……冴木鏡子。

 その名前は、忘れられない。

 かつて俺が、つたない原稿をどうにか仕上げて応募した、小説の新人賞で最終候補に挙がったとき、受賞を争った相手だ。
 片方は受賞し、華々しく衝撃の文壇デビュー。もう片方は落選、地味な高校教師に落ち着いている。

 あのとき、もしも冴木鏡子が応募していなければ、あの年の新人賞は自分のものになっていたかもしれない。デビューして小説家になり、思い描いていた夢の道を突き進んでいたかもしれない。

 そう思うと、ちょっとだけ胸が痛んだ。
 とうに諦めたはずなのに、まだ感傷の残滓が己の奥深くに暗く澱んでいた。

「分かった。外泊を、親にうまくいい訳できるなら、泊めてやろう」

 そう答えたのは、なにも冴木鏡子に復讐してやろうというのではないはずだ。咲久良は咲久良なのに。
 俺の心の内を知るはずもない咲久良は、助手席のシートの上で飛び上がるようにして喜んだ。

「うわ! よかったー。今夜も、婚約者が来る予定なんですよ。家の中には絶対にいたくなくて」
「でも、お前の家って豪邸じゃないか。自分の部屋に籠っていたらお客人がいても関係ないだろ」
「関係あります。大ありです! あの人、深夜になると……夜這い、してくるんです。母も公認だから、たちが悪くて。私の部屋の合鍵も持っているし、家には逃げ場がないんです」

「夜這い? 高校生に? 待て、それは犯罪じゃないか。どんな相手なんだ。言いたくなかったら言わなくてもいいが、それは教師としても、としくんとしても許しがたい」
「父の側近。一応、今では秘書扱いですよ。もとは母のスケジュール管理をしていたアルバイトで、母の浮気相手です」

 そのとき、俺はハンドルを握った手が、すっと冷たくなってゆくのを感じた。咲久良の表情を確かめたかったけれど、こういうときに限ってずっと先まで、無情にも青信号が続いている。

「同情してほしいなんて、考えていません。父は、母方の祖父の選挙地盤を継ぐための婿養子で、咲久良家では浮いています。私が小さいときから、咲久良家は変な家でした。坂崎(さかざき)さん……婚約者だって、今は母のお気に入りというだけで、この先はどうなるかまったく分かりません。坂崎さんは、私の三人目の婚約者なんです。母に振られたら、婚約は解消。だから坂崎さんも、私を早く手に入れようと、必死なんです」
「さんにんめ?」
「前のふたりは、母に飽きられて捨てられました」

 普通に見える女子高生の身の上に、重たいものが乗っかっていたとは。俺は、かけるべきことばを探していた。

「父親には、相談したのか?」
「父は、母のやることを黙認しています。毒にも薬にもなりません。母に嫌われた人生おしまいの人です。だから、家にはあまり寄りつきません。私にも関心がないみたいです」
「身内に、味方がいないってわけか」

「お祖母ちゃんが生きている間はよかったんです。母に意見をしてくれました。お祖母ちゃんは離れに住んでいたので、私もそちらに長くいました。ほぼ毎日。脚が悪かったので、身の回りのことをしたり、学校のことを話して聞かせたり、楽しかったです。高校、お祖母ちゃんの母校なんですよ。でも、先月亡くなって。母や坂崎さんの行動も過激になってきて……」

 確かに、咲久良は先月、身内の忌引で数日間休んだ。そういえばあれは、祖母の喪だった。唯一の、味方だったのか。咲久良の調査票には、祖母と同居とあったが、あの記述は今年度当初のものだ。

「それで俺を誘惑した、と」
「母の見よう見まね。襲われて結婚なんて、絶対にイヤ。『源氏物語』に、そういうお姫さま、いましたよね。私は、イヤ! こっちだって、必死なんです」

『源氏』……玉鬘、のことか。光源氏が大切にしていた義理の娘だが、髭もじゃ男に夜這いされ、結婚という形をとって連れ去られてしまった。

「だからって、いつまでも逃げ惑うわけにはいかないだろ」
「……はい」

 そのあとは、マンションの駐車場に着くまで、俺たちは無言だった。