角関係ばかりテーマにするのはどうかと思いますよ、陳腐です。おなかいっぱいです」

 咲久良の手をしっかりつないだ俺は、咲久良家を出ようと廊下を進みはじめた。とにかく、この忌まわしい家を出たい。
 感情で行動するなんてバカげたことをするつもりはなかったのに、俺は担任のクラスの女子生徒を連れて逃げようとしていた。これから、仕事はどうする。結婚はどうする。

 不安そうに、咲久良が俺にしがみついてきた。けれど、必死に笑顔を作っている。相当無理をしているようだ。手が震えている。

「だいじょうぶ、なんとかする。俺にまかせろ」

 そう答えるしかないが、そう言っている俺当人がもっとも不安だ。

 玄関までたどり着くと、人影がふたつあった。

「誰か、いる?」

 怪訝そうに見つめる咲久良に対し、人影のひとつが咲久良に向かって抱きついてきた。

「みずほちゃーん! みずほちゃん。ぼくのかわいい、みずほちゃん!」