*3
 8時過ぎにはゲレンデに着いた。今日は12月30日、早朝から人出はあった。混みあう中で赤いウェアを探す。既に滑っているインストラクターもいたけどすぐに分かる、あれは八木田橋じゃない。彼の滑りは群を抜いているから。
 奴を待ちながら何をさせられるのかを想像してわくわくした。スクールの雑用だろうか、ビブの洗濯とかスクール小屋の掃除とか。はたまたコース整備か、レッスンの補助とか。予想がつかないだけに良くも悪くも妄想の幅は広かった。
 レストハウスの方から私と色違いのウェアを来たスキー客がいた。今シーズンのニューモデル。何気無しに目で追う。板も私と同じ限定版っぽい。一回り大きいメンズの板にメンズのウェア。男性。その男性はそのまま私の前に来た。そこでやっと気付いた。
「今日もよろしく」
 八木田橋だった。
「な、な、な……」
「今日はオフだから」
 八木田橋は口元をにやつかせながら、顎でリフトを指した。慌ててあとをついていく。一緒にペアリフトに乗る。回りのスキー客もスタッフもなんだかニコニコと笑う。リフトに並ぶときも皆、私と八木田橋が一緒に乗るのを見透かしたかのようだったし……。そこで気付いた。ペアルックだからだ。ウェアはもちろん板もポールまで一緒!
「ちょ、ちょっとなぜお揃いなのよっ」
「真似したのアンタだろ?」
 そう言って八木田橋はポールでシリアルナンバーを指した。ビンディングの上に刻まれた番号は“001”。私だって予約開始日の開始時間に会社からこっそりファックスを送ったのに、それだって“003”だった。
「メ、メンズの1番でしょ? レディスとは別じゃない」
 自分でも屁理屈を言ってるのは分かってる。八木田橋は慌てる私を面白がるように笑った。
「ねえっ、労働の対価って何よ」
「何だと思う?」
「ペアルックで元カノに当てつけるとか? 同じ板の私の滑りを引き立て役にするとか? どっちにしても最低!」
 八木田橋はゲラゲラと笑い出した。豪快な笑いにシートまで揺れた。
「女って妄想の生き物だな。でも元カノはここにはいないし、アンタを引き立て役にするつもりもない」
「じゃあ何なのよ」
「“俺の滑り”を覚えてくれないか?」
 八木田橋の滑り方?
「アンタが父親を慕って今の滑り方をしてるのは分かってる。今日一日だけでいい。明日から元にもどしていい。多少厳しいことも言うけどついて来てくれないか?」
 さっきまで腹を抱えて笑ってた癖に今は真顔だ。ゴーグル越しに感じる視線。普段、ふざけてる人間が真面目になると弱いというか、怖い。
「……分かった。で、でも今日だけだからねっ」
「ありがとう」
 初めて八木田橋に礼を言われた。調子が狂う。
 リフトを降りて足慣らしに初心者コースを進む。いつもなら、お先にと言うように下りる八木田橋が顎で私に先に行けと促す。ポールを押して勢いをつけて下る。八木田橋はすぐ後ろをついて来てるようだったけど何も言わず黙っていた。後ろでエッジを切る音だけが聞こえた。下り切ると再びリフト乗り場に向かう。ペアルックに回りはニコニコと笑う。でも私は、八木田橋が黙ってるのは嵐の前の静けさのような気がして身構えていた。
 ペアリフトに乗り込む。案の定、八木田橋は声低くしゃべりだした。
「膝を内側に倒し過ぎてる。それに腰の位置が高い」
「え……」
「ポールもキチンと持て。わきの力が抜けてる」
「あ、うん」
「うん、じゃない。ちゃんと返事をしろ。気を抜くと怪我するから」
「うん」
「だから、返事は?」
「は、はい……」
 人格を変えたように急に厳しくなった。声質も低くて、早口で、怖い。テレビドラマに出てくる鬼コーチそのものだった。リフトを乗り継いで昨日の中級コースに向かう。ペアリフトを降りて斜面の手前で止まると八木田橋が私より少し前に出て説明をする。膝の曲げ方、ポールを突くタイミング、腰の位置。いつもは無愛想に顎でしゃくるのに八木田橋は雄弁だった。たくさんの言葉を使い、屈んだり立ったりシュミレーションして見せて。その姿は必死で真剣で。
「今のを頭に入れて」
「はい」
 再び私から滑り下りる。今度は八木田橋は黙ってはいなかった。滑る私の後ろから指示が飛ぶ。
「内股にするな!」
「腰が高くなってる!」
「ポールを突くタイミングが遅い!」
 指示というよりは怒号にも近く、辺りのスキー客はその声に驚いて私の方を見る。さっきまでの微笑ましい視線はなかった。
「ほら! また内股になってるぞっ! ユキ、聞いてるのか?」
 ユキ……まさかの呼び捨て? しかも下の名前。あまりの上からな言いように振り返りたくなる。でもこのスピードで首を回したら危険だ。
「ユキ、ちゃんと返事しろ!」
「……」
 抗議の意味を込めて返事をしなかった。でも八木田橋は繰り返し私の名を叫ぶ。返事、返事、ユキ、ユキ!と、あまりのしつこさに私は根を上げて返事をした。リフトの乗り場まで来て彼に抗議をしようとしたけれど、八木田橋は姿勢がぶれてるだの、腕が下がるからタイミングがずれるだの、怖いくらいの真剣さで迫るから私は言い返せずにいた。
 三度リフトに乗る。私が先に滑る。後ろから八木田橋が怒鳴る。同じことを何度も注意される。頭では分かっていても体が言うことを聞かない。リフトを降りると八木田橋がまたシュミレーションする。同じ事象を違う言葉を使って説明する。なんとか私に理解させようと必死なのは伝わってくる。ユキ行け、と言われて滑る。怒号が飛ぶ。返事をする。リフトに乗る。滑る。怒られる。八木田橋が説明をする。しばらくその繰り返しだった。
 八木田橋が一生懸命なのはヒシヒシと肌に伝わる。でもその通りに出来なくてもがく。同じ台詞で何度も何度も怒鳴られる。分かっていてもちゃんと実践出来なくて、情けなってくる。
「全く何度同じコトを言わせるんだ! 内股!」
「は……い……」
 ゴーグルの中で水滴が頬を伝う。出来ない自分に悔しくて、八木田橋の怒鳴り声が怖くて、泣いていた。斜面を滑り下り、リフト乗り場に並ぶ。泣いてることに気付かれないよう、食いしばるけど鼻水が垂れる。肩もしゃくり上げてしまう。リフトのシートに並んで腰掛け、鼻を拭くふりでティッシュを出す。でも震えが止まらなくて、わずかに揺れたシートに八木田橋は気づいてしまった。
「……もう1本滑ったら休むか」
 八木田橋はそう言って私の頭を撫でた。グローブ越しのゴソゴソした手。私の帽子の中は静電気が立ってもわもわした。懐かしい感触。そういえば父にもこんなふうに撫でられた。
『ユキ、頑張ったね』『偉いよ、ユキ』
 いつも優しかった父。私には絶対に怒らなかった。父との思い出が走馬灯のように蘇る。初めて板を買ってもらったときのこと、転んで拗ねた私を宥めるのに一緒に雪だるまを作ってくれたときのこと、大会で入賞したときのこと。亡くなった父を思い出して、涙腺が緩んでいた私は更に緩んで涙が止まらなくなった。大きくしゃくり上げる。
 リフトを降りる。斜面に向かう。すると八木田橋は私を追い越して前に立ちはだかった。
 そして私の板を挟むようにして、私の体に近付いた。
「大丈夫か? 下りられるか?」
 父もよくそうした。転んだ私を起こして、正面から私に近付いた。肩に手を置いて額をくっつけて。大丈夫だよと微笑み語り掛け、私を安心させる。同じように八木田橋は私の顔をのぞき込んだ。深いグレーのゴーグル面から彼の目が見える。心配そうに見つめる瞳。八木田橋の吐く息が白くて、私の息も白くて、目の前でぶつかり合う。
「……」
 目の前にある八木田橋の顔。あまりにも近くて。父でない男の顔に突然気が付いて動転した。
「だ、大丈夫だから……」
 私は俯いた。傾いた帽子のてっぺんについた毛糸のポンポンが八木田橋のゴーグルに当たる。別に何かされる訳じゃない。きっとゴーグルの中の私の表情をうかがおうとしただけで。私だって男の人に免疫がない訳じゃない。でも至近距離に構えてしまう。
「……行くよ。ついておいで」
 八木田橋はポールを押してバックしUターンすると斜面を滑り始めた。跡を追う。先を走る八木田橋は、行き先をコントロール出来るようになった初心者のように板先をハの字にして速度を抑えている。八木田橋は時折止まって振り返り、私の位置を確認した。ついてくるのが分かると、滑りを再開して私を先導した。
 中腹にあるロッジレストラン。昨日ケーキを食べたところ。板を外しワイヤー錠を掛ける。八木田橋が階段の先で待っているのが見えた。私が近付くと扉を開けてくれた。私は彼の横をすり抜けて化粧室に向かった。
 泣くのは何年振りだろう。父の告別式以来。最後に火葬場でお別れをして扉が閉まった瞬間、私は咄嗟に扉に向かった。閉めないで!、焼いちゃやだ!、と喚いて扉を叩いた。泣き崩れた。誰が見てるなんて気にも留めなかった。
 化粧を直してレストランに向かう。八木田橋は先に席に着いて窓の外を眺めてた。何て言おう……。ごめんなさいも癪だし、必死に教えてくれた先生に厳しすぎと言うのも自分が子どもみたいで嫌だし。何も思い付かないまま席に到着してしまって、無言でテーブルにグローブとゴーグルを置いた。きっと八木田橋が私をからかうように場を和ませてくれるって期待したけれど。
「……コーヒーでいいか?」
 バツが悪かったのか、八木田橋はボソリと言うと席を立った。奴の背中を目で追う。上のジャケットは既に脱いで黒いタートルに釣り紐が両肩に掛けられている。幅の広い背中、ガッチリとした肩、私の2倍はありそうな二の腕。きっとオフシーズンも鍛えてる。そうじゃなきゃ、あんなに颯爽な滑りは出来ない。何となくずっと見つめる。トレーにコーヒーを乗せた八木田橋はこっちに向かってくる。逆パンダに焼けた顔。無愛想な目。たまに鋭くて動けなくなるけど。
 八木田橋も無言で椅子に腰掛ける。何も言わずにトレーからコーヒーの入ったカップを私の前に置く。
 カップに口をつける。淵に塗ったばかりのグロスがついて小さなラメが光る。これ以上落ちないようにそっと口づけてコーヒーを飲んだ。
「どこもかしこも雪か」
 ゲレンデだもの当たり前じゃない、と八木田橋を見た。でも八木田橋が見ていたのは窓の向こうに広がる冬木立ではなく、私の指先だった。
「爪も雪。耳たぶも雪。帽子の模様も雪」
 爪を見られて咄嗟に指を折った。化粧は直したけどネイルまではチェックしてなかった。無防備な爪。揺れて下がるピアスもちゃんと向いてるか思わず耳たぶに指をやる。
「どんだけナルシストだよ? アホ」
「ア……」
 八木田橋がニヤニヤと笑い出した。
「わ、悪い?」
「いや。悪くないけど?」
 肩を震わせて笑い、馬鹿にしたように見下した。
「雪が好きなんだもんっ」
「ユキか。スキー馬鹿のオヤジが付けそうな名前だし」
「父のこと悪く言わないでっ」
「どんだけファザコンだよ?」
 突然、八木田橋の目が鋭くなる。眉が吊り上げ、チッと舌打ちした。
「いい加減卒業しろよ。27にもなってパパ、パパって」
「パパなんて言ってないわよ!」
「さっきから顔に書いてあるよ。パパは優しかったって」
「優しかったわよ、怒られたことなんてないもん!」
「なあんだ、ちっちゃい子どもを教えるみたいに教えて欲しかったのか? ユキちゃんユキちゃん、ほらアンヨ~、ってか?」
と八木田橋は再び馬鹿にしたように笑い出した。
「ムカつく!」
 バン。私は立ち上がってテーブルを叩いていた。コーヒーが波を立ててカップから零れた。八木田橋も立ち上がった。
「上等! 俺に喧嘩売ってるのか?」
「あーったり前じゃない!」
「へえ、じゃあ悔しかったら俺について来いよ」
「い、行くわよっ! 絶対抜かしてやるからっ!」
 辺りのお客さんはペアルックの痴話喧嘩にクスクスと笑っていた。私はコーヒーを一気飲みした。グロスが落ちようが笑われようが、そんなのどうでもいい。こんな奴に見つめられてドキドキした私が馬鹿だった。
 ロッジを出てリフトを乗り継ぐ。八木田橋に初めて連れて来られたロマンスリフト。ふたりで並んでシートに掛けるけど、私はソッポを向いていた。八木田橋は鼻唄を歌って挑発した。リフトを降りると八木田橋は右に曲がった。初心者向けの迂回コース。彼は斜面の手前でゴーグルをかけ直し、ポールをキッチリと持ち直す。そしてポールを雪面に刺し、その場で軽くジャンプをした。私も板を前後に動かしたり、肩を馴らしたり、軽く準備運動をする。すると八木田橋は、突然勢いよく滑り出した。
「ずるいっ!」
 八木田橋はいつものように片方のポールを挨拶がわりに振り上げ、飄々と滑り下りて行った。慌てて私もポールを押して、奴を追いかけた。
 八木田橋は悠々と滑っていた。コースの右端から左端へと蛇行するように動く。私に抜かされたくないならもっと直滑降で下りればいいものをわざわざ迂回するように滑る。私に対する挑発だとは思ったけど見とれてしまう。両足の揃ったフォームは綺麗だった。山側の足をほんの少し前にずらして滑らかに曲がる。見とれた自分に腹が立ち、私は八木田橋を一気に抜いた。八木田橋のエッジを切る音が遠くなったと思いきや、今度は八木田橋に一気に抜かれた。
「ユキちゃん上手~♪」
 奴は抜き様に私に言い放った。そしてスピードを上げて真っ直ぐにコースを下りていく。時折出来た小さな段差で滑りながらジャンプをしている。ちゃんと着地して飄々と滑りを続ける。
 馬鹿にされて悔しくて私も段差を避けずに通る。でもそれに慣れてない私は一瞬宙に浮いた後、バランスを崩した。
「きゃあっ!」
 尻餅をつく。曇り空をバッグに樹氷が見えた。それ同時に片足が軽くなる。コケた衝撃で片板が外れた。私は手を付いて上体を起こし、見回した。板は数メートル下でまっていた。その下の方にいた八木田橋が斜面を駆け上がる。逆ハの字にして力強くガツガツと登る。
 そして流れた私の板をつかみ、転んだ私のところまで板を持って来てくれた。
「……ありがと」
「随分と素直だな」
 初心者コースの緩やかな斜面とは言え、登ってくるのはしんどいはずだから。八木田橋はしゃがんで板を並べて、私のブーツに手を沿える。私は立ち上がり体重を掛けて板を履いた。八木田橋はしゃがんだままビンディングの様子をジロジロと見た。
「締めが緩い。あとで直してやるから。それと」
「それと?」
「転ぶな。さっき地震が来たかと思うくらい地響きがしたぞ? ユキ、体重何キロ?」
 肩を震わせて笑う。ビンディングの調整をするのに体重を知りたかったんだとは思うけど、八木田橋の聞き方にムカついた私は雪をグローブですくってしゃがんでいた八木田橋の首裏に突っ込んでやった。
「冷てえっ!」
「女の子に失礼なコト聞くからよっ」
「ユキ、女の子だったか?」
 今度は私がフライングして先に滑り下りる。
「ユキ、ずるいぞ!」
 後方で声がするけどお構いなしにスピードを上げた。緩やかな斜面、ただ滑るのも勿体なくて八木田橋の真似をする。山側の足をほんの少し前にして力を抜く。不思議なもので軽く曲がれた。逆の足でも試してみると山側の足が素直について来る。
「ユキ、そうだ! その調子だ。上体を倒して堪えろ!」
 背後から声がした。八木田橋の言う通りにする。休憩する前は全く体が言うことを聞かなかったのに、なぜか素直に体が動く。さっき八木田橋の滑りを見たからかもしれない。私と競争だなんて煽ったのはわざと……?
「よし! そのまま行け」
 体が軽く感じる。板が軽く感じる。不思議な感触で斜面を滑る。あっという間にリフト乗り場まで来てしまって、再び八木田橋と乗り込む。何本も滑る。競争なんて忘れて夢中で滑り下りた。
 夢中になりすぎてお昼を忘れてたことき気付き、麓のレストハウスまで来た。八木田橋と一緒に食事を取る。会計は彼がしてくれた。そしてもちろんケーキもお供で。今日はチョコケーキと苺ショート。席につくと八木田橋は私が選んできたケーキからすかさずチョコを奪い取る。
 食事を終えたあとは平屋の建物に板を持って移動した。ビンディングの調整をするために。中に入るとがらんどうとしていて、インストラクターは皆、レッスンに出払ってるみたいだった。
「ちょっと失礼」
「や……」
 八木田橋はそう言うと突然私を抱き上げた。背中を支える手、ひざ裏を救い上げる腕。そして何より目の前にある八木田橋の横顔。不意に近づいた顔にひゅうと体が震えた。
「素直に体重言わないからだ」
「聞かれて、はいそうですか、って言う女の子いる訳ないでしょっ?」
 八木田橋は、それもそうだな、と私を下ろした。50でいいか、とブツブツ言いながら台上にある私の板を押さえる。ドライバーでビンディングをずらして留めた。
 室内の片隅にあるファンヒーターが風音を立てる。私は椅子に腰掛けて八木田橋の背中を見る。無機質な室内で唯一動く八木田橋の姿は自然に視界に入ってしまう。
「ヤギ、今日オフ……あ、お取り込み中?」
 扉が開いて入って来たのは、あのロマンスリフトの先で私に声を掛けたインストラクターだった。
「そんなんじゃねえよ」
「なんかズルイなー、ヤギ独り占めで」
「一応顧客だし、そんなんじゃねえから」
 そのインストラクターは、そ、と素っ気なく返事をして私に向き直った。にっこりと笑う。
「ね、今度友だち連れて来てよ。合コンしよ?」
 そのひとことで私は腑に落ちた。あのとき合私に人数を聞いてきた理由はこれだっだ、と。ノリの軽さに私は軽く呆れた。
「こっちもさ、スキーの上手いインストラクター揃えるし。ボーダーの方がいい? あ、年下好き?」
「え、あの……」
 私が答えに困っていると、八木田橋は私の板にワックスを掛けながら呟いた。
「だから、そんなんじゃねえって言ってるだろ」
「またまた~。格好つけちゃって」
 八木田橋は、うるせえ酒井、と言いながら作業を続けている。その酒井というインストラクターは私に向かって更に言葉を続けた。
「ね、ヤギにお姫様抱っこされたでしょ?」
 え? 見られた? 私の慌てた顔にその酒井というインストラクターは笑った。
「やっぱり~。それ、こいつの常套手段だから。こいつさ、滑りがいいから目立つじゃん? それで女の子引っ掛けて合コンしてさ、去年だってそれで彼女作ったし。彼女出来たの、俺じゃなくてヤギね」
 私は確かめるように八木田橋を見た。でも黙々と手を動かすだけで肯定も否定もしなかった。
 八木田橋は変わらず無言だった。彼女いるんだ、いてもおかしくない。そうか、じゃあスマホに入ってる画像はその前の彼女の……?
 私は考えても無駄なことをぐるぐると考えていた。八木田橋に彼女がいようがいまいが私には関係ない。消えてしまった画像が誰のだなんて関係ない。
 八木田橋はワックスを掛け終えたのか、私の板を台から下ろし壁に掛けていた。酒井さんは、ね、キミ名前は?、コーヒー飲む?、インスタントだけどいい?、と言いながら私の返事も聞かずにカップボードからマグを取り出していた。八木田橋は今度は自分の板を台に乗せてワックスを掛けている。ただ無言でひたすら腕を動かして。私の位置からは八木田橋の顔を見ることは出来なくて、背中を見つめて黙っているしかなかった。