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 八木田橋の言う通り、スキー場に続く県道ではスリップした車が路肩に突っ込んでいた。
 高速を降り、自宅にもどる。もう19時を過ぎていた。荷物を持って家の玄関に行くと、ドアフォンを押す前に扉が開いた。母だ。スキーから帰宅するときはいつもこうしてエンジンの音を合図に出迎えてくれる。
 荷物をおろしてまず、和室の仏壇に手を合わせた。亡くなった父に無事帰宅したことを報告する。そしてたった数日で恋に落ちて、知り合ってたった数日で体を重ねたフシダラな娘を許してくださいと詫びた。しかも古臭い滑りだと、ひとり娘にユキと名付けたスキー馬鹿と父を笑った男と。でも仏壇の中にある小さな遺影の父はただ笑うだけだった。
襖一枚隔てたダイニングから母が私を呼ぶ声がする。返事をしてもう一度手を合わせてダイニングに行くと、母が三段重を広げていた。
「二人分って難しいわね」
 苦笑いした母の前にはふたりで食べ切るには1週間も掛かりそうな量のお節料理。
「お父さん、喜んでるよ」
 母の手料理が好きだった父。父がいた頃はいつも年末にふたりでスキーに行き、母は留守番をしながらお節を仕込んでいた。私が小さい頃は母も一緒に雪山に同行したけど、元来寒いのが苦手な母は私が小学生になってからはほとんどスキーに行くことはなかった。スキーから帰ると伊達巻きを焼く甘い匂いがして、手も洗わずに摘み食いして母によく怒られた。
「スキー、どうだった?」
「あ、うん。楽しかったよ。景色も良かったし」
「ひとりで寂しくなかった?」
「うん」
 父が亡くなってから初めて出たスキー。4泊5日の旅行は八木田橋に始まって八木田橋に終わった。寂しいなんて感じる暇もなかった。
 徳利を2本空けてホロ酔いになり、荷物の片付けもそこそこにお風呂に入って部屋に行く。
 小さいテーブルの上に除光液とコットンを出した。もう剥がれちゃった訳じゃない。一番好きなパステルオレンジのネイルカラー。雪のシール。
『どこもかしこも雪か』
『こんな爪してるから料理なんてしないのかと思った』
 八木田橋に後ろから抱きしめられたのを思い出した。大きな手で私の手をすくい、そして優しく包み込んで。
『たった3日で……俺、軽い、か?』
 私だってたった3日だった。4日目には自分の気持ちを確信して、八木田橋を誘った。あの台詞は八木田橋の本心だって気がした、私と同じ気持ちだって。でも八木田橋はきっとあんな台詞は誰にでも吐いてるに違いない、あのあとに参加した合コンだって、たった1時間で軽いか?、なんて地元のコを送るついでに手をつないだりして、ちゃっかりキスもしてたりして。
「ふんっ、くっそ~!」
 コットンに除光液を含ませるのも面倒になって、直接爪に振り掛けた。そしてコットンでもみくちゃに擦る。八木田橋に綺麗な私を見せて損した、必死に化粧して損した、このネイルと共に綺麗サッパリ忘れてやる、と何度も除光液を掛けてはゴシゴシ擦ってこそげ落とした。きっと爪が傷んで欠ける、でももういい、しばらくネイルなんてやるもんか、と意地になって落としていた。
「よしっ」
 ラメもひと粒残さず綺麗に落とし満足して爪を眺めるけど、八木田橋を忘れられるはずもなかった。過剰反応してる自分にも笑えた。でも、3日で恋に落ちたんだ、3日で忘れればいい、そう言い聞かせてベッドに入って目を閉じた。
 翌日。仕事に行く。前倒しで正月休みをもらったから。今日から出勤するのは私だけ。通用口でアラームを解除し、誤解を招かぬようにブラインドは閉じたままにして室内の蛍光灯をつけた。
 200床以上を持つ大きな病院の前に構える調剤薬局。薬剤師だけでも10人いるし、事務も私を含めて5人はいる。5年も続けないと正社員にしないのは会社が人件費を削るためと窓口に若いコを置きたいからだと噂もあって、27歳の私はお局に近い状況だった。私立の四大を出してもらって契約社員、両親には申し訳なく思った。でもやっと正社員になって胸を張って歩けるようになった。
 ひとりだし患者さんも来ないし、普段は禁止のコーヒーを飲みながら仕事を進めた。スマホが鳴る、メールの着信音だ。マウスを操作する手を止めて脇に置いたスマホを手にした。画面には知らないアドレス、件名は“あけましておめでとうございます”。そのタイトルに八木田橋ではないのは分かった。自分にため息をつく。メールの着信になぜ八木田橋の名を一番に思いつくのか。八木田橋のスマホをあの雪の中に投げ入れてしまったのに。
 メールを開けると、スキースクールからのメルマガだった。
『明けましておめでとうございま~す! お節に飽きたらカレーは古いですよ、スキー&スノボです!』
 酒井さんらしいフレーズで顔がほころんだ。初心者、中級者、上級者別にワンポイントアドバイスが載っていて、シーズン2回目以降は割引があること、検定も実施していることが書かれていた。卒のない文章に感心しながら画面を送っていると、最後に画像が出てきて、息を飲んだ。
「え……」
 それでは最後にレッスン風景です、と八木田橋が小さい女の子を教えてる画像が映し出されていた。
『昨年に引き続きレッスンに参加した菜々子ちゃん。今回も八木田橋インストラクターをご指名です』
 そして2枚目の画像では、屈んだ八木田橋に“菜々子ちゃん”がキスをしていた。指名料金はいただきません、サイトからも申し込みできます、お気軽に、メルマガ担当酒井、と締めくくられ、スクールとスキー場のホームページアドレスが載せられていた。
「じゃあ……」
 画像の下には1月1日撮影と記されていて、昨日の画像ということになる。
『当たり前だろ。お前なんかより若くて素直で可愛い子だし』
『ちゃんと可愛くおねだりもするぞ、キスして、って』
「や、やだ……」
 顔がカーッと熱くなる。両手で頬を押さえた。昨日、ホテルを出るときに酒井さんが言ってたご指名の相手は、年頃の女性ではなくこんな小さな女の子だった。なのに私は勘違いして……。
 スマホの中の小さな画像を眺める。嬉しそうにキスをする女の子、照れて目をつむる八木田橋。
「ヤギ……」
 私は、あのとき酷いコトを言った気がする。記憶を辿るけど頭に血が昇ったときの台詞を逐一覚えてるはずもなくて。でも、スマホを放り投げた私を呆れた表情で見ていた八木田橋を覚えている。あれが最後に見た八木田橋の顔。
「そっちが喧嘩仕掛けに話してくるからじゃない……」
 八木田橋がいる訳でもないのに、八木田橋に言うように呟く。画像の中の八木田橋は口元を緩ませてキスを受けているだけ。でも、こんな八木田橋の顔を見れて良かった。このメルマガが来なかったら、あの呆れ顔の奴の顔で終わるところだった。
 今更どうなることもないのに、私はそのメルマガを一度閉じて八木田橋からの受信メールを開いた。そのメールに返信を打つ。打ったところで八木田橋にメールは届かない。スマホは雪に埋もれてるし、新しく購入するにもショップはお正月休みで開いてないだろうし、仮に開いていても麓のショップまで行く暇もないだろうし。
『ごめんなさい』
 ただひとことだけ打って送信した。届かないけれどひとこと詫びたから、少しだけ罪悪感が薄れた。
 再び仕事にもどる。カチカチとマウスを鳴らしながら患者さんひとりひとりのカルテをチェックする。しばらくしてお昼になり、お節の詰まったお弁当箱を開けて食べる。するとスマホが鳴った。メールの着信音。口を動かしながら、スマホを手にする。画面に浮かぶタイトルは『RE:八木田橋岳史』、発信元は多分、八木田橋のアドレス。
「んっ。ん……?」
 口の中のお節を飲み込んで、深呼吸してからメールを開いた。
『本文:アホ』
 たったひとこと、アホ。八木田橋の口癖。間違いなく八木田橋からのメールだ。じゃあ、あの雪の中、スマホを探したってこと?
「アホ……」
 思わずニンマリした。と同時に恥ずかしくなった。届かないと思って素直に謝ったのに。
『本文:アホって何よ、アホ』
 つい、突っぱねてしまう。送信ボタンを押して再びお弁当のお節を口に入れる。すぐにメールが返って来た。
『本文:“アホって何よ、アホ”、って何だよアホ!』
『本文:“アホって何よアホ、って何だよアホ!”って何よアホ!!』
『本文:“アホって何よアホって何だよアホ!って何よアホ!!”って何だよアホ!!!』
 そんな馬鹿なやり取りを繰り返して、返って来たメール。
『アホ。』
「あ……」
 たったひとこと、その文字の下に数字の羅列が記されていていた。“090”で始まる、11桁の数字。
「ヤギのスマホ番号……?」
 画面の中で色が反転する数字。恐る恐るボタンを押してスマホを耳に当てる。わずかワンコールでつながった。
「アホなメール送るな」
「そっちこそ」
 八木田橋のスマホとつながって、八木田橋の声が聞けて、胸がいっぱいになる。言葉につまって沈黙してしまう。どうしていいか分からなくてそのままスマホを耳に押し当てるけど、嫌な緊張感はなかった。無言でいてもホッとする安堵感。
「……ちゃんと帰れたんだな」
「うん」
「八木田橋は、ひとりだと何かあったときに身動きとれないからさ。今度……」
 今度? 八木田橋が少し言葉を詰まらせた。何か言われるのかと期待に心臓が高鳴る。
「……今度行くときは出来るだけ複数で行けよ」
「あ、うん……」
 少しチクンと来た“行く”という単語。“来る”じゃなかった。“今度来るときは”ではない八木田橋の言葉に急に寂しくなった。