「おはようございます」

 翌日、咲久良はいつも涼しい顔で登校してきた。


 気まずいまま、動物園で俺たちは別れた。

 部屋にある咲久良の私物は、次回も使うのでそのままにしておいてほしい、衣類はできたら洗っておいてください、と言われてしまった。
 そんな日がくるのは正直ごめんだが、無理に突き返す気にもなれなかった。

 廊下で、すれ違った咲久良は完璧に一生徒を演じていた。
 スカートの丈はやや短いけれど、制服に校則違反の部分はない。今日は、髪もすっきりひとつにまとめていて、いかにも清楚な女子高校生。全方向、どこにも隙がない。ちょっとでもおかしな部分があれば、会話のきっかけになったものを。

 朝のホームルームの時間に、俺はプリントを配りながら欠伸をしてしまった。

「……で、この進路調査票は、今週中に全員必ず提出のこと。相談なら、いつでも来い。教師として、人生の先輩として、なんでも笑顔で聞いてやる。ここで遠慮したら、一生後悔するぞ?」

 そこで、もうひとつ大きな欠伸。

「せんせー、寝不足ですか」
「きっと、彼女が土日、ずーっと寝かせてくれなかったんだよ」
「やだ、ラブラブなんだ」
「どんな人ですかー」

 昨夜、俺は咲久良のことを考えると眠れなくなってしまった。どうするべきか。どうしたらいいのか、と。生徒の指摘は、なかなか鋭い。

「彼女じゃない、恋人だ」

 とっさに、そう叫んでいた。高校生相手に、なにをむきになってんだ、俺?

「それって、先生。現在進行形で、結婚を考えている相手ってことですか」

 きゃああぁっと、特に女子生徒の歓声が上がった。
 やっぱり、結婚は喰いつくネタなのだろうか。

「そうだ。学校ではこうして厳格な教師をしているが、俺だって中身は二十七のおっさんだ。そろそろかわいい奥さんがほしい。家では、でれっでれに甘えたい……こうやって、生徒諸君にも忌憚なく本音を語ってほしい」

 俺が認めたことで、クラス全体がさらに大騒ぎをはじめる。

「かわいい奥さんなんて、幻想ですよー。家庭と仕事、両立です」
「そうそう、今どき家で待っていてくれる妻なんて、昼間はダンナに隠れてなにをしているか分からないですよ」
「『あなたー、おかえりなさいー』、みたいなのは、二次元の世界だけですってば」

「……いやにドライで現実的だな」

 ふと、横目で咲久良の姿を追ったが、咲久良は俯いたままだった。どんな表情をしているかまでは窺えなかった。

「というわけで、俺も考える。みんなもよく考えて、調査票を出すように。志は高く持て。目標設定は低くすると、いいことはない。目指すハードルは、常に高く! それと、進路先希望は個人情報だから俺に直接手渡すか、ボックスに入れておくように」

 ボックス、というのは、提出物を投函する箱のことだ。土方先生専用箱で、鍵がかかっている。

 学校側としては、少しでも難関大学への進学率を上げたいだろうが、高望みしない限り、ほぼ間違いなく付属の併設大学へ進めるのだ。ぬるま湯につかっている生徒たちのこと、八割か九割はエスカレーターを希望すると俺は踏んでいた。
 それでもいいのだが、若者には少しでも将来のことを考えほしかった。


 創作文芸部の部長は、数少ない国公立大学志望者だ。
 来月の文化祭が終わったら、部長職を二年生に引き継ぐことに決まっている。