*29
 あれから数日、私は私に起こった出来事を調べた。ネットでそういった専門のサイトや個人ブログを読み漁り、化学的妊娠・流産は妊娠判定薬が手軽に入手出来るようからこそ認知された事象であること、そして私と同じ経験をした女性が沢山いることを知った。そのあとにちゃんと妊娠し出産してるひとがいることも、中には本当の流産を繰り返し、悩み苦しんでる人たちがいることも知った。あのとき、焦ってパニックになって医師に看護師に噛み付いたことを反省した。
 お風呂上がり、部屋に入って八木田橋にメールする。おやすみなさい、レセプト片付いたから今日で残業終わり、とたわいもない内容。もちろん、八木田橋から、体調は悪くないか、飯は食えてるか、と私を気遣う返信がすぐに来る。
翌日、仕事から帰宅すると、ダイニングテーブルにいた母は私を見るなり慌てて何かを片付けた。
「お帰り。早かったのね」
「うん」
 見覚えのある茶封筒。あの父の知り合いが母に押し付けた見合い写真だった。母は、ご飯食べるでしょ?、とごまかすように封筒を棚に片づけた。
「母さん?」
「今日、返しに行ったんだけど、会うだけでもって押し返されちゃってね。気にしなくていいのよ、ほら、和彦ちゃんの妹がまだでしょ、紹介しようかと思ってね」
母はキッチンに入り、夕飯の支度を始めた。地元の地方公務員、信頼できる知人からの紹介、同居が嫌なら別に家を建てても構わない、式も花嫁さんの意向に合わせる、と、この上ない好条件だ。
「ねえ、ユキはどうするの?」
「えっ、お見合い?」
「馬鹿ね、お見合いじゃなくて八木田橋さんとの結婚。いつにするの?」
「まだ決めてないし、向こうも何も言ってこないし」
「早い方がいいんじゃないの? ユキだって八木田橋さんと離れてたら寂しいでしょう?」
『早くユキと暮らしたかったから』
 母の言葉が八木田橋の台詞と重なる。確かに言われてみれば遠距離恋愛、でも不思議と寂しいと感じたことはなかった。最初の旅行で八木田橋を好きになったけど、片想いだとあきらめていて、それは間違いだと言わんばかりに八木田橋と会う機会を次々に与えられて。板泥棒の一件で八木田橋もわざと遊びだと振る舞ってたことを知った。母に背中を押されて八木田橋と付き合うと決心して、更に赤ちゃんを授かってトントン拍子に結婚の話が進み、でも流産して……。だから寂しいとか感じる余裕なんてなかった。それに今は毎朝毎晩メールをくれる。毎週末電話をくれる。あのぶっきらぼうな八木田橋がまめにメールをしてくること自体、それだけで満たされるというか。
「……?」
メール……。まめなメール……。
 元カノにもマメにメールを送ってたんだろうか。こんなふうに不安にならないように、気遣って。
「ユキ、6月に結婚したいなら今年しちゃえば?」
「え?」
「再来月を逃したら、次の6月はまた来年にならないと来ないわよ。宙ぶらりんより早く嫁いでくれた方が母さんも気が楽だわ」
 あんな素敵な人、ユキには勿体ないわね、と再び母は笑う。
 そんな早くに嫁がせたいだなんて……。八木田橋と式の話をしてるときに寂しそうに見えたのは私の思い込みだった?
でも、ひょっとしたら母は私にあの男性と結婚して欲しいと思っているとか。私に結婚を急かすのは見合い話に諦めがつくから? 見合いを断れずにいるのは母はまだ諦めてないから? 母だって、私が八木田橋と知り合う前は婿をもらって同居するものだと考えていただろうし、私だってそのつもりでいた。友人にだって「理想の恋人はお婿さんに来てくれるひと」って公言してたくらいだし。
スマホが鳴る。八木田橋だ。私は菜箸を片手に携帯に出る。
「こんな時間に珍しいじゃない」
「ああ。来週、そっち行ってもいいか? 平日だけど連休取れたし」
と八木田橋は言った。うん、と私は返事をする。この安心感は何処から来るのだろう。遠距離にいながらもそばにいる感じがする。それは八木田橋が遠距離恋愛に手慣れてるから?
『ヤギも29だしさ、その先のことを考えてたんじゃないの? 雪が苦手な元カノを無理矢理ここに縛り付けたくなかったんだろうね』
 酒井さんが言ってた、八木田橋と元カノが別れた原因。もしそうなら八木田橋は元カノを思って別れたことになる。父が母を思いやるように、寒さが苦手な母のために夢を諦めたように。もしかしたら八木田橋はまだ元カノを思ってるのかもしれない。八木田橋のスマホには元カノの画像を保存してあった。そんなの考えすぎだって思うけど、何となく胸騒ぎがして落ち着かなかった。