土曜日の午前中。

 特に出かけるあてのなかった俺は、ふだんよりも時間をかけて念入りに土手のジョギングコースを走った。日課の十キロを少し超えたと思う。今日は富士山がよく見えた。まだ雪はそれほどかぶっていないけれど、青いその姿は凛として美しい。

 今日の一日をどうしようか。
 細々とした仕事がたまっているが、ランニング用の靴を買いに行きたい。ランのシューズは消耗品だ。これをケチっては、ケガや故障につながりかねない。
 それに、観たいDVDもあるし、読んでおきたい本もある。ほんとうは洗濯や掃除もたまっている。お気楽なオトコひとり暮らしとはいえ、たまには片づけないと。


 マンションに戻ってシャワーを浴び終わると、インターホンが鳴った。
 誰とも約束もしていなかったし、せいぜい宅配便だろうと、俺は軽くシャツを着た姿で応対に出た。髪は全然乾いていないので、廊下にぽたぽたと水滴が垂れてしまった。あとで拭こう。

「おはようございます。うわ、かなりくだけた格好ですね」

 目の前に立っていたのは、買い物袋を両手に下げた咲久良だった。
 ショート丈のAラインコート、白のミニスカートの下にまっすぐ伸びる生脚。とくに膝上、太もも。
 男なら、誰でも見てしまうはずだ。教師にだって、下心はある。常に聖人君子ではない。

「先生のお住まい、すてきなマンションじゃないですか。駅近の高層!」

 俺が咲久良の脚を凝視していると、手が塞がっている咲久良は肩で、がつっとドアをおさえてきた。閉められないように。そして、笑顔で。

「呼んでない。帰りなさい」
「いや。上がります」

 肩先の次に片脚を引っかけ、咲久良はドアの内側へ身体を強引に滑り込ませる。
 玄関先は響くので、騒ぎになることは避けたい。とりあえず咲久良を中に通し、ドアを閉めた。

「どうやって入った。ここのマンション、オートロックなのに」

 咲久良は買い物袋を廊下に置き、靴を脱いだ。勝手に上がり込む。

「住人の誰かさんについて来ました。しれっと」
「そもそも、どうして詳しく住所を知っている。最寄りの駅ぐらいは授業中に行ったかもしれないが、お前から年賀状をもらった覚えは一回もないぞ。ストーカーか?」

「先生が出張でお留守の日、事務の人に聞きました。『先生に、頼まれた急ぎの荷物を自宅へ送るよう言われたんですが、住所を聞きそびれてしまいましたー。今すぐ、教えていただけますか』って」
「個人情報を勝手に訊き出すなんて、犯罪者一歩手前だぞ」
「なんだってします。『恋人』の、としくんのためだもの。髪、拭きましょうか」

 咲久良は俺の手からタオルを取り上げ、少し背伸びをすると、わしゃわしゃと髪を拭きはじめた。くすぐったい。

「へえ。意外と、くせ毛」

 白くて細い指が、俺の頭を撫で回す。それに、咲久良の身体からは、軽い香水が漂う。いや、シャンプーだろうか。いかにも女が好みそうな、甘い香りだった。

「も、もういい。乾いた」

 俺は咲久良の手を止め、同じバスタオルでさらっと廊下の床を拭いた。あとは洗濯機に突っ込むだけだ。構わない。

「うちが留守だったらどうした?」
「待ちました。いつまでも。でも、としくん、休日にはあまり出かけないって前に言っていましたし。だったら、起床→ランニング→休憩→ブランチ、出かけるにしてもお昼以降、下手したら夕方から夜かなって」
「……見事な推理力だ」
「どういたしまして。ああ、でも、誰かを連れ込んだりしている可能性はありましたね! もしかして、ベッドに誰か寝ていたり!」
「バカか」

 どうでもいい妄想までも披露してくれた。

「散らかっているからな」

 廊下を先導して、リビングへ移動。
 片づけていない部屋は、ものが散乱している。
 空いた缶ビールはローテーブルの上に数本あるし、ソファは畳まれていな洗濯物で支配されている。ただし、床にものを置かないことだけは厳守しているので、脚の踏み場は確保されている。

「わりと片づいていますね、としくんのお部屋」
「ここはもともと、姉の持ち物なんだ。今、だんなの地方赴任につきあっているから、番人として代わりに住んでいるだけ。期間限定の『すてきなマンション』だ。教師歴の浅い俺じゃ、壁の薄い安アパートがお似合いだ」
「そんなことないです。違和感ないですよ、男前で優等生高校教師のとしくんなら。高層マンションの二十階角部屋。うわあ、眺めいいですね。富士山が見えます」

 咲久良は窓を開けていた。マンションの二十階に吹く強風が、部屋を駆け抜ける。

「陽があるうちに、洗濯をしましょう。としくん、走ってきたばかりですよね。朝食は食べましたか」
「休日の朝は食べない。牛乳だけだ」
「分かりました。お昼は、サンドイッチを作ります。夜はビーフシチューでどうでしょう」

「おい、なにを一体」
「恋人ですから」
「いや、それは外で、というかお前の親に対してだけでじゅうぶんだろう。うちにまで押しかけてきて恋人ごっこなんて、必要ない。それに、部屋の中にまじで誰かがいたらどうしたんだ」

「あれ、としくん。彼女さんいたんですか? おかしいですね、私の集めた情報では、半年前にとしくんが一夜の過ち系な浮気をして、それが当時の彼女さんにバレて、ケンカして別れた、と」
「どうして知っている!」

「なるほど。特定の彼女ではないけれど、現在でもそういう仲の女性はいるってことですね。やーらしー。教師のくせに、遊んでますねえ。この部屋に連れ込んだり、するんですか。酔った勢い的なこと、するんですか。朝、起きたら知らない女の人がとなりに寝ていたこと、あるんですか!」

「……咲久良には関係ないことだ。教師だって、性欲ぐらいある」
「あー。開き直ったな」