*20
 2本目のレース、八木田橋は無事に滑走した。1本目の滑走順とは逆のリバース順。大会連覇の掛かった選手と上位常連の選手が280を超える高得点を叩きだし会場は一気に活気付く。そのあとの異様なまでの緊迫感の中、八木田橋は滑走した。1本目は怖くて目を逸らしたけど、2本目はゴールまできちんと見届けた。八木田橋の“負けねえから”の台詞に私も感化されたのもある。それは私のために滑ると言われたような気がしたから。颯爽と滑らかに雪面を撫でる。自然体で八木田橋の滑る姿は景色に溶け込んでいた。私はあのゲレンデで初めて奴を見たときにことを思い出した。私は息も出来ないくらいに見取れていたことを。
 すでに滑走した上位陣には及ばなかったものの、八木田橋は279という得点を出して順位を上げた。皆が拍手やハイタッチで彼の点数を祝う。
 スマホの着信音が鳴り、見れば八木田橋からメールだった。返信を打ち、指定されたレストハウスに向かう。何を話そう、何から話せばいいんだろう。格好良かった、素敵だった、とレースの感想を言うべきか、ずっと連絡もせずにいたことを詫びるべきか、それとも覚悟は出来たと伝えるべきか、私の頭の中は必死にシュミレーションする。本当のところは、八木田橋に会えることに緊張していてドギマギして、考えることで自分を落ち着かせようとしていた。だって、会いたくて、会いたくて、仕方のなかった人。
 しばらく待ち、レストハウス前に奴は現れた。
「おう」
「お、お疲れさま。あ、あのね」
「……行くか? 今日、滑ってないんだろ?」
「ないけど。でも表彰式は? これからでしょ?」
「表彰されるわけじゃねえし。いいだろ」
 板を履いて八木田橋のあとに続く。八木田橋の大きい背中。お揃いのウェア。板もポールもブーツも。こうして一緒に滑るのは、あの旅行以来かもしれない。八木田橋を異性だと意識したあの日、何度も何度も説明され、怒鳴られ、八木田橋の滑りを覚えた。
「ねえ、ヤギ」
 八木田橋は気付かないのか、そのままリフト乗り場に足を進める。あのときと同じように辺りの客はペアルックの私たちに道を譲る。ふたりでリフトに乗り込んだ。ともに沈黙する。さっき無視されて、私はまた声を掛けるのが怖かった。声を掛けたって何を話せばいいか分からない。ただリフトのロープの軋む音、スピーカーから流れる曲を聞いてるしかなかった。リフトを降りる。コース脇で準備体操をするように上体を捻ったり、足を前後に揺らしたりする。ヤギが滑り出す。私は奴のシュプールを丁寧に追う。八木田橋の綺麗でブレのないフォームを見ながら。春の重い雪など関係ないと言わんばかりに滑らかに下りていく八木田橋。今シーズンも終わりが近付いている。来年もこの人の後ろ姿を見ながら滑ることは出来るんだろうか。
「ヤギ」
 滑る八木田橋に呟くように話し掛けても聞こえない。来年と言わず、再来年もその次もその次の年も……。
 ずっと一緒に滑りたい、そう思ってここに来たんだ。私は自分を奮い立たせて声を出した。
「ヤギっ!」
 滑りながら叫ぶ。気付かないのか、八木田橋は止まらない。
「ねえ、ヤギ! ヤギってば!!」
 もう一度声を張り上げる。悠々と滑っていた八木田橋はようやくコース脇に向かい、端に止まった。私も並ぶように止まる。八木田橋は俯くようにし、ポールでグサグサと雪面を刺していた。
「ヤギ……?」
「……ヤギヤギ言うな、アホ」
「聞こえてたんじゃない」
 八木田橋はポールでひと刺しして手を止める。そして、大きく息を吐いた。
「ヤギ?」
「……だから」
 怒ってる……?
「お前もいずれ“ヤギ”になるんだろ?」
「ヤ……?」
 息が止まる……。
「その覚悟があって来たんだよな?」
 八木田橋は雪面を見たままだった。からかうときはいつも正面見て話す癖に。雪焼けした頬。
「俺、山は下りられない。今日上位を取った奴らみたいに公認デモじゃねえし、ましてやオリンピックに出るようなスキーヤーでもない。ホテルで皿洗いも雪掻きもするけど、今の仕事に誇りを持ってる。たくさんの子どもたちにスキーの楽しさを教えたい」
 スキーのことになると雄弁になる。
「ユキに……ユキに一方的に仕事辞めろなんて卑怯だけど、もし、仕事を辞めて山に来てくれるなら、俺は……」
 癖のある日本酒が好きで、スキー馬鹿で。
「俺はユキを支える。ユキもユキの母さんも」
 誠実なところも。
「母親に何かあればいつでも里帰りすればいい」
 優しいところも。
「それでも駄目ならそのときは俺も山を下りる」
 ねえ、娘は父親に似た人を選ぶって、誰が言ったんだろう……。
「それでもいいか? それでユキの親父さんも許してくれるか?」
 私は言葉が出なくて、ただ、頷いた。山側に並んでいた八木田橋はポールを突いて、くるりとUターンして私の前に来る。あのときみたいに私の板を挟み、私に正面から近付いた。八木田橋は自分のゴーグルを上げて額に動かし、直に私を見た。そして私のゴーグルに触れ、そっと外すと手に持った。
「気が強い癖に泣き虫だな」
「だって……余裕ない……いつも、いつも」
 八木田橋は膝を曲げたのか、私の顔の真ん前に八木田橋の顔が来る。徐々に近付き、私は目を閉じた。瞼で押し出された液体が両頬を伝う。少し乾いた唇がそっと触れて、そっと離れた。
 八木田橋は持っていた私のゴーグルをひょいと私に投げ、自分もゴーグルをはめると笑いながらポールを突いてバックした。
「お先!」
「ヤギ、狡いっ」
 挨拶するように片方のポールを上げ、下りていく。
 私もゴーグルを嵌め、斜面を滑り下りる。前方をゆっくりと蛇行する八木田橋の跡を追い掛けた。ふたりでスキーを楽しむ。暖かい陽射しの春スキー。リフトに乗れば酒井さんの噂話をしたり、レストハウスのケーキがリニューアルしただの、八木田橋の日常の話を聞いた。私も薬局長の話やら母の話をした。しばらく時間を忘れて滑っていたけど、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎて夕方になる。
 人も疎らなゲレンデ、明日は日曜だしナイターまでいてそれから帰るのも不可能じゃない。でも八木田橋は私の帰りを心配するだろうし、いつまでも一緒にいたいだなんてコドモみたいで。八木田橋は袖口の腕時計を見たあと、ポールで板に付着した雪を払った。ポールをいじるのは何か言いかけるときの八木田橋の癖だ。
「このあと用事あるか?」
「ううん、帰るだけだけど」
「一緒に浦和に行っていいか? 週末なんて滅多に休み取れねえし、ユキの親父さんに挨拶だけさせてもらえないか?」
 だから線香だけでも上げさせてもらえないか、と八木田橋は呟くように言った。