*25
 八木田橋はそのままツインの部屋で私と一晩を過ごした。落ちつかないのか八木田橋は寝返りを打ってばかりいた。私だって自分の体の中に別の生命体がいるなんて信じられなくて、自分の体を他人のもののように感じた。
 帰路のバスに揺られながら、今、何ヶ月だろう、出産予定日はいつだろうと考える。その前に母さんだ。まだ八木田橋と付き合い始めて間もない上に、そういうコトをしてしかも無計画にも出来てしまって、はしたない娘だと思われるだろうか。考えもまとまらないままシャトルバスは無情にも浦和に着いてしまった。
 母に迎えを請う電話をし、駅前の書店の中をを冷やかす。無意識に立ち止まったのは育児書の前だ。笑ってる赤ちゃんと母親らしき若い女性が写された表紙。1冊を手に取り、会計をする。バッグの奥底に隠すようにしまった。
 迎えに来た母はバッグしか持っていなかった私を不思議そうに見た。
「ユキ、板はどうしたの?」
「八木田橋さんがチューンナップしてくれるって預かってくれた」
「チューンナップって、今シーズンはもうスキーに行かないの?」
「だ、だってあのスキー場は今月末でクローズだし、八木田橋さんはゴールデンウイークは仕事だし一緒に滑りに行けないし。ウェアもクリーニングに出しちゃおうかな。母さん、クリーニング屋さんに寄ってくれる?」
 母は、変ねえ、いつもひとりで飛び出す娘が、と首を捻る。私はバッグを膝の上に助手席に乗り込んだ。母は訝しながらも車を発進させた。スキー制作会社にチューンナップを頼むから、と板は八木田橋に取り上げられた。スキーをして転んだら母体に影響が出ないとは限らない、大事にしろということなんだと思う。クリーニング屋の駐車場に車が止まると私はバッグからウェアを引っ張り出す。するとさっき買ったばかりの本も一緒に勢いよく飛び出してしまった。しかも紙袋が破けて、タイトルが剥き出しになる。母が本に手を伸ばした。
「初めてでもまるわかり妊娠百科……? って、ユキ?」
「あ、これは、よ、予習だからっ」
「予習?」
「暇潰しに買ったの!」
 母は、ふうん、と横目で私を見た。
「そういえば洗面台にナプキンの入った巾着、しばらく見てないわね。生理用ショーツも母さん洗濯した記憶が無いわ。母さんボケたかしら?」
 母は眉尻を上げてニヤリと笑う。たまらなくなってウェアを抱えてクリーニング店の中に逃げ込んだ。店員がレジに金額を打ち込む間、振り返って車内の母の様子をうかがった。本を開いていた。うわあ、というような顔をしたり、ふうん、というような顔をしたり。店員に代金を告げられ、財布を出す。下を向いた視界の中に自分のお腹が見えた。もちろんまだ膨らんではいない。その中にいるであろう、新しい命。八木田橋も喜んでいた。母も概ね嬉しそうだ。
 店を出て車内にもどる。母はパタンと妊娠百科を閉じて私に手渡した。
「母さん、あの……」
「なあに?」
「笑わないで、あの、私……」
「笑わないわよ、馬鹿ね。病院は行ったの?」
「ううん、まだ検査薬で調べただけで」
 じゃあ早く行きなさいね、子宮外妊娠だったら大変だから、悪阻は始まってるの?、無理しちゃ駄目よ、と優しく話してくれた。頭痛で鎮痛剤飲んだけど、と聞くと、まだ母体から栄養を取ってる段階じゃないし市販の薬なら大抵大丈夫よ、とアドバイスしてくれた。
 少し、肩に入れていた力が抜けたのか自然に息を吐いた。抱えてる不安はまだまだ山程あるけど、てっぺんの尖った頂だけはポキッと取れた気がした。私がため息をついたと思ったのか母が心配する。
「ユキ、ひとりで抱えてたの? 八木田橋さんにはまだ知らせてないの?」
「……知ってる」
 知ってるというか、あっちが先に気付いた。
「八木田橋さんは何て?」
「落ち着かないみたいだった。多分、喜んでるんだと思う」
 そう、八木田橋さんはお子さん好きそうよね、と母は言った。自宅に着き、まずは仏壇の父にただいまの挨拶をする。手を合わせながら赤ちゃんが出来たことを報告した。順序が逆になって父が八木田橋を怒ってるだろうか。遺影の父は優しく笑ってて、喜んでるように見える。
 持ち帰った荷物を片付けながら2階の部屋にもどる。さっき買った本をペラペラとめくる。最終月経から予定日を計算するやり方が載っていて、自分に当て嵌めてみた。ストレートに計算すれば出産予定日は11月末。でもあの日に出来たとすれば排卵日も遅れてたはず。
 自分のベッドを見る。優しく抱いてくれた八木田橋を思い出してしまった。八木田橋の手、指、切なそうな表情。終えたあとの布団からはみ出た足。恥ずかしさで顔が熱くなる。それと同時に胸がいっぱいになった。あのとき八木田橋は黙って私の前髪を梳いていた。何かを言いかけるときポールを突く彼の仕草と重なる。あの日も私を初めて抱いた夜もそうだった。
 八木田橋に電話をする。珍しくワンコールで出て、慌ててしまう。
「つ、着いたから」
「ああ」
 八木田橋はひと呼吸置いたあと、体、大丈夫か?、とぶっきらぼうに言う。聞きたいことはいっぱいあるのに、本人を前にすると言葉に詰まる。
「病院、行くんだろ? いつだ?」
 卓上のカレンダーを見る。月初で仕事が忙しくなる前に、早退して行くしかない。
「明日か明後日かな」
「……明後日。明後日なら休み取れるからさ」
「え?」
「だから空気読めよ。以心伝心ってねえのか? アホ」
「ア……あるわけないでしょ! アホアホ言うデリカシーゼロの男の考えてることなんてっ」
 一緒に病院に行くつもりなのは分かったけど、わざわざ3時間も掛けて来てもらうのも気が引けた。
「……ひとりで大丈夫だから」
「だからアホ。そっちに行くから」
 八木田橋は、腹出して寝るなよ、階段でコケんなよ、と言って通話は切れた。夕飯出来たわよ、と階下から母の声がする。部屋のドアを開けると酢の匂いがした。
 母に、明後日の午後に八木田橋が来ることを告げて食事を始めた。母は、じゃあ夕飯も食べていくかしら、何がお好きなのかしらね、と献立を呟く。嬉しそうだけど何処か寂しそうにも見えた。