*18
 帰宅してまっすぐにダイニングに向かう。隅にあるパソコンを立ち上げる。ネットにつなぐ。昨日から予選がスタートした。全日本スキー技術選全国大会。地方ブロック予選を1桁台で通過した八木田橋は参加しているはずだ。八木田橋には電話もメールもしていない。大切な試合を前に掻き回したくなかった。
 夕方になると予選結果がネットに上がる。地方を勝ち抜いた250人が昨日今日の予選で120人に絞られる。深呼吸してから、画面に表示された氏名を下位から見ていく。得点0の棄権者に八木田橋の名がないことにまず、胸を撫で下ろした。更に順位を目で追っていく。
「あ……」
 10位に八木田橋の名を見つけた。全国で10位……。改めて八木田橋を凄い人間だと思った。
「あら、八木田橋さん凄いわねえ」
 母が私の背後から画面をのぞいていた。
 あれから母とは八木田橋の話はしていない。お互い避けてきた感がある。これ以上八木田橋の話をすれば、私が意固地になるのを見越したんだと思う。長年、私を見てきた母親の勘。あのときに私は八木田橋について行こうと心の中で決めていた。この人しかいない。他の誰でもない、八木田橋のそばにいたいって。でもまだ気持ちの整理が着かないままだった。本当に母をひとりにしていいのか、ひとりでいいと言う台詞は本心なのかって。
 翌日も仕事からまっすぐに帰宅してパソコンを立ち上げる。今日は本選。明日準決勝、明後日が決勝になる。
 ネットにつないで愕然とした。上位から八木田橋の名を探すが、見当たらない。1ページ目には無く、次の画面へとスクロールする。
「え……」
 ようやく八木田橋の名を見つけたのは2ページ目も下の方、59位だった。昨日の予選では10位だったのになぜこんな下の方に……?
「怪我……? 風邪……? どうして」
 50近くも順位を落とした。何かあったのかと心配になる。
「し、試合には出場したんだから、大きな怪我じゃないよ、きっと……」
 パソコンの画面を見ながら自分に言い聞かせる。大丈夫、きっと大丈夫だって。
 スマホを取り出し、八木田橋の番号を呼び出す。電話するかどうしようか迷う。電話しても突っぱねられたら、何を話せばいいのか分からない。それに“覚悟”がちゃんと出来てないなら掛けちゃいけないと思った。戸惑わせたくない。せめて足手まといにはなりたくなかった。
 明日は準決勝。その準決勝で上位60名が決勝に駒を進める。同位3名いる59位ではギリギリの線。
「ユキ?」
 振り返ると母が心配そうに私を見ていた。
「あ……何でもない。夕飯できたの?」
 パソコンの電源を落とし、テーブルに着く。平静を装い、おかずに手を付ける。美味しい、やっぱり母さんの料理は一番だね、と言った。でもごまかしは効かなかった。母は箸をおき、射貫くような目で私を見ていた。
「ユキ。どうするの? もう気持ちの整理は着いた?」
「別に。あ、あんな奴……」
「別にって、そうなの?」
「そ、そうよ」
「八木田橋さんって素敵よね、ハンサムだしキチンとしてるし。母さん、八木田橋さんに告白してもいい?」
「か、母さん?」
「母さんだって独身よ」
「しょ、正気?」
「だって父さんに似てるんだもの」
「……」
 私は言葉を失った。本気なんだろうか、そう言えばバレンタインにブラウニーを焼いて私に持たせた。嬉しそうに、あれこれレシピを考えて。一筆箋に、皆さんで、なんて書いたのは私の手前、形を付けるため……?
「や……」
 私は箸を置いて立ち上がった。母は今度はニヤニヤと笑っている。
「冗談に決まってるでしょう?」
「やだ……からかったの?」
「ユキ、いいの? 母さんは冗談だけど八木田橋さんならいくらでも女性の方から言い寄ってくるわよ」
 そうかもしれない。八木田橋は私にはあんな無愛想に振る舞うけど、スクールの生徒や母には礼儀正しい。誠実で優しい人。
「ねえ、他の女性が八木田橋さんの横にいる日も近いかもしれない。もしかしたらもう、いい人がいるかもしれないのよ。それでいいの?」
 いやだ……。八木田橋の隣に、いたい。八木田橋のとなりにいていいのは私だけだ。
「早くご飯食べて、用意をしなさい」
「用意?」
「スキーに行く用意。車に積んでおいて、明日仕事を上がったら真っすぐに向かえるように」
「どこに……」
「決まってるでしょう?」
 八方尾根スキー場。技術選の会場。今、八木田橋のいるところ。
「……うん」
「食事が済んだら、泊まるところを探すわね。空いてるといいんだけど」
「母さん……ごめんなさい」
「なぜ謝るの、変ね、この子は」
「だって、ひとりにするかもしれない」
「こないだも言ったでしょ、とっくに覚悟は出来てるわよ」
「ちゃんと親孝行もしてないのに」
「馬鹿ねえ、ユキが幸せになることが一番の親孝行でしょう?」
 気丈な母の声がわずかに震えていた。目も潤んでいる。
「母さん、今まで育ててくれてありが……」
「それは披露宴で聞くから取っておきなさい、それにちゃんとプロポーズされたの? そっちが先でしょう?」
 翌朝、母に見送られて家を出た。薬局に着いて、私はブラインドを上げた。低かった冬の陽もだいぶ高くなった。すぐそこまで春が来ている。ゲレンデの雪も間もなく溶けてなくなる。でもこの恋は消さない。
 定時で上がり、高速道路をひた走る、上越道から信越道へ。八木田橋に出会えたのは偶然だった。あの板を雑誌で見なかったら、板もブーツもウェアも買うこともなかった。何となく手にしたスキー雑誌、父が亡くなってふさぎ込んでいた私が本屋で手に取ること自体、偶然だった。ペラペラとめくる。国体の結果とか公認デモの滑り徹底研究とかなんとなく眺めていた。その中の2ページ見開きの大きな広告。そのスキー製造会社は創立100周年を記念してシリアルナンバー入りの板を発売すると大々的に広告を載せていた。青空をバックにエッジを切るスキーヤーの写真……。
「あ……」
 ふと思い出した広告、もしかしたらあれは八木田橋だったんじゃないか。すごく、ものすごく綺麗な写真だった。あの板を履けばあんなふうに滑れるかもしれないと心躍った。それは広告だからと頭では理解していても、つい、注文した。あれが八木田橋だとしたら、私はあの八木田橋に魅入って板を注文したことになる。無意識に八木田橋を求めていた私……。決して大きいとは言えないスキー場、どちらかと言えばファミリー向けのゲレンデ。景色がいいと耳に挟んで何気なく向かったスキー場に八木田橋は待ち構えるように、いた。
 数年ぶりの旅行、わずか数時間で引き寄せられるように八木田橋と私は出会った。たった数日で恋に落ちた。結ばれた。そして母は再び私をあのスキー場へ連れて行った、父が行けと言っている、と。レッスン代を取りに行けば帰り道を事故で阻まれ誕生日を一緒に過ごした。そしてお礼をしなさいと母に再び向かわされた日には手作りチョコを渡した。まるで何かが私と八木田橋を結び付けるために働いているかのように。もし本当に、それが運命というなら、それを指すのだと思う出来事ばかり。
 5時間近く掛かってようやく母の手配してくれた旅館に着いた。手続きを済ませて部屋に入る。もう既に布団も敷かれていて浴衣に着替えてそこに潜る。ここに来たのは誰の計らいでもない、運命でもない、私の意志でやって来た。八木田橋に“覚悟”が出来た事を伝えるために。