*36
私はそのドライブの朝、近くの通りまで出て柏木さんを待っていた。
「家まで迎えに行くのに。あ、気分が悪くなったら言ってくださいね」
柏木さんはそう言って私を助手席に乗せた。行き先は那須。猪苗代方面でないことにホッとした。車は東北道をひた走る。景色は青々と茂る緑から徐々に淡い新緑へとスイッチした。スキーで散々通った道も今は全く違う景色だ。
スマホにメールが入る。柏木さんに断って画面を開くと、八木田橋からのメールだった。
『板のチューンナップ終わったから取りに来い』
別れたにもかかわらず、命令口調のメールにムカついた。
『宅配便で送ればいいでしょ!』
私はそう打ち込んで返信した。
『チューンナップしてやったのに何だよ、それ。アホ!』
『アホ? アホはどっちよ!』
『アホはお前だ!、アホ』
メールじゃ拉致が明かない。でも柏木さんの隣で八木田橋と話すのは失礼だと思った。
「柏木さんっ、気分が悪いですっ、止めてください!」
車は直に小さなサービスエリアに止まる。降りて休憩スペースに向かいながら八木田橋の番号に電話を掛けた。
「何様のつもり?」
「自分の板だろ、取りに来るのが筋だろ」
「宅配代金が惜しいなら着払いでも構わないわよ」
「そんなケチ臭いこと言ったことあるかよ」
「絶対取りになんか行かないからっ」
「板、見たくないのかよ、綺麗にチューンナップしてくれたぜ?」
「別に頼んだ訳じゃないし」
「お前の大切な板だろ? いらないのかよ?」
「いらない」
「……」
私がいらないと言うと八木田橋は黙り込んだ。本当にいらなかった訳じゃない、売り言葉に買い言葉だった。
「じゃ、私予定があるから」
私はバツが悪くてその通話を切った。再び柏木さんの車に乗り込む。柏木さんは音楽に合わせて歌詞を口ずさむ。でもうる覚えなのかメロディも歌詞もところどころ間違えていた。そういえば八木田橋も私の車の中で鼻歌を歌っていた。
高原の牧場に到着した。まずは腹ごしらえにソフトクリームを食べる。近くでは父親らしき男性が幼子にスプーンで食べさせていた。柏木さんと結婚して子どもが生れたら彼も直にそうするのか、正直ピンと来ない。菜々子と手を取り合って写真に写る八木田橋なら何の抵抗もなく菜々子に食べさせるだろうに。
「……アホヤギ」
「ヤギ?」
「あ、あのヤギが見たいなあと思って」
慌てて柵の向こうのヤギを指す。柏木さんは、青山さんは可愛い方ですね、と笑う。ソフトクリームを食べ終えてヤギに向かおうとすると柏木さんの手が私の頬に伸びてきた。
「ソフトクリームが付いてますよ」
柏木さんの指がそっと私の口角に触れた。
『ユキ、可愛い……。今日は、すげえ可愛い』
あの夜、覆いかぶさった八木田橋が私の唇をなぞりながら言った台詞を思い出した。すごく切なそうに私を抱いていた。
ヤギ用の餌を買い、二重扉になっている柵の中に入る。近寄ってきた1匹に手で餌をやる。私に気付いた他の数匹のヤギ達も私を囲むように餌をねだる。餌が欲しいヤギ達は私によじ登るように前足を掛けてきた。四方八方囲まれた私は身動きが取れなくて、逃げられなくなっていた。
「やっ……どうし……」
目を開ければヤギの口、耳からはヤギの鳴き声。腕を足で引っ掻かれたのかヒリヒリする。突然、私を囲んでいたヤギ達は急に回りに散れた。
「……?」
辺りを見回すと柏木さんが新たに買った餌を地面にばらまいていた。
「青山さん、今のうちに逃げて」
私は手にしていた餌を離して柵から出た。辺りにいた他の客は私を見てくすくすと笑っていた。
「柏木さんごめんなさい」
「いいんです、青山さんが無事なら」
助けてもらったのに何となく腑に落ちなかった。自分が間抜けだと言われたみたいで逆に恥ずかしかった。ヤギたちの中でも少し大きいヤギが三日月の瞳孔で私に一瞥して馬鹿にするようにメエと鳴いた。
「ムカつく」
八木田橋ならこんなふうに馬鹿にして笑い飛ばしてくれただろうか。他の客と一緒に笑ってからかってくれたと思った。
昼に牧場自慢のジンギスカンを食べる。私が帽子型の鍋で焼いて柏木さんの皿に取り分ける。紙ナプキンを首から下げた柏木さんは、女性に焼いてもらう肉は美味しいですね、と味を確かめるようにゆっくりと食べる。
八木田橋ならきっと一緒に焼いて一緒に食べた。勝手にジャンジャン焼いて片っ端から食べる八木田橋に、ずるい!、と私がいちゃもんを付けて。アホ!、と笑ってでもそのくせちゃんと追加注文もして私の分も確保してくれる。きっと八木田橋となら何でもムカついて何でも楽しくて何でも安心出来ると思った。
午後、キャンドル専門店に移動した。キャンドルの手作り体験をする。小振りな硝子の入れ物に飾りの硝子細工や貝殻を飾り、そこにジェル状のロウを流し込むというもの。作業テーブルに着き、店員の施しを受ける。硝子細工をグラスに置き、まずは無色透明のジェルが注がれる。柏木さんはグリーンの海藻や熱帯魚のモチーフにブルーのロウを流した。私は赤いバケツを被った雪だるまとスキーを履いた男の子に淡いピンクのロウにした。雪山のイメージだ。少年の赤いマフラーに赤いマフラーにスクールインストラクター用のウェアを思い出した。
エッセンシャルオイルも入れられるというので小瓶を手にする。ラベンダー、レモン、ミント、ローズマリー、イランイラン。人気のある主要な香りはあった。でも私の好きなスイートオレンジが無い。
「どうしましたか?」
「私の好きなオレンジの香りが無くて」
「レモンはどうですか?」
大人気ないとは思う。でもレモンじゃ妥協出来なくて入れるのをやめた。
出来上がったキャンドルを包装してもらい店を出る。休憩を兼ねてカフェ併設のパン屋に寄りお土産を買った。そのパン屋を出る頃には日も落ちて街灯も灯っていた。
「帰りましょうか」
「はい」
今頃気付いたって遅い。八木田橋じゃなくちゃ嫌だ、って。ううん、そんなことは分かってた。ただ怖かった。八木田橋の元カノの存在が、私の流産のことが。怯えながら生きてくより、安楽な道がいいって、それを選んだ癖に。買い込んだパンやジャムを後部座席に乗せると後ろから柏木さんに声を掛けられた。
「ユ、ユキ……さん……」
街灯に照らされて逆光になっていたけど、柏木さんが強張った表情をしてるのは分かった。突如呼び名が下の名前に変わったことも。柏木さんが一歩前に出る。両腕が徐に上がり、手を肩に掛けられた。徐々に柏木さんの顔が近付く。何をされるかは分かってる。八木田橋もそうやってキスした。あの技術選全国大会決勝日、私にプロポーズをしたあとに。八木田橋の台詞が頭を過ぎる。
『俺はユキを支える。ユキもユキの母さんも。母親に何かあればいつでも里帰りすればいい。それでも駄目ならその時は俺も山を下りる』
支える、私も母も支える……。元カノの身代わりで私を必要としてたらそんな台詞は言わないんじゃないか、山を降りるなんて言わないんじゃないか……。
「やっ……」
私は咄嗟に俯いた。肩に掛けられた柏木さんの手が離れた。
「僕、焦りすぎましたか?」
「……いいえ」
「それとも、彼氏のことが忘れられませんか?」
「え?」
俯いていた私は驚いて顔を上げた。
「青山さんは正直な方ですね」
遅くなりますから車に乗って話しましょう、いかがわしい所には連れて行きませんから安心して、と柏木さんは笑った。車に乗り、発進させると柏木さんは話を始めた。
私はそのドライブの朝、近くの通りまで出て柏木さんを待っていた。
「家まで迎えに行くのに。あ、気分が悪くなったら言ってくださいね」
柏木さんはそう言って私を助手席に乗せた。行き先は那須。猪苗代方面でないことにホッとした。車は東北道をひた走る。景色は青々と茂る緑から徐々に淡い新緑へとスイッチした。スキーで散々通った道も今は全く違う景色だ。
スマホにメールが入る。柏木さんに断って画面を開くと、八木田橋からのメールだった。
『板のチューンナップ終わったから取りに来い』
別れたにもかかわらず、命令口調のメールにムカついた。
『宅配便で送ればいいでしょ!』
私はそう打ち込んで返信した。
『チューンナップしてやったのに何だよ、それ。アホ!』
『アホ? アホはどっちよ!』
『アホはお前だ!、アホ』
メールじゃ拉致が明かない。でも柏木さんの隣で八木田橋と話すのは失礼だと思った。
「柏木さんっ、気分が悪いですっ、止めてください!」
車は直に小さなサービスエリアに止まる。降りて休憩スペースに向かいながら八木田橋の番号に電話を掛けた。
「何様のつもり?」
「自分の板だろ、取りに来るのが筋だろ」
「宅配代金が惜しいなら着払いでも構わないわよ」
「そんなケチ臭いこと言ったことあるかよ」
「絶対取りになんか行かないからっ」
「板、見たくないのかよ、綺麗にチューンナップしてくれたぜ?」
「別に頼んだ訳じゃないし」
「お前の大切な板だろ? いらないのかよ?」
「いらない」
「……」
私がいらないと言うと八木田橋は黙り込んだ。本当にいらなかった訳じゃない、売り言葉に買い言葉だった。
「じゃ、私予定があるから」
私はバツが悪くてその通話を切った。再び柏木さんの車に乗り込む。柏木さんは音楽に合わせて歌詞を口ずさむ。でもうる覚えなのかメロディも歌詞もところどころ間違えていた。そういえば八木田橋も私の車の中で鼻歌を歌っていた。
高原の牧場に到着した。まずは腹ごしらえにソフトクリームを食べる。近くでは父親らしき男性が幼子にスプーンで食べさせていた。柏木さんと結婚して子どもが生れたら彼も直にそうするのか、正直ピンと来ない。菜々子と手を取り合って写真に写る八木田橋なら何の抵抗もなく菜々子に食べさせるだろうに。
「……アホヤギ」
「ヤギ?」
「あ、あのヤギが見たいなあと思って」
慌てて柵の向こうのヤギを指す。柏木さんは、青山さんは可愛い方ですね、と笑う。ソフトクリームを食べ終えてヤギに向かおうとすると柏木さんの手が私の頬に伸びてきた。
「ソフトクリームが付いてますよ」
柏木さんの指がそっと私の口角に触れた。
『ユキ、可愛い……。今日は、すげえ可愛い』
あの夜、覆いかぶさった八木田橋が私の唇をなぞりながら言った台詞を思い出した。すごく切なそうに私を抱いていた。
ヤギ用の餌を買い、二重扉になっている柵の中に入る。近寄ってきた1匹に手で餌をやる。私に気付いた他の数匹のヤギ達も私を囲むように餌をねだる。餌が欲しいヤギ達は私によじ登るように前足を掛けてきた。四方八方囲まれた私は身動きが取れなくて、逃げられなくなっていた。
「やっ……どうし……」
目を開ければヤギの口、耳からはヤギの鳴き声。腕を足で引っ掻かれたのかヒリヒリする。突然、私を囲んでいたヤギ達は急に回りに散れた。
「……?」
辺りを見回すと柏木さんが新たに買った餌を地面にばらまいていた。
「青山さん、今のうちに逃げて」
私は手にしていた餌を離して柵から出た。辺りにいた他の客は私を見てくすくすと笑っていた。
「柏木さんごめんなさい」
「いいんです、青山さんが無事なら」
助けてもらったのに何となく腑に落ちなかった。自分が間抜けだと言われたみたいで逆に恥ずかしかった。ヤギたちの中でも少し大きいヤギが三日月の瞳孔で私に一瞥して馬鹿にするようにメエと鳴いた。
「ムカつく」
八木田橋ならこんなふうに馬鹿にして笑い飛ばしてくれただろうか。他の客と一緒に笑ってからかってくれたと思った。
昼に牧場自慢のジンギスカンを食べる。私が帽子型の鍋で焼いて柏木さんの皿に取り分ける。紙ナプキンを首から下げた柏木さんは、女性に焼いてもらう肉は美味しいですね、と味を確かめるようにゆっくりと食べる。
八木田橋ならきっと一緒に焼いて一緒に食べた。勝手にジャンジャン焼いて片っ端から食べる八木田橋に、ずるい!、と私がいちゃもんを付けて。アホ!、と笑ってでもそのくせちゃんと追加注文もして私の分も確保してくれる。きっと八木田橋となら何でもムカついて何でも楽しくて何でも安心出来ると思った。
午後、キャンドル専門店に移動した。キャンドルの手作り体験をする。小振りな硝子の入れ物に飾りの硝子細工や貝殻を飾り、そこにジェル状のロウを流し込むというもの。作業テーブルに着き、店員の施しを受ける。硝子細工をグラスに置き、まずは無色透明のジェルが注がれる。柏木さんはグリーンの海藻や熱帯魚のモチーフにブルーのロウを流した。私は赤いバケツを被った雪だるまとスキーを履いた男の子に淡いピンクのロウにした。雪山のイメージだ。少年の赤いマフラーに赤いマフラーにスクールインストラクター用のウェアを思い出した。
エッセンシャルオイルも入れられるというので小瓶を手にする。ラベンダー、レモン、ミント、ローズマリー、イランイラン。人気のある主要な香りはあった。でも私の好きなスイートオレンジが無い。
「どうしましたか?」
「私の好きなオレンジの香りが無くて」
「レモンはどうですか?」
大人気ないとは思う。でもレモンじゃ妥協出来なくて入れるのをやめた。
出来上がったキャンドルを包装してもらい店を出る。休憩を兼ねてカフェ併設のパン屋に寄りお土産を買った。そのパン屋を出る頃には日も落ちて街灯も灯っていた。
「帰りましょうか」
「はい」
今頃気付いたって遅い。八木田橋じゃなくちゃ嫌だ、って。ううん、そんなことは分かってた。ただ怖かった。八木田橋の元カノの存在が、私の流産のことが。怯えながら生きてくより、安楽な道がいいって、それを選んだ癖に。買い込んだパンやジャムを後部座席に乗せると後ろから柏木さんに声を掛けられた。
「ユ、ユキ……さん……」
街灯に照らされて逆光になっていたけど、柏木さんが強張った表情をしてるのは分かった。突如呼び名が下の名前に変わったことも。柏木さんが一歩前に出る。両腕が徐に上がり、手を肩に掛けられた。徐々に柏木さんの顔が近付く。何をされるかは分かってる。八木田橋もそうやってキスした。あの技術選全国大会決勝日、私にプロポーズをしたあとに。八木田橋の台詞が頭を過ぎる。
『俺はユキを支える。ユキもユキの母さんも。母親に何かあればいつでも里帰りすればいい。それでも駄目ならその時は俺も山を下りる』
支える、私も母も支える……。元カノの身代わりで私を必要としてたらそんな台詞は言わないんじゃないか、山を降りるなんて言わないんじゃないか……。
「やっ……」
私は咄嗟に俯いた。肩に掛けられた柏木さんの手が離れた。
「僕、焦りすぎましたか?」
「……いいえ」
「それとも、彼氏のことが忘れられませんか?」
「え?」
俯いていた私は驚いて顔を上げた。
「青山さんは正直な方ですね」
遅くなりますから車に乗って話しましょう、いかがわしい所には連れて行きませんから安心して、と柏木さんは笑った。車に乗り、発進させると柏木さんは話を始めた。