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 1週間程して柏木さんから連絡が来た。美味しいケーキ屋さんを見つけたのでと誘われる。迎えに来てくれると言ってくれたけど、遠回りになるからと断った。
「ケーキ屋さんが始めたレストランらしいんです」
 待ち合わせたのはこの前八木田橋と来たオーダーバイキングの店。柏木さんはもちろん、注文したあとは行儀良く座っていた。八木田橋みたいにケーキ棚に向かったりしない。素敵なお店ですね、と知らないフリで褒めると柏木さんは笑顔になる。この人となら穏やかな生活が出来る、八木田橋とみたいに喧嘩腰にやり合ったりしない。前菜が届くと、生魚に乗ったレモンの輪切りを柏木さんは器用にフォークとナイフで搾った。
「柏木さんはなぜ今までご結婚されなかったんですか?」
「僕はモテませんし、アイドルオタクですし」
「え……あ……」
 真に受けた私を、冗談ですよ、と柏木さんは笑った。
「うーん、正直に言うとモテ期はあったかな」
 柏木さんは再び笑うと話し始めた。柏木さんが県庁に就職する頃、世の中はバブルの最中だった。どの業界も景気が良く就職難民だの就職氷河期だの、そんな言葉は生まれてない時代。就職活動なんて形ばかりで面接さえすれば採用、給料もボーナスも民間は良くて、公務員を選んだ柏木さんは学友からは馬鹿にされた。
「いつかは景気も落ちる。特に目立つ取り柄もない僕は地味でも堅実路線と思いまして」
 そして予想通りバブルは崩壊した。給料を自慢していた学友たちは給料が下がったし、中には職を失った人もいた。その頃から柏木さんのモテ期は到来した
「毎週のように合コンに誘われました。もうすぐ30歳、もちろん独身でしたし、女の子とは誰かひとりとは携帯番号も交換しました」
 社会人になって落ち着いて洒落たバーや小料理屋も覚えた。合コンで引っ掛けた女の子をそういった店に誘い、そうして仲良くなってドライブや映画にも連れ出した。
「でもね、何かが違うと感じましたよ」
 女の子とデートしても聞かれるのは家族構成や年収のことばかり。昔どんなアイドルが好きだったかとか初めて買ったレコードとかは聞かれなかった。
「アイドル、レコード。柏木さんやっぱりオタク……」
「例えば、ですよ」
 自分もそろそろ結婚を意識していたし、女の子も当然結婚は意識していたとは思う、と話を続ける。年収も家族構成も結婚には大切な条件。だから女の子の質問がそこに集中するのは理解出来た。でも、ふと思った。この女の子は自分に興味があるのか、僕の男という部分に興味があるのか。僕という人間ではなく、僕のこれから得られるお金に興味があるんじゃないのか。
 そこに気付いた柏木さんはそれ以来合コンに参加するのをやめた。
「僕の話はこれくらいにして。パキスタン、ウズベキスタン、カザフスタン。ご存知ですか?」
「は? ええ、名前ぐらいは」
 今日の話題は国名。中東に多い“スタン”の国名。頭に付くのは民族の名でそのあとに“住むべき地域”を表す“イスタン”を付けて、その民族が住むべき場所という意味だと話す。
「青山さん。来週、ドライブに行きませんか?」
 そろそろ高原も新緑の季節ですし、と柏木さんは言った。ドライブデート。柏木さんも歴とした大人の男性。慣れた手つきで車内でキスしたりするんだろうか。でもいい。柏木さんの過去の女性は気にならない。八木田橋のときみたいに元カノの存在に震えることなんてないと思った。
「……はい」
 柏木さんはホッとしたのか胸を撫で下ろした。場所は何処にしましょうか、とテーブルの上に地図を広げた。ドライブともなれば密室にふたりきり。突然狼にはなりそうもないタイプだけど、少し躊躇してしまう。仮にこのドライブで何もなくたって、いずれはこの人と抱き合う。
「あ!」
「どうかしましたか」
「あの、私、妊娠しにくいかもしれなくて」
 柏木さんの顔は見る見る赤くなり、額からは汗が噴き出した。慌ててハンカチを取り出した。
「は、母がなかなか子宝に恵まれなくて、遺伝してるかもしれません」
「子どもはどちらでも。いたらいたなりの、いなければいないなりの人生があると思いますから」
「私はひとり娘で父も他界してますし、母を残して嫁ぐのは……」
「僕は長男ですが姉夫婦が近くにいますので、婿入りも出来ます」
「さっきも話しましたけどやっと正社員になれて」
「家事を疎かにしないなら続けてください。僕も協力しますから」
 柏木さんは、是非とも検討してください、よろしくお願いします、と頭を下げた。そして姿勢をもどすと、なんだか営業みたいですね、と汗を拭きながら笑っていた。