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 昨夜、八木田橋は行為を終えるとしばらく腕枕をした。ただ無言で私の髪を梳いていた。明日は1月1日。人手も足りないらしく、早朝から雪掻き要員として借り出されてる、と八木田橋は話してベッドから降りた。そして支度をすると、アイスバーンに新雪はチェーンでも滑るから気をつけて帰れよ、とだけ言って部屋を出ていった。
 朝目覚めてくすぐったい感触に身震いする。裸で布団に入っていた。誰が見ている訳でもないのに恥ずかしくて毛布を引っ張り、鼻の頭を隠す。掛け布団から八木田橋の匂いがする。思い出して照れた。抱かれた。八木田橋に抱かれた。起き上がり、ユニットバスに入りシャワーを浴びる。私が八木田橋の首筋にキスマークを付けたあと、仕返しとばかりに八木田橋は私の体中に跡を付けまくった。たくさんのキスマークに嬉しくて照れ臭くて、体を見ずに洗い流す。
 服を着る。冷蔵庫にわずかに残った食材で朝食を済ます。支度をしながら着替えや化粧品など荷物をまとめる。チェックインしたときと同じ殺風景な室内に、昨夜の出来事が浮かび上がる。八木田橋が立ったミニキッチン、八木田橋が座った場所、甘く絡み合ったベッド。八木田橋の姿が目に浮かんで胸がいっぱいになった。私はこれからチェックアウトをする。最後のスキーを楽しむ。今日もひとりで滑るし、自宅までひとりで帰る。その直近の未来絵図に八木田橋の姿はない。この部屋を出たら八木田橋のことは忘れよう。ゲレンデの恋なんて雪が溶ければ消えてなくなる……。
 チェックアウトを済ませ、荷物を預けようとクロークに向かうと酒井さんがいた。グレーのジャケットにモスグリーンのネクタイ姿。人手不足で酒井さんもホテル側に借り出されてるようだった。カウンター越しに私の荷物を抱えると、また来てね、とにやけた顔で言った。
「やっぱ青山さんもヤギ狙い?」
「いえ。別に」
「またまた~、格好つけちゃって。だったら昨夜、来れば良かったのに」
「昨夜?」
「年越し合コン。ヤギも来たよ、だいぶ遅刻したけどさ」
「合コン?」
「あれ、 聞いてなかった? ヤギに青山さんも誘ってって頼んだのに。人数多い方が楽しいじゃん」
 酒井さんは、女の子はスタッフのコとか地元のコとかみんなピンでバラバラだったし、ざっくばらんで楽しかったよ、とかなんとかひとりでペラペラと話す。私は適当に相槌を打った。だって頭の中では昨夜のあの後の八木田橋の行動を想像していた。早朝から仕事だって言って出ていった八木田橋は合コンに参加するために帰った、ってこと?
「メルマガ登録してたよね、俺、担当だからメルマガ送るね」
「八木田橋さんは……」
「レッスンに出てると思うよ、指名入ってたし。ヤギもタフだよね。スクールの仕事をこなして夜中まで飲んで地元のコ歩いて送って朝から雪掻きだし」
 合コン、指名。へえ。
 きっとどこかで引っ掛けた女の子に指名させたんだ。ゲレンデとか昨夜の合コンとか? 私を抱いた後に参加した合コン……怒りを通り越して呆れた。
 もう考えるのよそうって思う。八木田橋が合コンに参加しようが地元のコを送っていこうが指名されてようが関係ない。スマホに元カノの画像があったって関係ない。なのに私は考えてしまうし、いや、考えたくもないのに頭の中が八木田橋の勝手な行動で埋め尽くされ、カーッとなるのが分かった。
 酒井さんとは別れ、ゲレンデに出る。まだ10時前で赤いウェアの姿はなかった。
 レッスンには使わないコースってどこだろう。八木田橋の姿なんて見たくない。リフトを乗り継いで無意識にやってきたのはあのコブ斜面だった。その斜面を一気に滑り降りる。八木田橋がビンディングを調整してくれたから楽に滑ることができた。今頃、八木田橋は誰かを教えてる。あの、一昨日の、お揃いのウェアを来て滑ったときみたいに、ずっとひとりだけを見てずっとひとりだけに話し掛けて。泣いた私の頭を帽子の上から撫で、近付いてゴーグルの中をのぞき込んだ……まるでキスするみたいに。
「ヤギ……」
 チョコの味のするキスを思い出した。そして誰かが八木田橋とキスするのを想像し、ブンブンと頭を振った。
 馬鹿みたい。
 遊ばれてもいいって、一晩だけでもいいって、八木田橋を部屋に誘った癖に。実際こうして八木田橋が他の女の子と遊ぶのを知って動揺してる……。
 お昼になり中腹のロッジを選んだ。麓のレストハウスだとスクール小屋が近くて八木田橋にバッタリ会ってしまいそうだから。空いた席に座る。隣には4人家族がいた。父親が生ビールのジョッキを手にする。小学生位の男の子が口の回りをミートソースだらけにして母親に怒られる。小さい女の子が私が取ってきたケーキを見て、ワタシも食べたいと泣き始める。親子4人。どこにでもある光景だ。どこか暖かくて、くすぐったくて。自分をその母親に当てはめてみるけど、私の隣には誰もいなくてないものねだりだと気付く。好きになった男は遊び人で、私を見てはいなくて、こんなに男を見る目がない私には家庭を築くなんてとても無理なことだと思った。
 ふと前を見る。赤いウェアの大男がこちらに向かってくる。まっすぐ私を目がけて。息が止まる。だってそれは八木田橋だったから。
「おう。ここだったか」
 私に断りもせず、向かいの席の椅子を引いた。朝から避けていた相手。心臓が音を立てて鳴り始める。
「下のレストハウスにいなくてさ。こっちだったんだな。あの坂道でスリップした車が何台か立ち往生してるらしいから気をつけて帰れよ」
 私はどう返事していいか分からなかった。八木田橋が何事もなかったかのように話しかけるその態度が引っかかった。八木田橋はなんともなくて、動揺してるのは私だけだ。
「どした?」
 黙る私を変に思ったのか、八木田橋は前のめりになってテーブル越しに私の顔をのぞき込んだ。そしてニヤニヤと笑い出した。
「なんだ、照れてるのか?」
と私をからかい始めた。一瞬にして昨夜のことが頭を駆け巡る。八木田橋の唇、指、手のひら……。昨夜のキスを愛撫を思い出してしまった。でもその唇も指も手のひらも、他の子を愛撫する。今夜にでも、もしかしたら昨夜の合コンの女の子にも既に触れたかもしれない。そう思うと悲しい気持ちより腹立たしい気持ちのほうが大きくなってきた。
「ユキ、顔が赤いぞ。思い出してんのか? ユキって意外とウブなんだ?」
「……合コンに出たって本当?」
「ああ、あれ」
「女の子送って行ったって本当?」
「ああ。だってしょうがねえだろ。あれは……」
「い、言い訳するの?」
 八木田橋は、ヤキモチかあ?、と私を更におちょくる。
「ムカつく! あんたみたいなチャラ男に妬いたりしないわよっ」
「なんだよ、人を遊び人みたいに」
「今日だってご指名入ってんでしょ? どうやって連れ込むか考えながら教える訳?」
「アホ」
「ア……」
「今日の子は去年教えた子が直々に俺を指名してきてさ」
「なあんだ、去年のうちに唾付けてたんだ?」
「当たり前だろ。お前なんかより若くて素直で可愛い子だし」
「なっ……!」
「ちゃんと可愛くおねだりもするぞ、キスして、って」
 呆れて返答も出来ずにいると八木田橋のスマホが鳴った。内ポケットから取り出し、通話を始める。ああ、もうこんな時間か、と話しながら壁の時計を見る。12時50分。間もなく午後のレッスン開始時間になる。八木田橋は、すぐもどる、と返答して通話を切った。
「そんなんだから彼女にフラれるのよっ。もっと大切にしたら?」
「お前に言われなくても大切にしてたぜ?」
「じゃあ、彼女が悪いって言うの? 冬が終わって板を脱いだアホ男には興味がないってバッサリ切った訳?」
「彼女のこと悪く言うなよ、アホ」
「ア……」
 自分でも分かってる。彼女を大切にしてっていうのは、私も大切にしてという願いを込めてるのも。でも私は八木田橋の彼女じゃなくて一晩遊んだだけのオモチャだっていうことも。それでも素直に好きって言えなくてフラれるのが怖くて、目の前にいるのにしがみつけなくて、悪態を付く。怒りにやるせなさに惨めさに全身の皮膚が震えた。
「ヤギ、スマホ」
「はあ?」
「だからスマホ! いいから貸して」
 八木田橋は渋々スマホを私に差し出した。データフォルダを開き、スクロールした。すると可愛い女の子の写真が出てきた。赤いウェアの隣に寄り添う彼女。リフトに乗っているところを自撮りしたのか、背景にはキラキラ輝く湖が見えた。今どきのふんわりカールの巻き髪、ピンクのネイル。私よりずっと若い。二十歳位……。
「……代金は払ったよね、私」
「代金? ああ、買い替えのか?」
「……労働の対価も支払ったよね」
「おい、まさか……?!」
 私は席を立って窓に向かって早足で行く。そして窓を開けて深々と降り積もる冬木立に向かってスマホを放り投げた。
「おいっ、ユキ!」
 白いスマホはゆっくりと弧を描くと、白い雪に埋まり、姿を消した。
「職権乱用して私のアドレス入れたから消したのっ」
「まだ怒ってたのかよ」
「大体、嘘ついてレッスン代出させて女をもてあそぶからよ! チャラ男詐欺師!」
「ったく……」
 八木田橋はため息をついて窓を閉めた。そして、気をつけて帰れよ、とまた同じ台詞を吐いてレストランを出て行った。
八木田橋はスマホを探すこともなく、板を履くと斜面を直滑降で下りて行った。すぐに探せばスマホ自体が作った穴で見つけられたはずだと思うけど、雪は降り続いていたからレッスン終了後に見つけるのは至難の業だろう。ましてや色は白だ。