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『……分かった』
 あっさりだった。仕事を辞めたくないこと、浦和での生活が便利なことを上げて説明すると八木田橋はあっさりと引いた。確かに仕事は正社員になってやり甲斐も増えた。近くに大きなショッピングモールも出来て便利だったけど、八木田橋のいるところだって車さえあれば不便なところじゃない。ああでも言わないと八木田橋が諦めないだろうと思った。その一方で簡単に別れを受け入れられてショックも受けた。自分から別れて欲しいと切り出しておきながら勝手な自分に呆れた。
 翌日、午後のシャトルバスで浦和にもどった。
「母さん。八木田橋さんと別れた」
「そんな寝言言って今日はエイプリルフールじゃないのよ、お式はいつにしたの?」
私の言うことを全く取り合う様子がない。キッチンで夕飯づくりに精を出している。
「本当に別れたの!」
「そ。じゃあお見合いするのね」
その母の笑顔は冗談からなのか内心八木田橋と破談になってホッとしたからかどっちにも取れる。どっちだっていい、さっさとお見合いしてさっさと結婚してしまおう。条件のいい人だと言っていた、その方が私もすっきりする。
 5月になりゴールデンウイークの皺寄せで休日出勤した。薬局には私ひとり。ブラインドは閉めたままパソコンに向かう。しばらくして外から車のエンジン音が聞こえた。休日に誰だろう……。席を立ち、ブラインドを指で押し下げて外をうかがう。
 薬局の患者用駐車場には見慣れない車が停まっていた。中からスーツ姿の男性が降りてきた。その雰囲気からして患者さんではないし、休日だから納入業者の人間でもない。その男性はブラインドからのぞいていた私に気付いて真っ直ぐにこっちへ歩いて来る。男性は窓越しに会釈した。無視することも出来ず、会釈してから入口のドアを開けた。挙動不審な男に私は少々、身構えた。
「ご自宅に連絡したらこちらだと聞きまして」
 腰を低くした男性は名刺を差し出してそう言った。柏木稔、下水道局下水道管理課。自宅の水道代はちゃんと引き落としになってるし母と話したならなぜ、と考えてるとその柏木さんという男性は父の知人の名を出し、見ていただけたかと私に尋ねた。そこで私は思い出した、あのお見合い写真を。男性は私の表情が変わったのを察知して、見ていただけたんですね!、と顔を赤くしてポケットからハンカチを出すと額の汗を拭き始めた。
「あ、青山さん! い、一度でいいので食事してください! OKの返事をいただくまで動きません!」
と、彼は腰を直角に曲げ折った。頭を上げてくださいと声を掛けるけど全く動かない。仕方なく返事をすると柏木さんは上体を起こして再びハンカチで汗を拭いた。仕事が一段落するまで待合室で待ってもらうことにした。
パソコンに向かいながら彼を盗み見る。中肉中背、髪だって薄い訳じゃない。真面目そうだし、なぜ40過ぎてまで独身なのかは分からない。ソファに腰掛けてマガジンラックに差された健康雑誌を丁寧に読んでいる。ふと目が合う。恥ずかしそうに会釈してまたハンカチを額にやる。なんだか可愛く思えて笑ってしまった。この人と結婚したら穏やかな生活を送れる、そんな気がした。
 昼になり、初対面の男性の車に乗るのは気が引けて、私の車に乗せて近くのファミレスに向かった。エンジンを掛けると普段掛けている音楽が流れて、柏木さんは、いい曲ですね、何ていう歌手ですか、と尋ねてくる。去年紅白にも出た歌手で曲も書いてる、と説明すると最近の流行りは分からなくてとハンカチを出す。
「柏木さんは音楽は……」
「若い頃は聞いてましたけどね、アイドル全盛期でしたし」
 柏木さんはそのアイドル達を歳の順に並べて解説を始める。私はその聞いたことのある名前に頷きながら聞いていた。ひと回りも上、会話が成り立たないかもしれない。でもそれはそれで喧嘩にもならないし、互いの知識を埋めることも出来るとも思った。ファミレスに着く。私はドリアを、柏木さんは日替わりランチを注文した。料理が届くまでの間、再びアイドルの話題。聞き役に回ってると柏木さんは気付いたように口を止める。
「僕のことオタクだと思いました?」
「はい」
「これくらいは僕の世代では当たり前の知識ですし」
 私がクスクスと笑うと柏木さんはまた汗を拭く。料理が届く。柏木さんは左手に持ったフォークの背にナイフでライスをきちんと盛り、口に入れるとゆっくりと噛む。八木田橋とは正反対の食べ方。きっと八木田橋ならナイフなど使わずフォーク1本でガツガツ食べる。食後にドリンクバーに行く。柏木さんの分もトレーに乗せて席に着いた。八木田橋なら一緒にドリンクバーに行き、ココアか甘い炭酸飲料を注ぐと思った。八木田橋のことばかりを考えてる私。柏木さんには申し訳ないと思う。でも別れたばかりだし自然な心理だから仕方ない。
 そのうちにきっと思い出さなくなる。そのうちに忘れる。いつか笑い話になる。
「柏木さん。食事は一度だけでいいんですか?」
「え……いや、その……」
 ハンカチを取り出した柏木さんに、美味しいケーキが食べたい、と申し出ると彼は嬉しそうに返事をした。