*22
 ご飯を口に入れる。無理やり、味噌汁で喉に流し込む。食欲なんてない。ただ、技術選後にわざわざ来てくれた八木田橋に心配を掛けたくなかったし、プロポーズされて沈んでる自分がおかしいと思った。
 望んでいた八木田橋との関係。母を置いてまで一緒にいたいと思っていたのに。ご飯を食べ終えて食器をキッチンのシンクに置く。コーヒーをいれようとやかんを火に掛ける。ドリッパーに紙をセットして粉を撒いて、湯が沸くまでの間に洗い物をしようとした。
「俺が洗う。爪、傷付くだろ?」
 背後に八木田橋がいた。八木田橋はレバーを上げて湯を出した。軽く流してからスポンジを手に取る。
「……最近」
 八木田橋が言いかけた。
「何?」
「最近っつうか、あれから雪の模様してないのな、爪」
「うん……」
 八木田橋は皿を洗う。私は何を期待しているのだろう……。
『俺、洗うよ。爪、傷が付くんだろ?』『たった3日で……俺、軽い、か?』
 あの時と同じシチュエーション、同じような台詞。でも後ろから抱きしめてはくれない。
「雪のピアス、気に入らなかったか?」
「ううん」
「お前、なくしたんじゃねえのか?」
「え?」
「そうなんだろ? 俺、一生懸命選んだのになあ?」
 八木田橋は、酷い女~っ、と横目で私を見下した。
「ちゃ、ちゃんと取ってあるわよっ」
「へえ? 本当かよ?」
「あーたり前でしょ、いま見せてあげるっ」
 私はコンロの火を止め、キッチンを出た。ズカズカと階段を駆け登り、部屋に入った。棚から水色の小箱を取り出す。ずっとしまいっ放しだった雪のピアス。窓からの日差しを受けて輝いている。それを手に取り、耳に留める。
「へえ。ここがユキの部屋か?」
「ヤ……」
 振り返るとドアの所に八木田橋が立っていた。
「や、のぞかないでよっ、最低!」
「最低で結構」
 クスクスと笑いながら中に入って来る。キョロキョロと見回して窓辺のアロマデフューザーを見つめた。円筒形のてっぺんから湯気を吐いている、それ。
「加湿器?」
「違う」
「芳香剤?」
「そんなとこ」
 八木田橋は屈んで鼻を近付けて、クンクンと匂いを嗅いでいる。
「なんかヤラシイし」
「ヤラシくて結構」
 匂いを嗅ぐのをやめた八木田橋は姿勢をもどして私の前に来た。そして突然、私の肩にもたれかかるようにして首筋に顔を埋めた。そしてデフューザー同様、クンクンと匂いを嗅いでいる。
「や……ちょっ、犬?」
「ユキの匂いの素はあれだったのか」
 くすぐったくて首を竦めた。それでも八木田橋は首から離れてくれなくて、私はバランスを崩して思わず片手で八木田橋のシャツを掴んだ。八木田橋の鼻が首筋から耳に移動した時点でわざとだと確信した。鼻先で耳たぶをなぞる、ピアスにこすりつけるように小さな円を描いて。私は更に首を竦めた。シャツを掴んでいる手にも力が入る。そんなこともお構いなしに八木田橋は耳を撫で続ける。
 しばらく耳元で悪戯をしていた八木田橋は頭を私の肩に乗せた。ゴリゴリと額を擦り付ける。
「ヤ、ギ……?」
「……我慢出来ねえ」
「こ、ここなら父さん見てないから」
「アホ」
 八木田橋は、それもあるけど、と呟いた。ふう、と息を吐く。
「お前、昨夜からおかしいから」
「え?」
「酒も飲まねえし、ご飯もパクパク食わねえし」
「飲み込むことしか能がない掃除機みたいに言わないでよ」
 肩にのしかかる八木田橋の頭から、うちのシャンプーの匂いに混じって男の匂いがする。八木田橋の胸に甘えたくて、でもプロポーズされて蟠りがあるなんて言えなくて、そのまま動けずにいた。
「どした?」
 でも、心配する八木田橋に、何でもない、とも言えばもっと心配すると思った。
「た、誕生日」
「誕生日?」
「ヤギの誕生日……ヤギの血液型……」
「はあ?」
「ヤギの好きな色」
「合コンみたいな質問すんなよ」
「ヤギの出身小学校」
「何だよ、今度は見合いかよ」
八木田橋のシャツをぎゅうっと掴む
「だってヤギのこと、何にも知らないんだもん……」
 八木田橋は私の肩から離れて私の顔をのぞき込む。私もシャツを離した。
「……誕生日聞いて血液型知って、占って相性悪かったら別れんのか? 出身校聞いて無名の大学なら別れんのか?……占いを信じる乙女チックな柄でもねえ癖に」
 肩を抱き寄せられる。目の前には八木田橋のシャツ。頭に頬擦りしてるのかグリグリと何かを擦り付けられた。
「焦るなよ。少しずつ覚えていけばいいんだし、ユキに隠し事なんてねえから何でも話してやるから」
 私はコクリと頷いた。すると八木田橋は肩に置いた手を私の背中に回して抱きしめた、しかもぎゅうっと力強く。顔面に八木田橋のシャツが押し付けられて息が苦しい。私は息を吸おうと顔を上に向けた。八木田橋と目が合う。顔が近付く。キスをする。触れるだけのキスを何度もした。顔の向きを変えキスを繰り返してるうちに背に置いたはずの八木田橋の手が私の後頭部に移動して、押さえ込まれる。貪欲に互いを求めあう。
 突然、八木田橋がキスをやめ、私を離した。
 密着していた私の体と八木田橋の体に空気が入ってヒンヤリとした。さっきまでの熱い唇や手のひらが嘘だったみたいにできた距離。八木田橋は俯いて髪を掻きあげる。
「……止められなくなる」
「と、父さん見てないし母さんも出掛け、た……」
「なあコーヒー、途中だったろ?」と八木田橋は私に背を向けて部屋を出ていこうとした。
「ヤギっ」
 私は咄嗟に八木田橋の背中を掴んだ。シャツを引っ張られた八木田橋が少しふらつく。ただ、八木田橋と離れたくなかった。一瞬でも離したくなかった。みっともないって思う、なんか女からせがんでるみたいで恥ずかしいと思う。それでも誰かと触れていないと自分が壊れてしまいそうで、温もりが欲しくて、八木田橋の背中に縋り付いた。何処でもいい、八木田橋の手でも指でも上唇の先でもいいから触れたかった。
「……持ってねえし、アレ」
「多分、安全日だから」
「そういうのって100パーセントじゃねえだろ?」
「……うん」
「放せよ、シャツ。ヨレるだろ?」
 拒否されて仕方なく手を離した。その瞬間、背を向けていた八木田橋は振り返って私を力の限り抱きしめた。
「アホ」
「ちょ、ヤ……」
 そのまま押されて後進し、ベッドに背中から倒れた。覆いかぶさるように共に倒れこんだ八木田橋は私の服に手をかけ、性急にそれを剥がした。