駅まで一緒に帰りたい、できれば俺の部屋に泊まりたい、そう駄々をこねる咲久良をなだめ、俺は日没後の職員室に残った。

 すでに、教職員はほとんど帰ってしまった。

 決心がつかず、うだうだとしてしまった自分に喝を入れ、受話器を取り上げる。電話先は『咲久良事務所』。つまり、咲久良の父に連絡をつけようという算段である。

 考えた末に、咲久良の母と先に面談するのは難しいと考えた。
 母の愛人でもある婚約者を押しつけられて咲久良本人はあんな調子なのだ、母との溝は深そうだ。咲久良家を仕切っているのは母親だろうが、父にも話を聞いておきたい。

 それに、母はあの冴木鏡子。

 向こうにはなくても、俺には深ーい遺恨がある。新人賞を持っていかれただけでなく、大切な原稿を盗作されたのだ。十年近く過去のことでも、許せていない。
 あれ以来、創作への意欲が湧かず、すっかり白けてしまって、俺は小説を書かないでいる。

『はい、咲久良事務所です』

 電話に出たのは若い男性の声だった。

「お忙しいところ、突然すみません。私、咲久良さんの娘さん……みずほさんが通っている高校のクラス担任で、土方と申します」

『はあ。土方先生、ですか』

「娘さんの進路のことで、できれば近いうちに面談ができないかと、相談した次第です」

 できるだけ丁寧にへりくだって述べたつもりだが、若い男の声は歯切れが悪かった。

『申し訳ありません。先生はただ今、多忙でして、アポイントメントを取ろうとすると、どんなに早くでも三か月後になります』

「さんかげつ、ご」

 俺は吹き出しそうになった、どんな売れっ子スケジュールだと。けれど、食い下がる。

「娘さんの話です。なんとか、なりませんか」

『みずほさんのお話でしたら、先生の奥さまにご相談されてはいかがでしょう』

 埒があかない。

「俺……いえ、ぼくは父親である咲久良さんと、話したいんです」

『そうおっしゃいましても、ねえ』

 暗に断われている、そう感じても俺は再度食い下がった。

「大切な話です。どうか、配慮できませんか。実は、娘さん本人に聞いたんです。卒業後は即、結婚する予定だと。しかし、それでよいのでしょうか。娘さんは、賢い生徒です。進学を強く勧めます」

『ああ、結婚の話ですか。信じられないのも、もっともですが、真実ですよ。なにしろ、わたしがその婚約者ですのでね』

 電話の相手は、ふふんと鼻でせせら笑ったような気がした。
 なんだ、こいつが坂崎とかいう、冴木鏡子の浮気相手か。ならば話は早い。

「でしたら、あなたでも構いません。どこかで話、できませんか」

『わたしでしたら、いつでもどうぞ。なんなら、今夜でも。仕事はそろそろ終わります』

「奇遇ですね。この電話のあとは、ぼくも帰ろうと思っていたところです」

 あの咲久良が、毛嫌いするほどの婚約者。少し興味がある。

 規格外の太めとか、若いのに後退しているとか、ゴリラ並みに毛深いとか、相当な醜男と読んだ。どんなゴリラ男なのか、見てやろうじゃないか!