*26
 翌々日、2時間程早く退勤して自宅にもどると八木田橋の車が停めてあった。
「ただいま。あれ、八木田橋さんは?」
 ダイニングテーブルの席に座っていたのはスーツ姿の男性で、一瞬、八木田橋の他に来客があったのかと思った。ところがその男性が私の声に振り返り、私の口は動かなくなる。
「ヤ……」
「お邪魔してます」
 濃いめのグレーのスーツ、ノリの効いたシャツ、青系ストライプのネクタイ。初めて見る八木田橋のスーツ姿にドキリとした。八木田橋は立ち上がり、体大丈夫か?、休んでから行くか?、と私を気遣う。私はそのストレートな優しさにも戸惑いながら、受付時間に間に合わなくなるからすぐにと八木田橋を促した。
 八木田橋が車を出した。助手席に乗る。八木田橋は助手席のシートに片手を掛けて、車を後進させた。器用にハンドルを切るスーツ姿の八木田橋に見取れた。
「なんだよ、ジーっと直視して。惚れ直したか?」
「何言ってるのよ。ス、スーツなんて大袈裟じゃない? たかが病院に付き添うのに」
「病院だけじゃねえだろ」
 八木田橋の台詞の意味は分からなかった。
 病院に着き、受付を済ませる。バインダーに挟まれた問診票を手渡され、待合室のソファに八木田橋と腰掛けて記入をする。住所、氏名、生年月日、血液型、最終月経、周期、持病。恥ずかしいのか八木田橋は壁を見ていた。書き終えて受付に渡すと紙コップを渡された。トイレに行き、用を済ませる。八木田橋のところにもどり、再び隣に腰掛けた。辺りを見回す。平日の午後とあってか人は疎らだった。
 しばらくして名前を呼ばれる。八木田橋は、俺も行くか?、と言ってくれたけど断った。問診票だけで戸惑ってるのに診察に付き添うなんて無理だと思ったから。
 医師から問診を受ける。最終月経はひと半月以上前だけれど今回は排卵が遅れてたみたいで、と告げた。内診をするから台に上がるよう言われた。後ろに控えてた年配の看護師が私に指示をする。初めてでしょう?、大丈夫よ、こっちね、と優しく誘導してくれた。小さな個室みたいな空間に押し込まれる。脱いだ下着はこのカゴに、ティッシュやナプキンは必要なら使って、脱ぎ終えたらここに腰掛けて足をここに乗せてね、と細かく説明してくれた。
「力抜いてくださいねー」
 カーテン越しの医師の声と共に台が機械音を出して上がる。私の緊張は最大になっていた。カーテンの向こうで動く人影、カチャカチャと鳴る器具の音。 .
 触診を終えて、超音波の器具が入ると告げられる。
「左のモニター、映りますか?」
「……はい」
 壁に掛けられたA4位の小さな画面。扇状の中で白黒の細い縞々がゆらゆらと揺れる様子は砂嵐だ。
「うーん、赤ちゃんがまだ見えませんね」
「え……?」
 中の器具がぐるぐる動かされるが、ピタリと止まった。
「あ? これかな。見えますか、黒い点」
「はい」
「これかもしれませんねえ」
 この小さい点が? 不思議に感じながら画面を見入る。直に器具は抜かれ、台は降ろされた。再び診察室にもどる。
「お母さんのおっしゃるように排卵日が遅れてたのかもしれませんね、最終月経から計算すると見えてもおかしくない時期ですので」
「お母さん?」
 年配の看護師が、あなたのことですよ、と笑う。
 医師は名刺大のモノクロ写真を一枚私に差し出した。さっきの黒い点が写っている。そして、また来週来てくださいと医師が言って診察は終わった。その写真を手に待合室にもどる。八木田橋は私に気付くと立ち上がった。
「どした?」
 心配そうに私の顔をのぞき込む。私はその写真を渡すと八木田橋は眺める。
「まだ赤ちゃんがよく見えないから来週も来てって」
「大丈夫なのか?」
「ほら、排卵日が遅れてたからまだそういう時期じゃないみたい。でね、この点みたいなの」
 私は八木田橋が持っている写真に指先を置く。
「ああ」
「これが赤ちゃんかもしれないって……」
「ええっ?」
 八木田橋はその点を黙って見入る。じっとじっと見つめる、穴が開くかと思うくらいに。しばらくして八木田橋は、これが、これが……?、と何度も呟いた。点を見つめる八木田橋の瞳が揺らいでいく。
「ヤギ……」
 八木田橋は片手を口元に当てる。何度もその手で顎を擦る。受付から名を呼ばれ、私は八木田橋から離れた。
 病院を出て八木田橋の車に乗る。妊娠の話になると動揺して見える八木田橋。ただ、少しだけ不安だった。予定外のこの妊娠を重荷だと感じてないか、もしくは疎ましく感じてないかって。ギアを変えて車は動き出す。病院からの帰り道、八木田橋は道を覚えたのか私に聞かずに交差点を曲がって行く。無言のまま車は進み、自宅にもどる。エンジンを切った八木田橋はルームミラーを自分に向け、右手を首元にやり、ネクタイを整える。
「ヤギ」
「なんだ?」
「……嬉しい?」
「アホ」
「ねえ、ほんとに……気取ってないで何とか答えてよ」
「子ども好きだって、言ったろ? それだけで分かれよ」
 ネクタイを整えた八木田橋は今度は衿を直す。
「ちゃんと言わなきゃ分かんないわよ」
「嬉しいに決まってるだろ。それに……早くユキと暮らしたかったから」
 ドアに手を掛けて押し開けながら、ようやくボソッと呟いた。八木田橋は運転席を降りた。私も合わせて助手席を降りた。
 八木田橋は深呼吸してからドアフォンを鳴らした。出迎えた母が、どうだったの?、と心配げに聞き、私はただ頷いた。ダイニングのテーブルに八木田橋と並んで座る。母はお茶を八木田橋と私に出すと母も席についた。八木田橋はあのときと同じに太ももの上で拳を握っていた。
 母にも医師から聞いた話をし、白黒の写真も見せた。とりあえず子宮外妊娠でないことに安堵したのか優しい目でそれを見ていた。
「お母さん」
 八木田橋はそう言って突然、頭を下げた。
「八木田橋さん?」
「順序が逆になってしまって」
 いいのよ、頭を上げて?、と母は言うけど八木田橋は動かなかった。
「申し訳ありません。亡くなったお父さんにも何て申し上げてよいか……」
「ユキだって28だもの、早い方がいいの。本当に頭を上げて」
と母が言い、八木田橋はようやく姿勢をもどした。
「ユキさんもお腹の子も大切にします。ユキさんを僕にください」
 八木田橋は再び頭を下げた。さっきより深々と、額がテーブルに着くくらいに。私はそこでやっと気付いた、八木田橋がスーツを着てきた理由。きちんとけじめをつけるために来たんだ、って。
「本当はユキさんの心の準備がきちんと出来てから、と思っていました。でもその前にここを離れることを許してください」
 八木田橋は更に頭を下げた。私も合わせて頭を下げる。八木田橋ひとりに責任を押し付けてるみたいで嫌だった。
「母さんごめんなさい」
「ユキまで……。お式はどうするの? 住まいは? 決めなきゃいけないこと沢山あるのよ。頭を上げて」
 ほらほら、おめでたいことなんだから、八木田橋さんとユキが決めたことならそれでいいのよ、と母が言い、八木田橋は頭を上げる。私もそれに合わせて頭を上げた。
「八木田橋さん、ユキ、おめでとう。幸せにならないと父さんが怒るわよ」
 私も八木田橋も頷いた。そして母が夕飯の支度をする間、八木田橋とこれからの話をした。住まいは宿舎にある家族用の部屋にするか麓のアパートにするか、式は安定期に入ってからでホテル併設の教会でいいか、それとも千葉か浦和でするか、八木田橋の実家には悪阻が本格的になる前に行こう、と。具体的に実感が湧く。本当にこの人と結婚するんだ、って。本当にこの人の赤ちゃんを産むんだ、って。
「ユキ?」
 私はまた、涙ぐんでいた。
「……産んでいいんだよね? 結婚していいんだよね?」
「まだそんなこと言ってんのかよアホ!」
八木田橋は笑いながら私の頭を撫でる。
「ちょうど……6月だな」
 ジューンブライド。
「梅雨時かよ」
「えっ?」
 雨じゃ寒いな、と舌を鳴らす八木田橋。更に、ガーデンチャペルは蛙の合唱だな、とクスクス笑う。
「そ、そっち? 6月の花嫁は幸せになれる、って言うのよ、知らないのっ?」
「そんなの知らねえし」
 母が出来上がった料理をテーブルに置きながら、あらあら夫婦喧嘩?、とからかう。不安が消えた訳じゃないけど、こうして八木田橋がそばにいてくれて、出産の先輩である母がそばについていてくれて、私は幸せなんだと実感した。何も迷うことなんてない、不安よりも新しい生活への希望の方が大きい。ときどき私は自分のお腹をさすった。望まれて生まれてくるこの命を大切にしよう、ちゃんと育てよう、と。