*21
 母にこれから八木田橋を連れていく、と電話をすると、喜びの声を上げた。
「夕飯の用意、したほうがいいかしら?」
「多分途中で済ませると思う」
「じゃあおつまみとお酒、用意しとくわね。あと布団も用意するわね。ユキの部屋でいい?」
「えっ! や、何、母さん!」
 馬鹿ね、冗談よ、と母は笑って通話を切った。
 運転は八木田橋に任せることにした。シートの調整をし、エンジンを掛ける。スピーカーから音楽が流れて、へえ、ユキはこんなの聞いてんだ、と八木田橋は鼻唄を歌う。ヤギは?、と尋ねると、ゲレンデで毎日有線聞いてるからな、と答えた。そこから昔好きだった曲や芸能人の話になる。レンタルしたCDを返し忘れてそのCDが買える位の延滞料金を徴収された話とか、弟と折半して購入したゲームソフトを弟が勝手に弟の彼女に貸し出した話とか。たわいもない話なのにスキー馬鹿以外の八木田橋の一面が見れて嬉しかった。そして改めて、自分が八木田橋のことを何も知らないと思い知らされる。カツ丼とチョコケーキとスキーと日本酒が好きで、インストラクターをしていて、それしか知らない自分に愕然とした。
 途中サービスエリアで休憩を挟み、帰宅したのは23時すぎ。車の音で気付いた母が玄関を開けて出迎える。八木田橋は、突然夜分にすみません、と頭を下げる。母は笑顔で、いいのよ、疲れたでしょう?、早く上がってくださいな、と私と八木田橋を促した。
 八木田橋はまず父のいる仏壇に手を合わせた。私も次に仏壇の前に立つ。そして、この人が八木田橋で、このスキー馬鹿にプロポーズされました、と心の中で報告した。和室の隅には畳んだ客用布団が置かれてあった。
 そのあと、ダイニングに行く。いつものようにキッチン側に母が座る。普段は向かいに席を取る私も、来客があるときは母の隣に座っていた。でも今回はなんとなく八木田橋の隣に立ち、二人で並んで掛けた。一瞬、母は寂しそうな顔をした。テーブルを挟んで私と八木田橋、母で向かい合う。
「やあね、改まって……」
 母は落ち着かないのか、席を立って酒の用意をしようとした。それを八木田橋が制止する。そして週末に休みが取れないこと、たまたま予備日で休暇を取っていたことを説明し、突然来たことを詫びた。隣の八木田橋が膝の上で拳を握るのが見える。
「ユキさんとお付き合いさせてください。まだ知り合って日も浅いです、だから結婚を前提にとは言いません、ユキさんが本当に僕でいいという気持ちになったらそのときに改めて挨拶に伺います」
 そう言って頭を下げた。私も思わず一緒に母に頭を下げる。
「八木田橋さんもユキも頭を上げて」
 八木田橋が頭を上げるのが横目に見えて一緒に頭を上げる。こんな娘ですけどこちらこそお願いします、と今度は母が頭を下げた。テーブルを挟んでいるのはいつもと同じなのに、母がすごく遠く感じた。
 そのあとは3人で乾杯した。八木田橋が無事に決勝まで戦えたこと、私が八木田橋と付き合うことになったこと、母は仏壇にも日本酒を上げた。おつまみと言ってた癖にたくさんの料理が並ぶ。サービスエリアで軽く蕎麦しか食べてなかった八木田橋は豪快に食べる。母は作り甲斐があるわね、と八木田橋を嬉しそうに眺める。母も八木田橋もそこそこ飲んでいたけど、私は飲む気にはなれなかった。
 日付が変わりしばらくして、八木田橋に風呂に入ってもらう。母と私で後片付けをする。和室の布団を敷く。母は八木田橋が風呂から帰って来ると、おやすみなさい、ゆっくり休んでね、と挨拶して自分の部屋に入っていった。
 私も風呂に入り、軽く体を流してパジャマに袖を通した。和室にいる八木田橋におやすみなさいと言おうとして、襖の前に立つ。
「ヤギ、もう寝た?」
「いや、まだ起きてる。どした?」
 襖が開く。母が用意した来客用の浴衣を来ていた八木田橋は、早く寝ろよ、と私の頭をグリグリ撫でた。
「ユキさ、親父さんにそっくりだな」
「よく言われる」
「親父さんが産んだのか?」
「そんな訳ないでしょ。馬鹿」
「お前怒るとここにシワが寄るのな」
 頭に置かれていた手が下り、その指が私の顎に触れた。
「ひゃっ……」
「な、何だよ」
 八木田橋は慌てて指を離す。ふたりでそのまま黙り込んだ。さっきまで笑っていた八木田橋は真顔になって私を見つめる。
「ユキ……」
 八木田橋の顔が近付く。目をつむると軽く唇が触れた。ゲレンデでしたのと同じ優しいキス。それを何度か重ねていくうちに段々と深くなる。八木田橋の胸に手を沿える。指先で引っ掻くように浴衣を掴む。
「ん……っ」
 私が少し声を漏らしたのを機に、八木田橋が急に離れた。
「そんな声出すなよ、止められなくなるだろ」
「だ、だって」
「親父さんが見てんだろ。ここで裸になって足広げる気か?」
 八木田橋は顎で仏壇の方をしゃくる。遺影の父は笑っている。
「……早く寝ろ、アホ」
 襖はピシャリと閉じられた。私は小さな疎外感を覚えて階段を上った。
 翌朝、目が覚めて階下に行くと、母がちょうど出掛けるところだった。淡いピンク色のスーツ、シフォンのスカーフ。いつになくおしゃれだ。
「八木田橋さんがお見えなのにごめんなさいね、母さん妹と出掛けるから」
 母はそう言って嬉しそうにそそくさと玄関を出た。私は洗面所で顔を洗い、ダイニングに入る。八木田橋は朝食を取っていた。
「ユキ、おはよ」
「……おはよ」
 何事もなかったようにご飯にがっついている。昨日プロポーズしたことも、中途半端なキスをしたことも忘れてるみたいに。
「ユキも食えよ」
「うん……」
 自分でご飯と味噌汁をよそうと、八木田橋の向かいに座った。八木田橋は母が漬けた梅干しや漬物、焼きたてのだし巻き卵を美味しそうに食べる。親に承諾をもらって男の大仕事を終えて荷が降りたと言わんばかりに。自分は役目を果たした、と。
「どした?」
 不意に八木田橋は視線を箸から私の顔に移した。ううん、と咄嗟に否定する。プロポーズされて舞い上がって、八木田橋のことを何も知らないことに気付いてショックを受けて、母から疎外された気分になって、甘えたかったのに八木田橋に跳ね返されて、悩んでいるのは私だけなんだと思った。
 昨夜、おやすみなさい、と言うために襖の前に立ったんじゃない、八木田橋の体が欲しくて誘ったんじゃない。ただ、ひとりぼっちで宙に浮いてる感じを治めて欲しかった。嬉しそうにおめかしして出掛けた母、美味しそうに食べる八木田橋。優しく笑う父の遺影。自分だけが取り残されて、どうにも惨めな気分だった。