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『個人情報引き出すなんて職権乱用じゃない? 315』
 315、サイコーとか最後なんて語呂合わせじゃない。3桁の数字はコンドミニアム棟の部屋番号。一般客室は4桁だからホテルに精通してる人間ならピンと来るはず。私は敢えて部屋番号だとは印さなかった。
 自分から会いに来て、なんて言いたくなかった。それは八木田橋に対して素直に意志を表すのが癪だったのもあるし、女の私から男の八木田橋を誘うのも自分を下げてるようで嫌だったから。
 それに真っ正面から誘って断られるのも怖かった。私に声を掛けたのはほんの遊び。スマホを壊されたフリでレッスンに付き合わせてあわよくば合コンに持ち込むつもりだった八木田橋にストレートに告白したら逃げられる、そう思った。
 遊びならそれでもいい。ひと晩ならそれでもいい。せめて今夜だけ八木田橋を独り占めしたかった。今夜、合コンになんて行かせたくない。今後八木田橋には合コンする機会はたくさんある。だから今夜くらい私と過ごしてってお願いするのはわがままじゃないって自分に言い聞かせて……。
 午後はスキーを諦めて冷蔵庫に残った食材の仕込みをする。買い込んだ食材が勿体ないから食べてほしい、と彼を誘うつもりだ。
 それから私はホテル内にあるコンビニに行き、板チョコとホットケーキの素とコーヒーのクリームを購入した。八木田橋の好きなチョコレートケーキを焼くためだ。コンドミニアムの部屋にはオーブンもケーキ型もないけれど、炊飯器で焼く話を思い出したから。コンビニにはホイップクリームはなくて、板チョコを溶かして牛乳とコーヒークリームで延ばして生チョコ風にしてサンドすることにした。車を出して麓のスーパーまで買いにいくという手段もあったけど、わざわざ八木田橋のために用意したみたいに取られるのも嫌だった。あくまで残り物のスタンス。
 もし八木田橋が来なければ来なくてもいい。そういう運命だったとあきらめるだけ。来たって来なくたって、この旅行限りの縁。結ばれないのは見えている。食材だって生ものは持ち帰れないから捨てるだけだし。
 ケーキが焼きあがると部屋はチョコの香ばしい匂いで満たされた。皿に取り、冷ます。生チョコを作る。湯煎でチョコを溶かし、コーヒークリームを温め、溶けたチョコに少しずつ流し込む。
あらかたの仕込みを終え、髪をブローする。メイクをする。ピアスを付ける。そして最後にマニキュアをする。淡いオレンジを下地に雪の結晶のシールを貼り、ラメ入りのパールホワイトを爪の先に乗せた。淡いブルーもパープルもポーチには入っていたけど、このパステルオレンジが私の指の色には映えるから。
 最後に塗ったトップコートがキチンと乾く頃には17時を過ぎていた。窓の外はもう暗くなっている。マニキュア独特の匂いとチョコの甘い香りが入り混じる室内に気付いて、窓を開けた。入り込む冷たい空気に身が引き締まる。窓から入り込んだ雪の粒は床に落ちてすぐに形を無くした。
 すると金属製のドアをノックする鈍い音が聞こえた。窓を閉めてドアに向かう。扉を引くと黒いダウンジャケットの男性が立っていた。八木田橋。笑ってはいなかった。
「よく分かったわね。いつもそうやって引っ掛けた女の子の部屋に夜這いしてた?」
「アホ。そんなんじゃねえよ……。飯、行くか? 麓に美味いイタ飯屋があるんだ。詫びにおごるし」
 八木田橋が車のキーを摘んで揺らした。
「た、食べ物でごまかす気?」
「ごまかす気なんてねえよ。ただ現金返しても受け取らないと思ったし」
「夕飯、もう作っちゃって」
「そうか……」
 目を逸らさずに八木田橋の顔色をうかがう。食事の誘いを断られたからか少し大きめの息を吐いて頭を掻きながら俯いた。
「ヤ……ヤギがお昼付き合わせたりするから買い込んだ食材余っちゃって……。せ、責任取って食べてよ」
八木田橋が顔を上げた。再び見つめあう格好に心臓がバクバクするのが分かる。指を折り込んだ手が震えている。お願い……。そう、祈りながら返事を待った。答えを聞くのが怖くて目を逸らしたくなる。でも私を受け入れる気があるのか、八木田橋の一瞬の表情の動きも見逃したくなかった。
「……そういうことなら遠慮なく」
 八木田橋は摘んでいたキーをダウンジャケットのポケットに突っ込んだ。OKしてくれた。ほっとして私は室内用のスリッパを出すフリして俯いた。よかった。八木田橋と一緒に過ごせる。
「ちゃんと食えるんだろうな?」
「あーったり前でしょ!」
 いつもの調子に八木田橋がもどしてくれた。そそくさと部屋に入る。冷蔵庫を開けて用意した食材を出した。
「飲むのか、ワイン」
「うん。飲む?」
 ミニキッチンの調理台に置きっぱなしのボトルが目に入ったんだと思った。グラスを棚から出して注ごうとしたけど、もう残りわずかだった。
「あ……」
「俺、買ってくるわ」
 何か他に必要なモンあるか?、と言いながら八木田橋はスニーカーに履き変える。私は、ううん特に、と返事をする。そして八木田橋が出ていた間に用意をする。蒸し器もないから鍋に浅く水を張り、蒸し器の変わりにする。フライパンに油を入れて揚げ焼きにする。10分程して八木田橋はもどってきた。手伝うことあるか?、と言ってダウンジャケットを脱ぎ、壁に掛けた。ミニキッチンに来て私の横につく。八木田橋の太い二の腕、ガッチリした肩が視界の隅をチラチラする。八木田橋はとなりで料理の手伝いをしてくれた。出来上がった料理を部屋のローテーブルに運ぶ。ワインもチーズも運ぶ。グラスにワインを注いで乾杯をする。V字にカットされたカットソーから伸びる首。向かい合い座る八木田橋を正面から見るのは緊張した。昨日まで一緒にペアリフトにくっつくように乗ってた癖に。
「どした?」
「べ、別に」
「食材整理って明日、帰るのか?」
「うん」
「っつうかさ、なんでひとりで? 彼氏とかいねえの?」
「モテないって言いたいんでしょ」
「ああ」
 八木田橋が肩を震わせて笑う。私はひとりでここに来た理由を話した。5年間の契約社員に終止符を打ち、正社員になれた自分へのご褒美に板もウェアも新調したこと。板は会社からこっそり予約をしたこと。ゲレンデからの景色が綺麗でコンドミニアムのあるこのスキー場を選んだこと。八木田橋は時折茶々を入れながらワインを飲みながら話を聞いてくれた。
 料理を全て平らげ、ボトルも空になり、八木田橋は両手を合わせてご馳走さまでした、と頭を下げた。なんとなく沈黙する。私は慌てて、いまデザート用意するね、と空いた皿を重ねて持ち、席を立った。食べ終えたら八木田橋は部屋を出るのだろうか、喪失感に襲われてチョコケーキを出した。
「これ、作ったのか?」
「あ、うん。オーブン無いから炊飯器だけど。生クリームも無くて板チョコとコーヒーのクリームで作った。初めてだから自信ないんだけど」
 八木田橋は、なんだ俺はモルモットか、と笑いながらケーキにかぶりつく。うん、美味い、と食べる。ユキも食えよ、と私にも取り分けてくれた。でも私は胸がいっぱいで食べられなかった。最後のひと品……。私はたまらなくなり、お皿洗っちゃうね、と席を立った。
 ミニキッチンに足早に向かう。蛇口のレバーを上げてお湯を出すと、そのレバーを下げられた。
「俺、洗うよ」
 私の背後から回り込むように手が伸びていた。背中に八木田橋の体が当たる。
「爪、傷が付くんだろ?」
 八木田橋はそれぞれの手で私のそれぞれの手をそっとすくうようにして、私の胸の辺りで止めた。
「こんな爪してるから料理なんてしないのかと思った」
「それは偏見……」
 そう言い返そうとすると、首筋に息を感じた。鼓膜が心臓であるかのようにドクドクと音がする。首をすくめてしまう。思わず指に力が入り、思わず八木田橋の手を指先で軽く握り返す形になってしまった。それを機に八木田橋の吐息が更に近付いた。背中に接する八木田橋の体の面積が広がる。自分の二の腕に八木田橋の二の腕が密着する。私の手を乗せていた大きな手が私の手を離れて私の胸の前で交差する。私は体を強張らせた。それが八木田橋にも伝わっているのか、私の体をふんわりと包むように抱きしめる。
「たった……」
 八木田橋が呟いた。
「たった3日で……」
 しばらく八木田橋はそのままだった。逃げようとすれば逃げられる。腕を振り解こうとすれば振り解ける。そうやって私を試している。私もそのまま動かずにいた。恥ずかしいのを堪えて、飛び出しそうな心臓を押さえて。動かないことが私の意思表示だと。
 そして八木田橋はぎゅうっと私を抱きしめた。頬を私の耳上の辺りに擦り付ける。
「たった3日で……俺、軽い、か?」
「……私、お皿洗っちゃう……から……シャワー浴びて……きて……」
 八木田橋は腕を緩めて私の背中から離れた。そして八木田橋の姿はユニットバスのドアの向こうに吸い込まれていった。