「……指示か。それは、母親……冴木鏡子の、指示、なのか」
「ええ、まあそうですね。みすぼさんを手なづけるようにと、命じられまして。それに、彼女と結婚すれば、いずれは父の咲久良の持っている票田が、すっかり手に入る。咲久良剣は国政に出たがっていますし、わたしが我慢、いえ雌伏するのはせいぜいあと数年、といったところでしょうか」
「坂崎さん、見てくれがいいから誰もが騙されそうになるが、あんたと冴木鏡子、お前たちは浮気している仲ってことで間違いないな。旧家が聞いてあきれるよ」

「おやおや。証拠もなく、そのような出まかせを述べたら、あなた逮捕されますよ。それでなくても、教え子に手を出した淫乱担任なんですから」
「手は出していない。あいつは無傷。そっちがそのつもりなら、こっちも訴えてやる。冴木鏡子の不倫、冴木鏡子の盗作活動について、全部ぶちまけてやる。俺は咲久良を信じる。だから、婚約は破棄しろ」

 坂崎は大きく身を乗り出してきた。負けじと俺も、どうだとばかりに酒くさい息を吐いてやった。

「ほう、大きく出ましたね。しかも、冴木先生の作品にケチをつけるおつもりですか」
「ケチじゃない。事実だ。俺は咲久良を守りたい。どうだ、取引きしよう。そちらさんは婚約解消、こちらは浮気と盗作について口を噤む。坂崎さんも男なら、冴木鏡子を奪ってみてはいかがかな」

「政治は清潔なイメージが大切です。略奪結婚など、バカバカしい。人気を失うだけだ。それより、おとなしくみずほさんの婿におさまって、さわやかな好青年でいたほうが、確実に票を獲得できる。まあ、百歩譲って浮気疑惑だけならともかく、盗作ってなんですか。盗作とは」
「文字通り、他人の作品やアイディアを無断で拝借して、ほかの作品に仕立て上げることだよ。かつては、あなたも冴木鏡子の弟子だと聞きました。餌食にされた悔しい覚えはありませんか」

「心外な。先生のお役に立てるならば、むしろ喜びです。咲久良の秘書に推薦いただいただけではなく、現在ではひとり娘の婚約者に決定しているのですから」
「俺には坂崎さんの気持ちが少し、分かる気がしますがね。さて、婚約解消に賛同いただけないのであれば、これ以上席を同じくしても詮無いこと」

 俺は堂々と立ち上がったつもりだったが、足もとがふらついていた。それほど飲んでいないつもりだったのに、酔った。先日咲久良に飲まされたワインといい、俺はワインという酒にはめっぽう弱いらしい。飲み慣れていないものを正念場で飲むような暴挙は、今後一切やめようと誓う。

「証拠がないと、誰も取り合ってくれませんよ」
「浮気については、咲久良が証人になるだろう。盗作のほうの証拠も、めどがついている」
「盗作にめど?」

「用意ができたら、知らせよう。そのとき改めて、今回の取引きに応じるか、マスコミに流すか、決めていただきましょうか」
「こっちだって、証拠はある! 高校の一教師を解雇させることなんて、実に他愛のない仕事だ。退職の理由が病気やケガならともかく、教え子とただならぬ関係の元教師なんて、塾講師や家庭教師にもなれないだろうね」

 そう言い終えると坂崎は、グラスに残っていたワインを一気に飲み干すと、顔中真っ赤にして片手で伝票を握り潰しながら、大声で店員を呼び止めた。息が荒く、目も血走っている。俺以上に酔っている男が、間近にいた。

「経費で落ちますので、ここはわたしが」

 坂崎はやたらと必死だ。

「いや。禍根を残したくないので、半分は出す」
「結構です。外食に出て、咲久良剣の秘書が相手に割り勘させたとあれば、咲久良家の名折れです」

 丁寧だが、話の分からないやつだ。俺は手を振って坂崎と別れた。

「飲めないアルコール、無理に飲むことないのに。小さい人間だな」

 坂崎の外見のよさには少し驚いたが、中身は卑屈で残念な男だった。
 ひっかかるのは、すでに咲久良をものにしたというような坂崎の言いかただった。ほんとうのことなのだろうか。

 酔い覚ましに、近くのコーヒーショップへ立ち寄ったところで、俺の電話が鳴った。咲久良からだった。喋るには面倒な気分だったので、一度目は出なかった。
 また鳴った。二度目は着信拒否にした。うるさい。
 三度目はメールだった。

 俺は、こいつに利用されているだけなのかもしれない。ゆっくりと、着信メールを開く。

『電話に出なさいよ。
 としくんってばひどいな、もう。
 母が予定を切り上げ、明日の午前中に
 帰宅するって連絡が入りました。たいへん!
 今夜中に、母の部屋を調べませんか。
 先生の原稿、あるかもしれない』