*24
 お彼岸の明けた翌週、私は八木田橋のいるスキー場に来た。八木田橋が部屋の代金を支払い、シャトルバスの手配もしてくれた。駅まで母に送ってもらい、5分遅れでやって来たバスに乗り込んだ。
 八木田橋は毎日メールをくれる。晴れた日にはゲレンデから見える湖面の画像を、雪の日には吹ぶく冬木立の画像を添付してきた。週末には電話もした。相変わらず、早く寝ろ、とか、腹出して寝るなよ、とか馬鹿にする台詞ばかりで付き合い始めたばかりの恋人たちが吐くような甘い台詞はなかった。
 暖房の効いた車内、窓からの日差し。ぼーっとする。普段は運転するだけに手持ち無沙汰で更に朦朧とする。出発前に暖を取るために買ったコーヒーを飲む気にもなれず、途中にトイレ休憩に寄ったサービスエリアでスポーツドリンクを買って飲んだ。昼過ぎに到着し、滑る。もう店じまい間近のゲレンデはあちこち土が剥き出しになって春を知らせていた。八木田橋はスクール小屋の前で3歳位の男の子に板の履き方から教えていた。八木田橋は私に気付くとポールを上げて挨拶をした。私も同じくポールを上げる。半日券を買って滑ってはいたけど、バスに酔ったのかフラフラと足元がおぼつかず、リフト3本で上がった。早々にチェックインし、ベッドに寝転がる。欠伸を連発してそのまま意識が落ちた。
 ドアをノックする音で目を開けると窓の外は夕焼けの空が広がっていた。八木田橋だった。麓にあるイタリア料理の店で食事をすることにした。寝過ぎたせいか、がっつり食べる気分でもなくて、いつもとは違うタイプを注文した。トマトとバジルのパスタ、シトラス系のジェラート、炭酸水。
「どした?」
「何が」
「いつもは牛乳三昧だろ? クリームパスタ、チーズケーキ、ミルクティ。ユキの三種の神器だろ」
「たまにはね」
「雨、降るだろ。スキー場が早く閉鎖するだろ全く」
 八木田橋はクスクスと笑った。いつもの八木田橋。けれど八木田橋は突然、真顔になった。
「な、何よ。私の顔に何か付いてる?」
「いや」
「見とれてる訳?」
 まだ真顔で、不安そうに私を見ながら右手で顎を擦る。
「……アホ」
「アホって、私の名前はアホじゃないわよ」
 注文した炭酸水が届き、グラスの縁に飾られたレモンをぎゅうっと絞る。炭酸の上がる気泡に混じるレモンの香りにホッとしながらも酸味が物足りなく感じた。
「ユキ」
「だから何?」
「だから、さ……。来たか?」
「何が」
「月のモノだよ」
「月?」
 月のモノ、月の……。もっと味が出るようにストローでレモンを突く。八木田橋がなにを意味しているのかさっぱり分からない。
「かぐや姫でもあるまいし、月のモノって。えっ……?」
そういえば今月……。
「あ、あ、わ……」
 しゃべろうとするけど口が麻痺する。
 来てない。本当なら、あの数日後に来てるはずだった生理が来てない。間違いはないかと記憶を手繰り寄せるけど、あまりの衝撃に混乱して頭が働かない。
「気付くの遅えよ」
 妊娠したかもしれない、八木田橋と私の子。八木田橋を見ると頬を口元を緩ませてニコニコと穏やかに笑っている。明らかにいつもの馬鹿にした笑い方とは異なっていた。予想だにしていなかったこと……。
 安全日だと告げて誘った私を怒ってないんだろうか。それとも優しく笑うのは、呆れてるからだろうか。
「何、笑ってるのよ」
「別に」
「ま、まだ確定した訳じゃないし」
「じゃあ調べるか? 薬局に売ってるんだろ?」と八木田橋は言った。
「なぜそういうコト知ってるのよ? 経験がある訳?」
 八木田橋は、アホ、と言って笑う。
 食事を終えてショッピングモールに向かう。俺が買ってくるから、と八木田橋だけが車を降りた。ホテルの部屋にもどり、八木田橋は顎でトイレを指す。仕方なく紙袋と共にトイレに入る。初めて手にする妊娠検査薬、外箱の注意書きを読んでから用を済ませた。八木田橋にどんな顔をしていいのか分からなくて、そのままトイレにこもる。換気扇が回るだけの静かな空間。心臓がバクバクする。検査の結果が陽性ならきっと産むことになる。遅かれ早かれ、こうなることは分かっていたはずなのに。まだ早い、まだ怖い。何か私に最後の宣告をするように、無機質なその白いプラスチックの棒は淡々と秒を刻んでいる。自分から誘ったのに、万が一そうなってもいいと思った癖に実際に突き付けられて怖じけづいた。
 わずか1分、結果は出た。うっすらと浮き出る青いラインを説明書にある例と見比べる。多分陽性。大きく息を吸う、吐く。そしてそっとドアを開けてトイレを出た。部屋にいる八木田橋を見る。八木田橋は立っていたかと思うとベッドに座り、座ったかと思うと立ち上がる。落ち着かない様子だった。私に気づいて立ったまま動きを止めた。ぎろりと睨まれる。
「あ……た、多分、出来た……かも」
 自分の声が震えるのが分かった。蛇に睨まれるカエルの心境だった。
「ごめん……ね……」
「なんで謝るんだよ」
「だ、だって、安全日って言ったのに。お、怒ってる?」
「なんで怒る必要があるんだよ」
「呆れてる?」
「なんで呆れる必要があるんだよ」
「だって」
「アホ。俺、子ども好きだし」
 立っていた八木田橋は歩いて来て、私を緩く抱きしめた。そっと私の背中を撫でる。ゲレンデで子どもたちに教える八木田橋の姿を思い出した。優しく丁寧に教えてる姿。ひょっとして喜んでる……?
「女の子ならいいなあ。女の子なら菜々子ちゃんみたいな女の子。可愛いし、オシャマだけど素直だし」
「え?!」
 私はつい、八木田橋の胸を突き返した。目の前の八木田橋はニヤニヤと笑い、鼻の下をデレデレと伸ばしている。八木田橋には甘い眼差しで纏わり付く菜々子ちゃん。私をオバサン呼ばわりし、八木田橋の前ではお姉さんと呼ぶ菜々子ちゃん……いや、菜々子!
「か、可愛くなんかないわよっ、コロっと騙されて馬鹿じゃないのっ?」
「なんだ、ヒガミか?」
「ひがんでなんかないわよっ」
「へえ?」
「あんな生意気な子より可愛い子を産むんだからっ」
「ほお? 可愛い子?」
「当たり前でしょっ、私が産むんだから! しおらしくて控えめな子!」
「どうだか」
「なんでそんなに菜々……」
 さっきまでデレていた八木田橋は真顔にもどり、ふうっと息を吐いた。応戦してくると構えてた私は肩透かしを食らった。
「……産むんだな? 産むんだよな?」
「う、産むわよ!」
 私が勢いよく言うと、八木田橋はドスンとベッドに腰掛けた。そして頭をぼりぼりと掻く。
「なら、いい。なんかさ、産むの戸惑ってるみたいに見えたから」
 八木田橋はぼそりと呟くように言った。
「俺、男の子でも女の子でも……何でもねえ!」
 八木田橋はそう言い捨てて、どん!とベッドに寝転がった。