*19
早朝。露店風呂に行く。身を清めるように体を洗った。上がって髪を乾かしセットする。部屋にもどって欠けてないかネイルを見る。八木田橋がくれたベリー色のピアスをつける。
朝食会場に行って席に着くと隣のテーブルに小さな女の子がいた。父親の隣に座り、べったりと甘えている。対照的に向かい座る母親は機嫌が悪そうだ。その様子に昔の光景が浮かび上がる。週末の食卓、父の隣に自分の椅子を並べて食事をした。ジュースや麦茶で乾杯した。穏やかで何処にでもある普通の家族。ただひとりこの人だと決めた人と暖かい家庭を築きたい。一昨日、一気に順位を落とした八木田橋。大きな怪我をしてなければそれでいい。体調を崩してなければそれでいい。八木田橋らしい滑りを見せてくれたらいい。ううん、無理せずに棄権したっていい。幸せなんて大きなものじゃない。身近なところに何気なくあるものだってようやく気付いた。
「ナナコ、ほら、パパに食べさせてもらってばかりいないで自分で食べなさい」
「イヤ」
「ナナコ!」
となりのご家族の会話。ナナコ、ナナコ……? 聞き覚えのある名前につい、女の子を見やる。どこかで見たことのある……。
「あっ! 菜々子ちゃ……」
思い出した、スクールのメルマガだ。八木田橋の頬にキスをしていた女の子。思わず声を上げた私に3人そろって視線を向けた。
「あ、いえ、その……。スクールのメルマガで、可愛いって」
そこから会話が始まる。猪苗代のあのスキースクールに?、と尋ねられる。2度ほど個人レッスンを受けた、と言うとインストラクター名を聞かれた。恐る恐る八木田橋だと答えるとご両親は奇遇です、と笑みを浮かべたが、菜々子ちゃんの顔色は逆に変わった。
「菜々子ちゃん?」
「菜々子って気安く呼ばないで!」
「へ……?」
こら菜々子、そんなことを言うんじゃないよ、と父親が宥める。でもそんなことを聞く様子はなく、私を睨みつける。
「すみません、この子、八木田橋さんと恋人気取りで」
父親が菜々子ちゃんの頭を撫でて言うと、ホントの恋人だもん、チューしたもん!、と菜々子ちゃんはぷうっと頬を膨らませた。微笑ましい光景に笑顔になる。
「こ、コドモだと思って馬鹿にしてるの?」
「ううん」
「菜々子、ぜーったいヤギせんせとケッコンするもんっ!」
「そう」
「ぜーったい、ぜーったい、オバサンには渡さないもんっ!」
「オバ、サン……」
父親も母親も慌てて私に謝る。でも菜々子ちゃんの勢いは止まらない。
「男の人って若い女の子が好きなんでしょ、菜々子の方がいいって言ってくれるもんっ!」
「こら、菜々子」
辺りの宿泊客は菜々子ちゃんの饒舌さに微笑んでいる。こんな小さな子でも私が恋敵だって察知するのかと私は感心した。
「ヤギせんせのお部屋にだって泊まったもんっ! お化粧しなくても可愛いって言ってくれたもんっ! オバサンみたいに厚化粧なんかしないもんっ!」
「オバ……厚……」
そりゃあ八木田橋に会うために念入りに化粧もしたし髪もネイルもチェックしたけど、あまりの暴言にムッときた。
「今日だってね、ヤギせんせが菜々子に応援してってお電話くれたから来たのっ。オバサンは呼ばれてないでしょ?」
「よ、呼ばれてないわよ」
「ヤギせんせにとって菜々子はトクベツなの、わかった?」
菜々子ちゃんは勝ち誇ったように横目で私を見下した。菜々子いい加減にしなさい、と母親が本気で怒りだした。それを無視して菜々子ちゃんは、パパ、パパ、菜々子のお口にパン入れて?、とねだる。父親がパンをちぎって放り込むとべったりと寄り添って甘えた。
「……菜々子ちゃんは八木田橋さんとパパ、どっちと結婚するのよ?」
コドモ相手に何をムキになる、と客観的に見てる自分がいる。でもこんな生意気のコドモに負けたくない。
「両方」
「日本は一夫一婦制なのよ。どっちかしか選べないの!」
「オバサンのいじわる! 菜々子が可愛いからっていじめてるでしょっ」
菜々子ちゃんは勝ち誇ったように鼻で笑った。ムカつく。応戦する私にご両親は何かを察したのか、助け船を出してくれた。
「じゃあ、八木田橋さんに選んでもらうのはどう? 八木田橋さんにお姉さんか菜々子を選んでもらって、菜々子がフラれたらパパのお嫁さんになる。菜々子もそれならいいだろう?」
「パパが言うならそうするぅ」
上目遣いでべったりと父親に甘える菜々子ちゃんは満面の笑みを父親に向けた。しかし直後、私を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。
その腑に落ちない朝食のあと、ゲレンデに向かった。レストハウス内に貼り出された八木田橋の滑走順とビブ番号を確認する。八木田橋がこのゲレンデにいる。そう思っただけで胸が高鳴った。今日の決勝は2本。昨日一昨日の本選、準決勝、今日の決勝の点数を合計して順位は決められる。本選で大きく順位を落とした八木田橋は40位まで順位を上げていた。
1本目の試合会場に向かう。ゴール地点付近には人だかりが出来ていた。コース脇には駅伝大会のように個人名やチーム名ののぼり旗が掲げられている。異様な盛り上がりの中、最初の選手がスタートした。30度以上ある急斜面をもの凄いスピードで下りて来る。ゴールすると審判員達が一斉にジャッジする。持ち点はひとり100点、審判員は5人。最上と最下の2人の点数を除き、残り3人の合計が点数となる。つまりは300点満点。スタート地点のやぐらに設置された電光掲示板にその点数が表示された。そのひとり目の選手は245点。次の選手がスタートする。辺りの観客達が声を上げる。応援のラッパを鳴らす。耳を塞ぎたくなるほどの轟音。熱気。徐々に八木田橋の番が近づく。私は胸が張り裂けそうになった。
天気は晴れ。風もない。そう聞けば絶好のコンディションにも取れる。でも3月、春を間近にしたゲレンデは雪が溶けてシャーベット状態。つまり雪は重い。エッジを効かせ過ぎればすぐに足を取られるし、かと言ってブレーキを掛けなければこの急斜面、すぐに上体を取られる。どこまえ耐えらるか、精神面が結果を大きく左右する。
耳障りだった音が聞こえなくなる。それは慣れたからではなく、八木田橋のことが心配だから。満足のいく成績を出してと願う一方で、怪我のないよう無理せず滑り下りて欲しいと願う。早く終えてほしい、まだ滑ってほしくない。どうしていいか分からないくらい頭の中は混乱していた。少し離れたところで肩車される子どもが見えた。菜々子ちゃんだった。手袋をした両手を広げて口元に沿え、斜面に向かって叫んでいる。
「ヤ……」
八木田橋だった。ポールを突いて颯爽と滑り下りる。いつものゲレンデでは見たことないスピードに私の足は震えた。
「やっ……」
両手で顔を覆う。怖くて見ていられない。自分の心臓の音、早い鼓動。それをかき消す応援の声。
「岳史、ガンバ!」
「岳史、岳史!」
そこに混じる菜々子ちゃんの声。
「ヤギせんせっ! 頑張って」
歓声、拍手が大きくなり、ラッパの音は長く伸びた。八木田橋は無事にゴールしたに違いない。顔を覆っていた手を離し、ゴール付近を見回す。私とお揃いのウェアを来た八木田橋はコースの脇に移動し、板を外していた。ネット越しに仲間らしき観客が肩や頭を叩く。再び歓声が上がる。八木田橋は振り返りスタート地点の掲示板を見上げた。
口をぱっくりあけて拳を握り、その手を空に向けて伸ばした。そしてものすごく嬉しそうに辺りの人間とハイタッチをしている。電光掲示板を見やる。275。このレースの暫定1位。八木田橋は脱いだ板を拾い、コースの外に出た。観客の中に彼の姿を見失い、私は近くのレストハウスにもどった。
そこには昨日までの成績が貼り出されているホワイトボードがあった。昨日の時点で40位だった八木田橋とトップとの点差は70。300点満点を2本滑ったところで逆転出来る差じゃない。
突然、肩を掴まれた。
「来てたのか?」八木田橋だった。
「ヤ……な、何してんのよ」
「トイレ」
目を合わせるのも躊躇してホワイトボードの成績表に目をやる。それでも視界の隅に八木田橋のウェアが見えた。
「ユキこそ何してんだよ」
「た、たまたま来たら、こんなのやってて、ヤギの名前があるからびっくりして……。たまたまだからねっ!」
「へえ。それはそれは奇遇なコトで」
「応援に来たんじゃないからっ!」
「ほう?」
こんなところまで来て、覚悟を決めた癖に動揺して八木田橋に突っ掛かる。でもずっと連絡を絶っていたのに、変わらない八木田橋の態度に胸が詰まった。
「……順位、落としたでしょ?」
「はあ? 落とした?」
「一昨日、一気に59位まで落ちたじゃない。ネットで見たわよ」
「ああ、あれ。シード」
「シード?」
「去年決勝まで残った60人が本選から加わったからだぞ。人数見なかったか? 180人に増えてただろ?」
八木田橋が10位で通過した予選では250人から120人に絞られた。そこに去年決勝進出を果たした強豪60人が加わり、八木田橋は59位に押し出された。
そういえば酒井さんが決勝まで残った選手は予選パス、って言っていた。勘違いした私は、まだ八木田橋の方を向けずにいた。勘違いしたのが恥ずかしくて八木田橋を見れないんじゃない。
「……なあんだ。怪我した訳じゃないんだ……体調崩した訳じゃないんだ」
見ていた成績表の『八木田橋岳史』の文字が滲んでいく。八木田橋が無事だったのもある。でもそれだけじゃない。こうして何も無かったように再び八木田橋が構ってくれるのが嬉しかった。
「心配して来てくれたのか?」
頭の中で、心配して来たんじゃない、って悪態をつくけどしゃくりあげて言葉を出せない。ボロボロと涙を零して、もっと八木田橋の方を向けなくなって俯いた。
「アホ……。俺をどんだけ重傷者だと思ってたんだよ」
頭にふわりと暖かいものが触れた。そのままぐりぐりと撫でられる。
「この点差じゃ上位には食い込めねえけど。皆このために合宿組んだり公認デモにコーチ頼んだりしてるから厳しいけど」
八木田橋は私の頭を軽く寄せた。おでこが奴の胸に当たる。八木田橋の匂いがした。
「……負けねえから」
八木田橋はそう付け足すように言ってもう一度私の頭をぐりぐり撫でた。入口の方から、岳史行くぞ、と八木田橋を呼ぶ声がした。八木田橋はポンポンと優しく叩くと私のそばを離れた。
早朝。露店風呂に行く。身を清めるように体を洗った。上がって髪を乾かしセットする。部屋にもどって欠けてないかネイルを見る。八木田橋がくれたベリー色のピアスをつける。
朝食会場に行って席に着くと隣のテーブルに小さな女の子がいた。父親の隣に座り、べったりと甘えている。対照的に向かい座る母親は機嫌が悪そうだ。その様子に昔の光景が浮かび上がる。週末の食卓、父の隣に自分の椅子を並べて食事をした。ジュースや麦茶で乾杯した。穏やかで何処にでもある普通の家族。ただひとりこの人だと決めた人と暖かい家庭を築きたい。一昨日、一気に順位を落とした八木田橋。大きな怪我をしてなければそれでいい。体調を崩してなければそれでいい。八木田橋らしい滑りを見せてくれたらいい。ううん、無理せずに棄権したっていい。幸せなんて大きなものじゃない。身近なところに何気なくあるものだってようやく気付いた。
「ナナコ、ほら、パパに食べさせてもらってばかりいないで自分で食べなさい」
「イヤ」
「ナナコ!」
となりのご家族の会話。ナナコ、ナナコ……? 聞き覚えのある名前につい、女の子を見やる。どこかで見たことのある……。
「あっ! 菜々子ちゃ……」
思い出した、スクールのメルマガだ。八木田橋の頬にキスをしていた女の子。思わず声を上げた私に3人そろって視線を向けた。
「あ、いえ、その……。スクールのメルマガで、可愛いって」
そこから会話が始まる。猪苗代のあのスキースクールに?、と尋ねられる。2度ほど個人レッスンを受けた、と言うとインストラクター名を聞かれた。恐る恐る八木田橋だと答えるとご両親は奇遇です、と笑みを浮かべたが、菜々子ちゃんの顔色は逆に変わった。
「菜々子ちゃん?」
「菜々子って気安く呼ばないで!」
「へ……?」
こら菜々子、そんなことを言うんじゃないよ、と父親が宥める。でもそんなことを聞く様子はなく、私を睨みつける。
「すみません、この子、八木田橋さんと恋人気取りで」
父親が菜々子ちゃんの頭を撫でて言うと、ホントの恋人だもん、チューしたもん!、と菜々子ちゃんはぷうっと頬を膨らませた。微笑ましい光景に笑顔になる。
「こ、コドモだと思って馬鹿にしてるの?」
「ううん」
「菜々子、ぜーったいヤギせんせとケッコンするもんっ!」
「そう」
「ぜーったい、ぜーったい、オバサンには渡さないもんっ!」
「オバ、サン……」
父親も母親も慌てて私に謝る。でも菜々子ちゃんの勢いは止まらない。
「男の人って若い女の子が好きなんでしょ、菜々子の方がいいって言ってくれるもんっ!」
「こら、菜々子」
辺りの宿泊客は菜々子ちゃんの饒舌さに微笑んでいる。こんな小さな子でも私が恋敵だって察知するのかと私は感心した。
「ヤギせんせのお部屋にだって泊まったもんっ! お化粧しなくても可愛いって言ってくれたもんっ! オバサンみたいに厚化粧なんかしないもんっ!」
「オバ……厚……」
そりゃあ八木田橋に会うために念入りに化粧もしたし髪もネイルもチェックしたけど、あまりの暴言にムッときた。
「今日だってね、ヤギせんせが菜々子に応援してってお電話くれたから来たのっ。オバサンは呼ばれてないでしょ?」
「よ、呼ばれてないわよ」
「ヤギせんせにとって菜々子はトクベツなの、わかった?」
菜々子ちゃんは勝ち誇ったように横目で私を見下した。菜々子いい加減にしなさい、と母親が本気で怒りだした。それを無視して菜々子ちゃんは、パパ、パパ、菜々子のお口にパン入れて?、とねだる。父親がパンをちぎって放り込むとべったりと寄り添って甘えた。
「……菜々子ちゃんは八木田橋さんとパパ、どっちと結婚するのよ?」
コドモ相手に何をムキになる、と客観的に見てる自分がいる。でもこんな生意気のコドモに負けたくない。
「両方」
「日本は一夫一婦制なのよ。どっちかしか選べないの!」
「オバサンのいじわる! 菜々子が可愛いからっていじめてるでしょっ」
菜々子ちゃんは勝ち誇ったように鼻で笑った。ムカつく。応戦する私にご両親は何かを察したのか、助け船を出してくれた。
「じゃあ、八木田橋さんに選んでもらうのはどう? 八木田橋さんにお姉さんか菜々子を選んでもらって、菜々子がフラれたらパパのお嫁さんになる。菜々子もそれならいいだろう?」
「パパが言うならそうするぅ」
上目遣いでべったりと父親に甘える菜々子ちゃんは満面の笑みを父親に向けた。しかし直後、私を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。
その腑に落ちない朝食のあと、ゲレンデに向かった。レストハウス内に貼り出された八木田橋の滑走順とビブ番号を確認する。八木田橋がこのゲレンデにいる。そう思っただけで胸が高鳴った。今日の決勝は2本。昨日一昨日の本選、準決勝、今日の決勝の点数を合計して順位は決められる。本選で大きく順位を落とした八木田橋は40位まで順位を上げていた。
1本目の試合会場に向かう。ゴール地点付近には人だかりが出来ていた。コース脇には駅伝大会のように個人名やチーム名ののぼり旗が掲げられている。異様な盛り上がりの中、最初の選手がスタートした。30度以上ある急斜面をもの凄いスピードで下りて来る。ゴールすると審判員達が一斉にジャッジする。持ち点はひとり100点、審判員は5人。最上と最下の2人の点数を除き、残り3人の合計が点数となる。つまりは300点満点。スタート地点のやぐらに設置された電光掲示板にその点数が表示された。そのひとり目の選手は245点。次の選手がスタートする。辺りの観客達が声を上げる。応援のラッパを鳴らす。耳を塞ぎたくなるほどの轟音。熱気。徐々に八木田橋の番が近づく。私は胸が張り裂けそうになった。
天気は晴れ。風もない。そう聞けば絶好のコンディションにも取れる。でも3月、春を間近にしたゲレンデは雪が溶けてシャーベット状態。つまり雪は重い。エッジを効かせ過ぎればすぐに足を取られるし、かと言ってブレーキを掛けなければこの急斜面、すぐに上体を取られる。どこまえ耐えらるか、精神面が結果を大きく左右する。
耳障りだった音が聞こえなくなる。それは慣れたからではなく、八木田橋のことが心配だから。満足のいく成績を出してと願う一方で、怪我のないよう無理せず滑り下りて欲しいと願う。早く終えてほしい、まだ滑ってほしくない。どうしていいか分からないくらい頭の中は混乱していた。少し離れたところで肩車される子どもが見えた。菜々子ちゃんだった。手袋をした両手を広げて口元に沿え、斜面に向かって叫んでいる。
「ヤ……」
八木田橋だった。ポールを突いて颯爽と滑り下りる。いつものゲレンデでは見たことないスピードに私の足は震えた。
「やっ……」
両手で顔を覆う。怖くて見ていられない。自分の心臓の音、早い鼓動。それをかき消す応援の声。
「岳史、ガンバ!」
「岳史、岳史!」
そこに混じる菜々子ちゃんの声。
「ヤギせんせっ! 頑張って」
歓声、拍手が大きくなり、ラッパの音は長く伸びた。八木田橋は無事にゴールしたに違いない。顔を覆っていた手を離し、ゴール付近を見回す。私とお揃いのウェアを来た八木田橋はコースの脇に移動し、板を外していた。ネット越しに仲間らしき観客が肩や頭を叩く。再び歓声が上がる。八木田橋は振り返りスタート地点の掲示板を見上げた。
口をぱっくりあけて拳を握り、その手を空に向けて伸ばした。そしてものすごく嬉しそうに辺りの人間とハイタッチをしている。電光掲示板を見やる。275。このレースの暫定1位。八木田橋は脱いだ板を拾い、コースの外に出た。観客の中に彼の姿を見失い、私は近くのレストハウスにもどった。
そこには昨日までの成績が貼り出されているホワイトボードがあった。昨日の時点で40位だった八木田橋とトップとの点差は70。300点満点を2本滑ったところで逆転出来る差じゃない。
突然、肩を掴まれた。
「来てたのか?」八木田橋だった。
「ヤ……な、何してんのよ」
「トイレ」
目を合わせるのも躊躇してホワイトボードの成績表に目をやる。それでも視界の隅に八木田橋のウェアが見えた。
「ユキこそ何してんだよ」
「た、たまたま来たら、こんなのやってて、ヤギの名前があるからびっくりして……。たまたまだからねっ!」
「へえ。それはそれは奇遇なコトで」
「応援に来たんじゃないからっ!」
「ほう?」
こんなところまで来て、覚悟を決めた癖に動揺して八木田橋に突っ掛かる。でもずっと連絡を絶っていたのに、変わらない八木田橋の態度に胸が詰まった。
「……順位、落としたでしょ?」
「はあ? 落とした?」
「一昨日、一気に59位まで落ちたじゃない。ネットで見たわよ」
「ああ、あれ。シード」
「シード?」
「去年決勝まで残った60人が本選から加わったからだぞ。人数見なかったか? 180人に増えてただろ?」
八木田橋が10位で通過した予選では250人から120人に絞られた。そこに去年決勝進出を果たした強豪60人が加わり、八木田橋は59位に押し出された。
そういえば酒井さんが決勝まで残った選手は予選パス、って言っていた。勘違いした私は、まだ八木田橋の方を向けずにいた。勘違いしたのが恥ずかしくて八木田橋を見れないんじゃない。
「……なあんだ。怪我した訳じゃないんだ……体調崩した訳じゃないんだ」
見ていた成績表の『八木田橋岳史』の文字が滲んでいく。八木田橋が無事だったのもある。でもそれだけじゃない。こうして何も無かったように再び八木田橋が構ってくれるのが嬉しかった。
「心配して来てくれたのか?」
頭の中で、心配して来たんじゃない、って悪態をつくけどしゃくりあげて言葉を出せない。ボロボロと涙を零して、もっと八木田橋の方を向けなくなって俯いた。
「アホ……。俺をどんだけ重傷者だと思ってたんだよ」
頭にふわりと暖かいものが触れた。そのままぐりぐりと撫でられる。
「この点差じゃ上位には食い込めねえけど。皆このために合宿組んだり公認デモにコーチ頼んだりしてるから厳しいけど」
八木田橋は私の頭を軽く寄せた。おでこが奴の胸に当たる。八木田橋の匂いがした。
「……負けねえから」
八木田橋はそう付け足すように言ってもう一度私の頭をぐりぐり撫でた。入口の方から、岳史行くぞ、と八木田橋を呼ぶ声がした。八木田橋はポンポンと優しく叩くと私のそばを離れた。