*9
「青山さん、お帰り!」
「え、ええっ?」
私は声を上げた。
ホテルの夕食会場で食事を済ませたあと、私はひとりで露天風呂に行った。母や叔母たちは私がスキーをしていた夕方に先に風呂に入っていたから。そして部屋にもどってくるとなぜか酒井さんがその畳の上で胡座をかいて缶ビールを飲んでいたのだ。叔母たちは、青山さんって姉さんも義兄さんも青山さんだから下の名前で呼ばないと駄目よ、と酒井さんに言う。
「じゃあユキちゃん!」
「そうじゃなくて」
事情を聞くと叔母たちがレッスンの礼にと酒井さんを呼んだらしい。若い子の合コンと違い、ズケズケと聞きにくい質問もバンバンしている。年齢、住まい、家族構成、彼女の有無、好きな女性のタイプ……。自分があたかも独身で結婚相手を物色してるかのようだ。酒井さんはそんな叔母たちを相手に酌をしながら答える。25歳で実家住まいで嫁にいった姉がいて、高校卒業と同時にこのホテルに就職し、たくさんの出会いがあるこの職種に感謝します、と流暢にしゃべる。
「年下の男の子だけど、ユキちゃん、酒井さんはどう?」
あのその、と言葉を濁してるとドアをノックする音が聞こえた。入口に一番近い母が立ち上がる。八木田橋さんも呼んだのよ、お世話になったから、と言いながらドアを開けた。八木田橋?
「こんばんは、お邪魔します」
八木田橋は一升瓶を抱えて低姿勢で入ってきた。地酒です、冷やして飲むと旨いので、と窓に向かい窓を開けて、ベランダに積もる雪の中に一升瓶を突っ込んだ。叔母たちは八木田橋を座らせ、まずはビールでと酌をする。そして叔父と母がレッスンの礼を言うと叔母たちが容赦ない尋問を始めた。
「八木田橋さん、お歳は?」
「29です」
「ご家族は?」
「父、母、弟が千葉にいます」
「お住まいは?」
「ホテルの宿舎に入ってます」
「独身?」
「はい」
質問責めに会う八木田橋。たじたじになりながらも答える奴の顔を眺めていた。こうして真面目に答える姿に好青年の言葉がぴたりとあてはまった。
「じゃあ、彼女は?」
一瞬、八木田橋と目が合った。でもすぐに逸らされた。
「……いません」
もちろん私は彼女でもなんでもない。分かってるけど目の前でハッキリと言われて、ちくりと胸が痛んだ。叔母たちは質問を続ける。
「じゃあどんな女性がお好みなの?」
「この通りスキー馬鹿なものですから、それを理解してくれる方が理想です」
私の父をスキー馬鹿と笑った癖に自分のことも同じ言葉で修飾した。そのあとはなぜスキーを初めてなぜここで働いてるのかを尋ねられていた。山岳好きな親の影響でスキーを始め、大学に入ってからは本格的に滑るようになり、技術選で入賞した、そして大学を出てこのホテルに就職した、と八木田橋は話した。
「なぜこのホテルに?」
「スキーを滑ることだけで飯を食っていくのは非常に難しい世界です。就職活動中、ちょうどこちらのホテルで正社員枠でインストラクターを募集していたものですから」
「インストラクターの皆さんって社員じゃないの?」
「ほとんどがアルバイトです。大学生はもちろん、地元の社会人も、週末だけですけど。リフトのシーズンパスが貸与されるのでそれを目当てにバイトされるようです」
「じゃあ、板の開発、というのは?」
不思議に思ったのか母が質問した。
「上位入賞してからは幾つかの会社から声を掛けていただいてまして。本業はインストラクターですからアルバイトのようなものです」
ホテルにはちゃんと許可をいただいてます、レンタルスキーを購入するときに割引も効きますしホテルにもメリットはありますし、と八木田橋は付け加えた。
八木田橋は自分の仕事を雄弁に話した。さっきまで質問責めにされてたじたじだったのに、スキーの話になると目を輝かせてしゃべる。しばらくして八木田橋は、そろそろ冷えたと思います、と言って立ち上がり窓を開けた。ひんやりとした空気が部屋に入り、ほてった頬を撫でる。八木田橋は一升瓶を片手で持ちもう一方で雪を払い詮を開けた。私は部屋の隅にあるミニ冷蔵庫のグラスを取りに行く。それに八木田橋が酒を注ぎ、再び乾杯する。芳醇な香りと濃厚な味の酒だった。軽やかなビールのあとだけに余計にそう感じたのかもしれない。皆が口々に、濃い、腹に染みる、と感想を言う。
「もし軽いのがお好みならロックにすると飲みやすいです」
と八木田橋は言った。私はミニコンビニに氷を買いに行こうと立ち上がる。備え付けの冷蔵庫には冷凍室がなかったから。
「買いに行きましょうか」
「買いに行ってくるね」
同時に発した声が重なる。立ち上がった正面に八木田橋の胸板が見えた。八木田橋も立ち上がっていた。
「やっ……」
あらあら仲のいいこと!、と叔母たちからかわれた。酒井さんも、ヤギは美味しいところ持ってくよね、と煽る。そして叔母たちに、せっかくだから二人で買いに行ったら?、と言われて渋々ふたりで部屋を出た。廊下で八木田橋は無言でスニーカーを履き直した。
「無理してついて来るなよ」
「そっちこそ……」
廊下を並んで歩く。私はホテルの浴衣に羽織りを着ていたけど、八木田橋はあの黒いダウンジャケットを着ていた。エレベーターの前に行き、八木田橋が下りボタンを押す。
「聞いたときは嘘だって思ったけど」
「何がだよ」
「板の開発」
「ああ。ユキの板を見たときは正直驚いた、レディスは限定30本だったし、シリアルナンバーも3と若かったし」
「それでカフェテリアに?」
「あのときは嘘ついて悪かった、普通に声掛けても信じてもらえないと思ったから。俺が作った板がどんな風に滑ってくれるのか見たかったし」
八木田橋は弁明する。そこでエレベーターの到着を知らせる音が鳴った。扉が開き、乗り込む。八木田橋はロビー階のボタンを押した。扉が閉まる。八木田橋は操作盤の上にある階数表示を見上げていた。私は八木田橋の横顔を見るのも苦しくて、俯いた。
自分でもわがままだと思う。合コン目的で声を掛けられた、軽い男だと文句を言い、こうして開発に携わった板を履いていたから声を掛けられたと知ってがっかりしてる自分を。八木田橋はただ、板に興味があって声を掛けただけ。スキー馬鹿が自分の産物に気になっただけ。なら、まだナンパの方がマシだった。だってそれなら私を女として見ていることになるから。少しでも八木田橋のお眼鏡に適った女と言えるから。八木田橋にとって顧客でしかなかった自分……。
直にエレベーターはロビー階に着いてミニコンビニに向かう。八木田橋はカゴを持ち、つまみを次々と放り込む。私は黙ってそれを見ていた。次に八木田橋は冷凍ショーケースに向かいそのガラス扉を開けた。冷たい空気が足元に掛かり、私は身震いした。浴衣に素足、ロビー近くということもあり、玄関の自動ドアが開く度に外気も入る。
八木田橋はカゴを私に差し出した。
「ボーっとしてないで持てよ」
「女に荷物を持たせ、る……」
八木田橋は着ていたダウンジャケットを脱ぎ襟元を持つと、私に一歩近付いて腕を回した。そしてジャケットをふわりと私の肩に掛ける。
目の前には八木田橋の黒いタートルシャツ、このまま見上げたらきっとキスをせがむような格好になると思い、手元のカゴを見た。持ち手に八木田橋の手が近付く。その手は私からカゴを奪い取った。八木田橋は私から離れてレジに向かう。ジャケットを掛けられた背中と手が熱くなる。さっきカゴを奪われたときに八木田橋の指が触れた部分……。こんな風に一挙手一投足に振り回されてるのは私の方だけなんだと思った。
再びエレベーターに乗る。私はジャケットが滑り落ちないように襟元をぎゅっと掴んだ。そのジャケットの襟から男臭い匂いがした。
「誰にでも……」
八木田橋の匂い。
「誰にでもこんなことしてるの? 元カノもこんな風に釣った訳?」
「……」
八木田橋は答えない。完全無視だ。
「それとも菜々子ちゃんみたいに小さい頃から手なずけて、食べ頃になって戴きます、みたいな?」
八木田橋は無言で階数ボタンを押した。扉が閉まる。
「なんとか言ったらどうなのよっ」
「……黙れよ」
「優しくするのは生徒を寝取った口止め料?、それとも今夜も一発お願いしますってこと?、ポケットにアレ忍ばせてるの?」
黙れと言われて黙れる訳もなく、私は八木田橋に突っ掛かる。勝手に口が動く。それでも八木田橋は何も言わなかった。小型犬が大型犬に威嚇するように片方だけが怯えて吠えるみたいに、私だけがしゃべる……。
エレベーターは私をせき止めるように到着音を鳴らし、扉を開けた。先に降りた八木田橋の背中を追いかける。
「どうせ私は顧客なんでしょ? 顧客と遊べてラッキ……」
そう言い掛けたとき、八木田橋が振り返った。そして私の片腕を掴み、壁に寄せた。
目の前には八木田橋の顔面、次の瞬間に唇には少し冷えた八木田橋の唇が重なっていた。バサリ、とコンビニ袋の落ちる音。もう片腕をジャケットの上から押さえ付けるカサカサとした音。目を閉じると自分の心臓の音に混じり、八木田橋の息が聞こえた。身動きが取れない。押さえ付けられてるのもある。驚いたのもある。それより、このまま動きたくない、そう思って唇を八木田橋に委ねる。私が抵抗しないのが分かると、一度離れて顔の向きを変えた。唇を噛むように強くはまれた。重なる吐息、つかまれた腕が痛い。
しばらくして他の客の足音が聞こえて、八木田橋は私から離れた。横を向き、私から目を逸らして。
「……黙らないからだ」
八木田橋はコンビニ袋を拾い上げ、部屋に向かって歩き出した。部屋に入り、八木田橋はロックアイスの袋を開け、割り箸で叔母たちのグラスに氷を落とした。
「ユキさんも入れますか?」
「……はい」
八木田橋はすんなりと私の名にさん付けをした。その敬語に八木田橋との距離を感じた。八木田橋は叔父や母とスキー談議をしていた。ふたりは八木田橋の熱の入った話に耳を傾けて頷いていた。
私はチビチビと地酒を飲む。その冷えたグラスは八木田橋の唇のようで唇が縁に触れる度にさっきのキスを思い出してしまう。キスの意味を考えるけど、八木田橋との微妙な距離に、物理的に私の口を塞ぐための手段にしか思えなかった。
1時間程飲んで会はお開きになった。酒井さんは叔母たちに、また来てください、春には隣のハーブ園も営業しますから、と宣伝していた。八木田橋も叔父と母に、これを機会にスキーを再開してください、と声を掛けていた。
「ユキさんも気をつけてお帰りください」
八木田橋は私にそう告げて部屋をあとにした。酒井さんのようにホテルの宣伝はしなかった。今シーズンこんなイベントがあるとか春スキー割引があるとか、そんなことは言わなかった。まるでまた来いよって口が裂けても言いたくないみたいに。あのキスは耳障りな私の声を塞ぐためのキスで、愛情なんてカケラもない、ただ煩いハエを追い払うためのものだった。やっぱり一夜の遊びだったと知らしめられて、舞い上がる自分を馬鹿みたいに感じた。
「青山さん、お帰り!」
「え、ええっ?」
私は声を上げた。
ホテルの夕食会場で食事を済ませたあと、私はひとりで露天風呂に行った。母や叔母たちは私がスキーをしていた夕方に先に風呂に入っていたから。そして部屋にもどってくるとなぜか酒井さんがその畳の上で胡座をかいて缶ビールを飲んでいたのだ。叔母たちは、青山さんって姉さんも義兄さんも青山さんだから下の名前で呼ばないと駄目よ、と酒井さんに言う。
「じゃあユキちゃん!」
「そうじゃなくて」
事情を聞くと叔母たちがレッスンの礼にと酒井さんを呼んだらしい。若い子の合コンと違い、ズケズケと聞きにくい質問もバンバンしている。年齢、住まい、家族構成、彼女の有無、好きな女性のタイプ……。自分があたかも独身で結婚相手を物色してるかのようだ。酒井さんはそんな叔母たちを相手に酌をしながら答える。25歳で実家住まいで嫁にいった姉がいて、高校卒業と同時にこのホテルに就職し、たくさんの出会いがあるこの職種に感謝します、と流暢にしゃべる。
「年下の男の子だけど、ユキちゃん、酒井さんはどう?」
あのその、と言葉を濁してるとドアをノックする音が聞こえた。入口に一番近い母が立ち上がる。八木田橋さんも呼んだのよ、お世話になったから、と言いながらドアを開けた。八木田橋?
「こんばんは、お邪魔します」
八木田橋は一升瓶を抱えて低姿勢で入ってきた。地酒です、冷やして飲むと旨いので、と窓に向かい窓を開けて、ベランダに積もる雪の中に一升瓶を突っ込んだ。叔母たちは八木田橋を座らせ、まずはビールでと酌をする。そして叔父と母がレッスンの礼を言うと叔母たちが容赦ない尋問を始めた。
「八木田橋さん、お歳は?」
「29です」
「ご家族は?」
「父、母、弟が千葉にいます」
「お住まいは?」
「ホテルの宿舎に入ってます」
「独身?」
「はい」
質問責めに会う八木田橋。たじたじになりながらも答える奴の顔を眺めていた。こうして真面目に答える姿に好青年の言葉がぴたりとあてはまった。
「じゃあ、彼女は?」
一瞬、八木田橋と目が合った。でもすぐに逸らされた。
「……いません」
もちろん私は彼女でもなんでもない。分かってるけど目の前でハッキリと言われて、ちくりと胸が痛んだ。叔母たちは質問を続ける。
「じゃあどんな女性がお好みなの?」
「この通りスキー馬鹿なものですから、それを理解してくれる方が理想です」
私の父をスキー馬鹿と笑った癖に自分のことも同じ言葉で修飾した。そのあとはなぜスキーを初めてなぜここで働いてるのかを尋ねられていた。山岳好きな親の影響でスキーを始め、大学に入ってからは本格的に滑るようになり、技術選で入賞した、そして大学を出てこのホテルに就職した、と八木田橋は話した。
「なぜこのホテルに?」
「スキーを滑ることだけで飯を食っていくのは非常に難しい世界です。就職活動中、ちょうどこちらのホテルで正社員枠でインストラクターを募集していたものですから」
「インストラクターの皆さんって社員じゃないの?」
「ほとんどがアルバイトです。大学生はもちろん、地元の社会人も、週末だけですけど。リフトのシーズンパスが貸与されるのでそれを目当てにバイトされるようです」
「じゃあ、板の開発、というのは?」
不思議に思ったのか母が質問した。
「上位入賞してからは幾つかの会社から声を掛けていただいてまして。本業はインストラクターですからアルバイトのようなものです」
ホテルにはちゃんと許可をいただいてます、レンタルスキーを購入するときに割引も効きますしホテルにもメリットはありますし、と八木田橋は付け加えた。
八木田橋は自分の仕事を雄弁に話した。さっきまで質問責めにされてたじたじだったのに、スキーの話になると目を輝かせてしゃべる。しばらくして八木田橋は、そろそろ冷えたと思います、と言って立ち上がり窓を開けた。ひんやりとした空気が部屋に入り、ほてった頬を撫でる。八木田橋は一升瓶を片手で持ちもう一方で雪を払い詮を開けた。私は部屋の隅にあるミニ冷蔵庫のグラスを取りに行く。それに八木田橋が酒を注ぎ、再び乾杯する。芳醇な香りと濃厚な味の酒だった。軽やかなビールのあとだけに余計にそう感じたのかもしれない。皆が口々に、濃い、腹に染みる、と感想を言う。
「もし軽いのがお好みならロックにすると飲みやすいです」
と八木田橋は言った。私はミニコンビニに氷を買いに行こうと立ち上がる。備え付けの冷蔵庫には冷凍室がなかったから。
「買いに行きましょうか」
「買いに行ってくるね」
同時に発した声が重なる。立ち上がった正面に八木田橋の胸板が見えた。八木田橋も立ち上がっていた。
「やっ……」
あらあら仲のいいこと!、と叔母たちからかわれた。酒井さんも、ヤギは美味しいところ持ってくよね、と煽る。そして叔母たちに、せっかくだから二人で買いに行ったら?、と言われて渋々ふたりで部屋を出た。廊下で八木田橋は無言でスニーカーを履き直した。
「無理してついて来るなよ」
「そっちこそ……」
廊下を並んで歩く。私はホテルの浴衣に羽織りを着ていたけど、八木田橋はあの黒いダウンジャケットを着ていた。エレベーターの前に行き、八木田橋が下りボタンを押す。
「聞いたときは嘘だって思ったけど」
「何がだよ」
「板の開発」
「ああ。ユキの板を見たときは正直驚いた、レディスは限定30本だったし、シリアルナンバーも3と若かったし」
「それでカフェテリアに?」
「あのときは嘘ついて悪かった、普通に声掛けても信じてもらえないと思ったから。俺が作った板がどんな風に滑ってくれるのか見たかったし」
八木田橋は弁明する。そこでエレベーターの到着を知らせる音が鳴った。扉が開き、乗り込む。八木田橋はロビー階のボタンを押した。扉が閉まる。八木田橋は操作盤の上にある階数表示を見上げていた。私は八木田橋の横顔を見るのも苦しくて、俯いた。
自分でもわがままだと思う。合コン目的で声を掛けられた、軽い男だと文句を言い、こうして開発に携わった板を履いていたから声を掛けられたと知ってがっかりしてる自分を。八木田橋はただ、板に興味があって声を掛けただけ。スキー馬鹿が自分の産物に気になっただけ。なら、まだナンパの方がマシだった。だってそれなら私を女として見ていることになるから。少しでも八木田橋のお眼鏡に適った女と言えるから。八木田橋にとって顧客でしかなかった自分……。
直にエレベーターはロビー階に着いてミニコンビニに向かう。八木田橋はカゴを持ち、つまみを次々と放り込む。私は黙ってそれを見ていた。次に八木田橋は冷凍ショーケースに向かいそのガラス扉を開けた。冷たい空気が足元に掛かり、私は身震いした。浴衣に素足、ロビー近くということもあり、玄関の自動ドアが開く度に外気も入る。
八木田橋はカゴを私に差し出した。
「ボーっとしてないで持てよ」
「女に荷物を持たせ、る……」
八木田橋は着ていたダウンジャケットを脱ぎ襟元を持つと、私に一歩近付いて腕を回した。そしてジャケットをふわりと私の肩に掛ける。
目の前には八木田橋の黒いタートルシャツ、このまま見上げたらきっとキスをせがむような格好になると思い、手元のカゴを見た。持ち手に八木田橋の手が近付く。その手は私からカゴを奪い取った。八木田橋は私から離れてレジに向かう。ジャケットを掛けられた背中と手が熱くなる。さっきカゴを奪われたときに八木田橋の指が触れた部分……。こんな風に一挙手一投足に振り回されてるのは私の方だけなんだと思った。
再びエレベーターに乗る。私はジャケットが滑り落ちないように襟元をぎゅっと掴んだ。そのジャケットの襟から男臭い匂いがした。
「誰にでも……」
八木田橋の匂い。
「誰にでもこんなことしてるの? 元カノもこんな風に釣った訳?」
「……」
八木田橋は答えない。完全無視だ。
「それとも菜々子ちゃんみたいに小さい頃から手なずけて、食べ頃になって戴きます、みたいな?」
八木田橋は無言で階数ボタンを押した。扉が閉まる。
「なんとか言ったらどうなのよっ」
「……黙れよ」
「優しくするのは生徒を寝取った口止め料?、それとも今夜も一発お願いしますってこと?、ポケットにアレ忍ばせてるの?」
黙れと言われて黙れる訳もなく、私は八木田橋に突っ掛かる。勝手に口が動く。それでも八木田橋は何も言わなかった。小型犬が大型犬に威嚇するように片方だけが怯えて吠えるみたいに、私だけがしゃべる……。
エレベーターは私をせき止めるように到着音を鳴らし、扉を開けた。先に降りた八木田橋の背中を追いかける。
「どうせ私は顧客なんでしょ? 顧客と遊べてラッキ……」
そう言い掛けたとき、八木田橋が振り返った。そして私の片腕を掴み、壁に寄せた。
目の前には八木田橋の顔面、次の瞬間に唇には少し冷えた八木田橋の唇が重なっていた。バサリ、とコンビニ袋の落ちる音。もう片腕をジャケットの上から押さえ付けるカサカサとした音。目を閉じると自分の心臓の音に混じり、八木田橋の息が聞こえた。身動きが取れない。押さえ付けられてるのもある。驚いたのもある。それより、このまま動きたくない、そう思って唇を八木田橋に委ねる。私が抵抗しないのが分かると、一度離れて顔の向きを変えた。唇を噛むように強くはまれた。重なる吐息、つかまれた腕が痛い。
しばらくして他の客の足音が聞こえて、八木田橋は私から離れた。横を向き、私から目を逸らして。
「……黙らないからだ」
八木田橋はコンビニ袋を拾い上げ、部屋に向かって歩き出した。部屋に入り、八木田橋はロックアイスの袋を開け、割り箸で叔母たちのグラスに氷を落とした。
「ユキさんも入れますか?」
「……はい」
八木田橋はすんなりと私の名にさん付けをした。その敬語に八木田橋との距離を感じた。八木田橋は叔父や母とスキー談議をしていた。ふたりは八木田橋の熱の入った話に耳を傾けて頷いていた。
私はチビチビと地酒を飲む。その冷えたグラスは八木田橋の唇のようで唇が縁に触れる度にさっきのキスを思い出してしまう。キスの意味を考えるけど、八木田橋との微妙な距離に、物理的に私の口を塞ぐための手段にしか思えなかった。
1時間程飲んで会はお開きになった。酒井さんは叔母たちに、また来てください、春には隣のハーブ園も営業しますから、と宣伝していた。八木田橋も叔父と母に、これを機会にスキーを再開してください、と声を掛けていた。
「ユキさんも気をつけてお帰りください」
八木田橋は私にそう告げて部屋をあとにした。酒井さんのようにホテルの宣伝はしなかった。今シーズンこんなイベントがあるとか春スキー割引があるとか、そんなことは言わなかった。まるでまた来いよって口が裂けても言いたくないみたいに。あのキスは耳障りな私の声を塞ぐためのキスで、愛情なんてカケラもない、ただ煩いハエを追い払うためのものだった。やっぱり一夜の遊びだったと知らしめられて、舞い上がる自分を馬鹿みたいに感じた。