*32
 八木田橋は何も変わらなかった。朝も変わらずご飯にかぶりつき、味噌汁を啜る。食後のコーヒーを飲んでるうちに母が帰宅して、私は仕事に出た。八木田橋は私の言葉を全く聞いていない。その日のうちに宿とシャトルバスの手配をしたとメールをよこす。今年は桜の開花が遅れそうだからユキが来る頃は3分咲きだろうけどそれも綺麗だぞ、飯を作るなら食材買って冷蔵庫に入れとくぞ、と私の返事も聞かずに勝手に予定を立てている。
 何かこう、急いでる感じがした。私の気が変わらないうちに挙式してしまおうという算段。母だってそうだ。先を急いでいるのはあの見合い写真の男性と迷いたくないからに違いない。八木田橋と母が先を行き、私だけが置いてきぼりを食らった気持ちだった。
 そうこうしてゴールデンウイークになり、私は仕方なく八木田橋の手配したシャトルバスに乗り込んだ。暦の上は春だというのに、磐梯山の山肌には雪を残していた。
 ロビー前にずらりと並んだ出迎えのベルの中に酒井さんの姿も見えた。青山さん久しぶり!、と相変わらず人懐っこく声を掛けて私の荷物を持つとロビーまで運んでくれる。フロントでチェックインの手続きをし、キーをもらってコンドミニアム棟に向かう。
「今日は下見? ガーデンチャペルの」
「下見?」
「まだ寒くて花も咲いてないし、温室内の教会みたいだけどね。結婚式。温室の奥にあるから一般客も後ろから見れるし。そろそろ始まってると思うよ」
と酒井さんはジャケットの裾から腕時計を見た。ガーデンチャペルがあることは情報誌で知ってる。でも下見だなんて八木田橋には何も言われてはいない。
「本当に知らなかった?」
「あ、うん……」
「もしかしてヤギ、サプライズのつもりだったかな。だったら青山さんごめんね」
 酒井さんは部屋に荷物を置くとフロントへもどっていった。窓を開ける。新緑と言えるほどの若葉もなく、窓下にある数本の桜はまだ咲き始めたばかり。冷たい風に身震いし窓を閉めるとスマホが鳴る。
 八木田橋から、残業で遅れる、ハーブ園の温室でも見て来いよ、というメールだった。でも私は部屋でただぼんやりしていた。八木田橋は本当に私を必要としてたんじゃない、元カノを忘れさせてくれる誰かが欲しかったんじゃないか、と考えていた。
 どのくらい経ったろうか、しばらくして金属製のドアをノックする鈍い音がした。ドアを開けると八木田橋が息を切らして立っていた。
「温室行かなかったのか?」
 仕事上がって温室行ってもユキの姿がないからさ、と部屋の中に入って来る。手にはホテルのパンフレット、多分結婚式や披露宴の詳細が書かれたもの。八木田橋は手にしていたそれらをテーブルに広げて座った。挙式料や披露宴の料理、ドリンク類、ドレスのレンタル代、参列者の宿泊プラン。それをひとつひとつ丁寧に説明してくれた。温室教会のベンチを飾る造花を生花に変えるオプションが幾らで、参列者の宿泊代の割引があるとか、バスは各1台ずつ無料送迎するとか。でも私はそんなことを考える気分にはなれなくて、適当に頷いて八木田橋の話を聞き流していた。
「どした? また具合悪いのか? こないだ来たときも青い顔してたし」
 デキたか?、それもいいけどな、と八木田橋は笑ってソファに腰掛ける。
『早くユキと暮らしたかったから』
 早く暮らしたかったのは失恋を振り切りたかったから? 八木田橋が説明を終えたあと、ふたりでミニキッチンで料理をした。あの、初めて八木田橋と料理をしたときみたいにドキドキしたりはしなかった。嫌な緊張感。本当は八木田橋は元カノと料理したかったんじゃないか……胸が苦しい。
 食事を済ませたあと、夜桜を見にいこうと外に出た。歩道が狭いのもあったけど並んで歩く気にはなれず、八木田橋の後ろについていた。いつもの黒いダウンジャケット、それくらいが正解かもしれない。私は春物のトレンチコートで少し震えていた。春の南風と言えど首を竦めた。
 しばらくして八木田橋が立ち止まる。八木田橋は振り返って顎でしゃくる。その先を見るとボンボリに照らされた桜並木が見えた。
「あ……」
 言葉が出なかった。川沿いにずっと下流まで続いている桜は5分咲きになっていた。風で揺れる度にボンボリの明かりも一緒に揺れた。その幻想的な風景に言葉が続かない。
 小さな橋を渡り、川沿いの遊歩道に入る。川のせせらぎも景色に彩を添える。「綺麗だろ」
「うん……。満開ならもっと綺麗?」
「ああ。でも俺はこのくらいが好きだな。満開だと散り落ちて終わりになるからな。これから咲くんだなって想像するとワクワクする」
 八木田橋の意味するところは分かった。でも私は私のことを言われてるみたいでショックだった。もう28だ、女性に年齢なんて関係ないって思ってたけど、肌や体のラインはピークを越えている。もう散り落ちるしかないって言われたようだった。20歳位の元カノなら今の桜だ。
「ユキに見せたかったんだ、この桜。浦和にも桜はあるだろうけどさ。ここのは格別。こっちに来れば毎日見れるしさ」
 本当は元カノに見せたかった?
 蕾のうちや咲き始めや満開だって散り始めた桜だって眺め放題だぞ、と八木田橋は笑った。私は体が震えていた。寒かったのもあると思う。それに気付いた八木田橋は着ていたダウンジャケットを脱いで私の肩に掛けた。
 遊歩道を下流へ歩く。小さな川には長丸太が掛けられていて、地元の子かホテルの宿泊者か、両手を広げてバランスを取りながら渡り、遊んでいる。八木田橋は優しい目でその子どもたちを眺めていた。
 15分程歩いただろうか、並木は終わりになった。歩道の脇には林を切り開いた所にテントが張られ模擬店が出ていた。その脇を過ぎて橋を渡る。
 橋の真ん中で八木田橋は立ち止まった。
「ほら」
 八木田橋は顎で上流をしゃくる。そこには川の両岸にボンボリの中で咲く桜、わずかに照らされた川面、水の音。上流からの眺めとはまたひと味違っていた。
「どした? 感動して泣いてるのか?」
 両頬を液体が伝う。風が吹いて涙の跡が冷たくなる。
「なんだ、模擬店通り過ぎたから泣いてるのか? 団子食うか?」
 私をけしかけて八木田橋は私を笑わせようとしてる。でも私は笑えなかった。しばらく無言で桜を眺めていた。
「……俺、急かし過ぎたか?」
 まだ知り合って4ヶ月だしな、結婚は一生のコトだしな、と八木田橋は頭を掻いた。
「少し……時間、置くか」
「そうじゃなくて。終わりにしない?」