*28
「化学的、流産……?」
おなかの中から器具が抜かれ、カーテンの向こうの人影が消えた。医師は、台が降りますよー、と機械的に言った。呆然として、台から降りられない。年配の看護師が私の肩をたたいて、私はのそりと足を下した。支度をして診察室にもどる。医師はキーボードで電子カルテに記入していた。
「流産といっても医学的には流産の部類には入りません。妊娠したことに気付かないで生理が遅れた位に考えてください」
「……赤ちゃんは」
「特に処置は必要ありません、今までと同じ生活を続けて構いません、夫婦生活も特に制限しなくても大丈夫です」
「処置……処置って」
「避妊をやめればすぐに妊娠すると思われてる方が大変多いのですが、そう簡単なものではありません。人間の受精卵は、受精の直後では40%が異常卵、それが子宮に移動する間に淘汰が起きて、着床時には25%に減ると言われている。染色体の異常は誰にでも起こる出来事です」
「そんなこと……そんなこと言われても! 流産って癖になるって」
流産という言葉がだけがリフレインする。
「今回のケースは当てはまりません、安心してくだ……」
「母は何度も流産を繰り返したんです! もしかしたら私も」
「遺伝は全くないとは言えませんが、必ず遺伝するとも限りません」
「でもっ」
私は流産した事実を突き付けられてパニックになっていた。冷静に説明をする医師に食ってかかり、看護師に宥められる。自分だって何をしてるか分かっていた。八つ当たりだ、って。
待合室にもどり、シートに腰掛ける。回りにはお腹を突き出した妊婦たちが診察や会計を待っている。育児雑誌に目を通したり、マタニティクラスのお知らせを眺めてたり。私には、皆が勝ち誇り笑ってるように見えた。それも被害妄想だって分かってる。会計を済ませる。呆然としながら車に乗り込む。あとはどうやって帰宅したのかは覚えてはいない。いつも通る交差点は赤信号で停止したか青で止まらず通過したか、家の前を通っただけで吠える犬がいたかどうかも記憶がない。ぐるぐると医師とのやり取りが頭を駆け巡り、気が付くと玄関の前に立っていた。
中に入り、靴を脱いでダイニングに行く。お茶を飲んでいた母は笑顔で立ち上がり迎えてくれたけど、私の表情で察したようだった。
「ユキ」
「駄目、だって」
覚えてる限りの説明を母に伝える。化学的流産で流産に当たらない、よくある出来事で特に処置もない、次の妊娠には何ら問題はない、と。母も寂しそうにため息をついた。
「そう……。残念だったわね。でも問題はないってお医者さんが言ったんでしょう?」
医師の言葉を思い出す。ただでさえ大変な受精卵の着床、体質の遺伝。そうなら、もしそうなら、母のように子を授かるのは難しい可能性は高いのだ。
「でも遺伝するかも……。そしたら私、私……」
八木田橋に流産したと伝えたら、がっかりするに決まってる。流産を繰り返して、子どもが産めない体だと知ったら八木田橋はどう思うだろう。私と結婚したら、自分の子を持つことが出来ないかもしれない。小さな子どもに優しい声で優しい笑顔でスキーを教える八木田橋。おませで憎たらしいけど、菜々子をちゃんと女の子として扱う八木田橋。自分の子どもをいらないなんて思うはずがない。
「ユキ、まだ妊娠出来ないって決まった訳じゃないのよ。医学は日進月歩、あの頃より数段も良くなってるはずだから」
「……八木田橋さんに電話してくる」
私はそう母に伝えて2階の部屋に入った。本当に電話しようと思ったんじゃない、母が慰めようと掛ける言葉が妊娠出来ない事実をひた隠しにしてるように聞こえて、耳を塞ぎたかった。スマホを取り出し、八木田橋の番号を表示させる。何を話せばいいかも分からないまま、通話ボタンを押した。
「どした? こんな時間に珍しいな」
変わらない八木田橋の声。
「あ、うん……」
コユキ、元気か?、と尋ねられて言葉に詰まった。何から説明すればいいか言葉を探している間、無言になる。
「おい……?」
「コユキ……コユキは……りゅ……」
コユキは流産した、って言おうとして声が震えた。あの日、ちゃんとコユキは点で見えていた。ちゃんとお腹の中にいた。今頃本当は小さな袋になって、妊娠まるわかり百科にある達磨のような形になって、心臓の音だって聞こえたかもしれない。でも、今は、いない。
私は新しい命を守ってあげることが出来なかった。コユキを育ててあげられなかった。ポロポロと頬を液体が伝う。私は赤ちゃんを失ったんだ、とその事実に気付いた。
「ユキ?」
「ご……めん……ヤギ」
「謝るなよ」
「だって、私……コユキを、コユキを守ってあげられなかった……ご……」
八木田橋が、謝るな、とだけ言うのが聞こえた。八木田橋にきちんと説明しようとするけど、唇が震えて言葉にならない。私は泣いた。声にならない声を上げて泣いた。スマホを握り締め、床にへたり込む。流産したとかこれからの未来とかそんなことが心配なんじゃなくて、ただ赤ちゃんを失ったことが悲しかった。八木田橋との間に生まれた命。予想外だったとは言え、愛する人との間に授かった命。妊娠に気付いてどうしていいか分からず躊躇して、母や八木田橋に背中を押されて大きな不安は消えた。その途端に可愛く思えた赤ちゃん……。それを失った。大切に大切に育てると決めた癖になくしてしまった。その小さな命に申し訳がなくて涙が止まらない。声にならない声で何度も、ごめんね、と言おうとする。でも謝っても謝っても足りなくて、どうすることも出来なくて、私はひたすら泣いていた。終いにはわあわあと子どもが泣くように泣いていた。
どの位そうしていただろう、握り締めていたスマホから充電の切れるアラーム音が聞こえた。慌てて充電用コードを探す。充電しなきゃ、と呟きながらプラグを差し込むと、クスクスと笑う声が聞こえた。私は八木田橋と通話中だったことをすっかり忘れていた。
「アホ」
時計を見れば20分は泣き続けてた。
その間、ずっと私の泣き声を聞いていたんだろうか。言葉にならない私の泣き声を。八木田橋は私に、体は大丈夫か?、何か処置とかあるのか?、と体の心配をしてくれた。少し落ち着いた私は、医師の説明を繰り返した。
「コユキは……」
八木田橋が言いかけた。
「コユキはきっともどって来るから。今はまだ早かったから出直して来るんだ、なくなったんじゃねえから」
「ヤギ……。そうだね、コユキはきっともどって来るよね」
「当たり前だろ、アホ」
「ねえ、女の子なら本当にコユキって名付けるつもり?」
「悪いか?」
「父のことスキー馬鹿って言って、自分だって馬鹿じゃない。小さい雪でコユキ?」
「ダサいな、やっぱりダ埼玉人は」
「小雪じゃなかったらなんなのよ」
「……笑わないって約束するか?」
「するわよ」
「雪に恋する、で、“恋雪”」
恋雪、コユキ……。私は返事が出来ず、無言でいた。
「嫌か……?」
「お、男の子だったらどうするのよっ」
「男って気がしねえ。絶対女の子だ!」
その絶対的な確信は何処から来るのか、思わず吹き出した。うるせえ、と八木田橋が怒る。八木田橋は仕事にもどるからと通話を切った。
どんなに泣いても八木田橋は笑わせてくれる。笑う前に怒らせることもあるけど、それは私を奮起させるためにわざわざ癪に障る言い方を選ぶのも分かってきた。その安心感から私は八木田橋の前では素直に甘えるのかもしれない。
「化学的、流産……?」
おなかの中から器具が抜かれ、カーテンの向こうの人影が消えた。医師は、台が降りますよー、と機械的に言った。呆然として、台から降りられない。年配の看護師が私の肩をたたいて、私はのそりと足を下した。支度をして診察室にもどる。医師はキーボードで電子カルテに記入していた。
「流産といっても医学的には流産の部類には入りません。妊娠したことに気付かないで生理が遅れた位に考えてください」
「……赤ちゃんは」
「特に処置は必要ありません、今までと同じ生活を続けて構いません、夫婦生活も特に制限しなくても大丈夫です」
「処置……処置って」
「避妊をやめればすぐに妊娠すると思われてる方が大変多いのですが、そう簡単なものではありません。人間の受精卵は、受精の直後では40%が異常卵、それが子宮に移動する間に淘汰が起きて、着床時には25%に減ると言われている。染色体の異常は誰にでも起こる出来事です」
「そんなこと……そんなこと言われても! 流産って癖になるって」
流産という言葉がだけがリフレインする。
「今回のケースは当てはまりません、安心してくだ……」
「母は何度も流産を繰り返したんです! もしかしたら私も」
「遺伝は全くないとは言えませんが、必ず遺伝するとも限りません」
「でもっ」
私は流産した事実を突き付けられてパニックになっていた。冷静に説明をする医師に食ってかかり、看護師に宥められる。自分だって何をしてるか分かっていた。八つ当たりだ、って。
待合室にもどり、シートに腰掛ける。回りにはお腹を突き出した妊婦たちが診察や会計を待っている。育児雑誌に目を通したり、マタニティクラスのお知らせを眺めてたり。私には、皆が勝ち誇り笑ってるように見えた。それも被害妄想だって分かってる。会計を済ませる。呆然としながら車に乗り込む。あとはどうやって帰宅したのかは覚えてはいない。いつも通る交差点は赤信号で停止したか青で止まらず通過したか、家の前を通っただけで吠える犬がいたかどうかも記憶がない。ぐるぐると医師とのやり取りが頭を駆け巡り、気が付くと玄関の前に立っていた。
中に入り、靴を脱いでダイニングに行く。お茶を飲んでいた母は笑顔で立ち上がり迎えてくれたけど、私の表情で察したようだった。
「ユキ」
「駄目、だって」
覚えてる限りの説明を母に伝える。化学的流産で流産に当たらない、よくある出来事で特に処置もない、次の妊娠には何ら問題はない、と。母も寂しそうにため息をついた。
「そう……。残念だったわね。でも問題はないってお医者さんが言ったんでしょう?」
医師の言葉を思い出す。ただでさえ大変な受精卵の着床、体質の遺伝。そうなら、もしそうなら、母のように子を授かるのは難しい可能性は高いのだ。
「でも遺伝するかも……。そしたら私、私……」
八木田橋に流産したと伝えたら、がっかりするに決まってる。流産を繰り返して、子どもが産めない体だと知ったら八木田橋はどう思うだろう。私と結婚したら、自分の子を持つことが出来ないかもしれない。小さな子どもに優しい声で優しい笑顔でスキーを教える八木田橋。おませで憎たらしいけど、菜々子をちゃんと女の子として扱う八木田橋。自分の子どもをいらないなんて思うはずがない。
「ユキ、まだ妊娠出来ないって決まった訳じゃないのよ。医学は日進月歩、あの頃より数段も良くなってるはずだから」
「……八木田橋さんに電話してくる」
私はそう母に伝えて2階の部屋に入った。本当に電話しようと思ったんじゃない、母が慰めようと掛ける言葉が妊娠出来ない事実をひた隠しにしてるように聞こえて、耳を塞ぎたかった。スマホを取り出し、八木田橋の番号を表示させる。何を話せばいいかも分からないまま、通話ボタンを押した。
「どした? こんな時間に珍しいな」
変わらない八木田橋の声。
「あ、うん……」
コユキ、元気か?、と尋ねられて言葉に詰まった。何から説明すればいいか言葉を探している間、無言になる。
「おい……?」
「コユキ……コユキは……りゅ……」
コユキは流産した、って言おうとして声が震えた。あの日、ちゃんとコユキは点で見えていた。ちゃんとお腹の中にいた。今頃本当は小さな袋になって、妊娠まるわかり百科にある達磨のような形になって、心臓の音だって聞こえたかもしれない。でも、今は、いない。
私は新しい命を守ってあげることが出来なかった。コユキを育ててあげられなかった。ポロポロと頬を液体が伝う。私は赤ちゃんを失ったんだ、とその事実に気付いた。
「ユキ?」
「ご……めん……ヤギ」
「謝るなよ」
「だって、私……コユキを、コユキを守ってあげられなかった……ご……」
八木田橋が、謝るな、とだけ言うのが聞こえた。八木田橋にきちんと説明しようとするけど、唇が震えて言葉にならない。私は泣いた。声にならない声を上げて泣いた。スマホを握り締め、床にへたり込む。流産したとかこれからの未来とかそんなことが心配なんじゃなくて、ただ赤ちゃんを失ったことが悲しかった。八木田橋との間に生まれた命。予想外だったとは言え、愛する人との間に授かった命。妊娠に気付いてどうしていいか分からず躊躇して、母や八木田橋に背中を押されて大きな不安は消えた。その途端に可愛く思えた赤ちゃん……。それを失った。大切に大切に育てると決めた癖になくしてしまった。その小さな命に申し訳がなくて涙が止まらない。声にならない声で何度も、ごめんね、と言おうとする。でも謝っても謝っても足りなくて、どうすることも出来なくて、私はひたすら泣いていた。終いにはわあわあと子どもが泣くように泣いていた。
どの位そうしていただろう、握り締めていたスマホから充電の切れるアラーム音が聞こえた。慌てて充電用コードを探す。充電しなきゃ、と呟きながらプラグを差し込むと、クスクスと笑う声が聞こえた。私は八木田橋と通話中だったことをすっかり忘れていた。
「アホ」
時計を見れば20分は泣き続けてた。
その間、ずっと私の泣き声を聞いていたんだろうか。言葉にならない私の泣き声を。八木田橋は私に、体は大丈夫か?、何か処置とかあるのか?、と体の心配をしてくれた。少し落ち着いた私は、医師の説明を繰り返した。
「コユキは……」
八木田橋が言いかけた。
「コユキはきっともどって来るから。今はまだ早かったから出直して来るんだ、なくなったんじゃねえから」
「ヤギ……。そうだね、コユキはきっともどって来るよね」
「当たり前だろ、アホ」
「ねえ、女の子なら本当にコユキって名付けるつもり?」
「悪いか?」
「父のことスキー馬鹿って言って、自分だって馬鹿じゃない。小さい雪でコユキ?」
「ダサいな、やっぱりダ埼玉人は」
「小雪じゃなかったらなんなのよ」
「……笑わないって約束するか?」
「するわよ」
「雪に恋する、で、“恋雪”」
恋雪、コユキ……。私は返事が出来ず、無言でいた。
「嫌か……?」
「お、男の子だったらどうするのよっ」
「男って気がしねえ。絶対女の子だ!」
その絶対的な確信は何処から来るのか、思わず吹き出した。うるせえ、と八木田橋が怒る。八木田橋は仕事にもどるからと通話を切った。
どんなに泣いても八木田橋は笑わせてくれる。笑う前に怒らせることもあるけど、それは私を奮起させるためにわざわざ癪に障る言い方を選ぶのも分かってきた。その安心感から私は八木田橋の前では素直に甘えるのかもしれない。