*16
「早いのね。小学生でもあるまいし」
私は先週のトラウマに加え、板を盗まれそうになったこと、八木田橋に怪我を負わせたことでスキーをする気にはなれず、酒井さんと話したあとはすぐに帰宅した。日も延びはじめた夕方、明るいうちに帰宅した私を母は疑う。女親だからだろうか、先週の外泊といい、三十路目前の私に何かを期待してるのだ、行き遅れるよりはマシだ、と。
元カノと結婚まで考えてたのになぜ別れたのだろう。雪が苦手と言えば母も同じ。キッチンで夕飯の支度をしてる母に聞いた。
「母さんは父さんと結婚して幸せだった?」
「何よまた、この子は。熱でも出た?」
「母さん寒いの苦手でしょ? 父さん、母さんのこと無理矢理スキーに連れ出してたの?」
「無理矢理じゃないわよ。急にどうしたの? 八木田橋さんにプロポーズされた?」
「な、なんであんな奴に……」
母は、あんな奴?、やっぱり怪しいわね、とニヤニヤ笑う。
『もう来るなよ。顔も見たくねえ』 『覚悟はあるのかよっ』
あんな酷い台詞を言われた。言われたけどショックではなかった。あれは八木田橋の本心じゃない。“覚悟がないなら来るな”と解釈したから。ただ単に私が脳天気なだけだろうか、酷いことを言われて喜ぶM気質なんだろうか。
「だから結婚なんか……」
「そう? ユキがお嫁に行ったら寂しいわねえ」
「母さんをひとりにはしないわよ」
そこで私のスマホが鳴った。画面には八木田橋の名。顔も見たくねえ、と言った癖に何の用?
「もしもし」
「午後は滑らなかったのか?」
「うん。それより怪我はどうなのよ」
「心配するな、アホ。お母さんいるか?」
目の前でやり取りを聞いていた母は慌てた。怪我?、怪我って何?、と私に食いかかる。私は、板を盗まれそうになって八木田橋が犯人を追いかけてくれた、と手短に説明した。母はスマホを慌てて取り、八木田橋と会話を始めた。ユキの母です、娘がご迷惑を、いえ、と早口でまくしたてる。
「ペンチ? 大丈夫な訳ないでしょう? 病院は……、そう。でも来週、予選なんでしょう? 大丈夫なの?」
予選? 技術選? 来週……? 地方予選を控えて、そんな無茶を?
「でも響くでしょ? そう……ええ」
板なんてまた買えばいい、シリアルナンバーは入らないがデザイン違いの同じタイプの板はある。なのにどうしてそこまでするの?
「いえ、お口にあったかしら」
母の口調は緩やかになる。話題はブラウニーに変わったらしい。それから再び技術選の話になり、今回も私よりずっと長い時間しゃべっている。怪我のことも技術選のことも日本酒のことも本当は私の方が聞きたいのに。
しばらくして通話を切ると母はスマホを私に返した。
「怪我のことは心配しなくていいってユキに伝えて、って」
「そ」
「ヘルメットが傷に当たるけど来週には治ると思うから、って」
「うん」
「怖かっただろうけど、懲りずにスキーは続けて欲しい、って」
やっぱり、また懲りずに来いよ、という台詞ではなかった。どのみち“覚悟”の意味が分からなければもう八木田橋には会えない。でも分かったところで会える確証もないし。
「喧嘩でもしたの?」
「そんなんじゃない」
母経由と言えど、経過を聞けてほっとした。でも本当はそばにいて傷の手当をしたかった。もし恋人だったら出来ただろうか、奥さんだったら出来ただろうか。あの6畳ほどの宿舎の部屋で。
こんなときに自分でも何を考えてるんだろうと思う。ぶんぶんと頭を振った。
「ひょっとしてプロポーズされた?」
「プ……違う! 大体知り合って2ヶ月と経ってないのに、そんなこと」
「時間が経ってればいいの?」
「っていうか付き合ってもないし!」
母はニヤニヤと笑う。もし私が八木田橋と結婚したら母はどうなるんだろう。私が山に嫁げばこの家にひとり残される。八木田橋が婿入りしてこの家に来ない限りは母はひとりだ。八木田橋がこの家に? 八木田橋を山から引きずり下ろす? そんなこと八木田橋がするはずがないし、私だってしたくない。じゃあ逆に母も連れて雪山に嫁ぐ……? 母は寒い雪国は苦手だ。こっちにいれば妹や義弟も義妹も友人もいる。父と暮らしたこの家もある。母を連れて八木田橋のところになんか行けない。
『覚悟はあるのかよ』 『ヤギもフライングだよね』
まさか、八木田橋は私と結婚まで? そこまで考えてたってこと? 母のこともあるけど、結婚して八木田橋のところに行くなら今の仕事も辞めなくちゃいけない。5年続けてようやく正社員になれた会社。長期休暇も育児休暇ももらえるようになった。ボーナスも満額もらえるようになった。八木田橋と暮らすということは、こちらでの生活を全て手放すということ……。
母はキッチンで夕飯作りを続ける。結婚は縁だという人がいる。したいと思って出来るものじゃない、縁も必要なのだ。ひとり娘の私と雪山で暮らす八木田橋とは結婚なんて無理だ。八木田橋が元カノと別れた理由がなんとなく分かった。
ゲレンデの恋はゲレンデでこそ映える。格好良く見えていた男がウェアを脱いだら普通の男だった、なんて皆は言うけど、そうして終わる方が自然なのだ。八木田橋が私とのことをそこまで考えてただけで胸がいっぱいになった。八木田橋と会うのはやめよう。もうあのスキー場に行ったら気を持たせることになる。早く怪我を治して地方予選に万全な態勢で臨んでほしい。私のためにも、奈々子ちゃんのご家族のためにも、八木田橋が全国決勝にコマを進めることが唯一の望みだ。
翌週。何処にも出掛けずパソコンの前にかじりつく。土曜日の予選一日目の結果がネットに出るのだ。15時過ぎに現れた成績表には上から数番目に八木田橋の名前があった。翌日の二日目もソワソワと待っていると、結果が出るより先にメールの着信音が鳴った。
『地方決勝も通過したから心配するな』
私のせいで怪我をさせてしまって心苦しくて、ずっと心配だった。でも無事通過したなら八木田橋は全国大会に行ける。私はほっとして肩の力が抜けた。その一方で段々と遠くなる八木田橋との関係に寂しくなった。初めての旅行で八木田橋に抱かれたことが凄く遠く感じる。黙らないからとキスされたことも八木田橋の部屋に泊まったことも全て昔のようだ。でも、そうやって今までの出来事は過去になる。いつかこんなこともあったって笑って話すことが出来るようになる……。
八木田橋のメールを閉じて、スクールからのメルマガを開く。八木田橋が菜々子ちゃんを教えている姿、菜々子にキスされて照れる八木田橋。もう会うことはない。顔を見ることもない。電話で声を聞くこともないと思うと胸が痛んだ。
「ヤギ……」
携帯の画面の中の八木田橋の顔が滲む。画面に水滴も落ちて八木田橋はもっと歪む。
「ヤギ、寂しい……」
ポトリ、ポトリと画面に落ちる涙はいつの間にか頬から顎へとだらだら流れていた。鼻を啜る。肩をしゃくりあげる。泣いたってどうにもならないのに涙は止まらない。
母が買い物から帰宅したのか玄関で物音がする。心配を掛けたくない私は自分の部屋へ駆け上がる。ベッドの布団の中に潜って枕に顔を押し付けて声を殺してしばらく泣いていた。
「早いのね。小学生でもあるまいし」
私は先週のトラウマに加え、板を盗まれそうになったこと、八木田橋に怪我を負わせたことでスキーをする気にはなれず、酒井さんと話したあとはすぐに帰宅した。日も延びはじめた夕方、明るいうちに帰宅した私を母は疑う。女親だからだろうか、先週の外泊といい、三十路目前の私に何かを期待してるのだ、行き遅れるよりはマシだ、と。
元カノと結婚まで考えてたのになぜ別れたのだろう。雪が苦手と言えば母も同じ。キッチンで夕飯の支度をしてる母に聞いた。
「母さんは父さんと結婚して幸せだった?」
「何よまた、この子は。熱でも出た?」
「母さん寒いの苦手でしょ? 父さん、母さんのこと無理矢理スキーに連れ出してたの?」
「無理矢理じゃないわよ。急にどうしたの? 八木田橋さんにプロポーズされた?」
「な、なんであんな奴に……」
母は、あんな奴?、やっぱり怪しいわね、とニヤニヤ笑う。
『もう来るなよ。顔も見たくねえ』 『覚悟はあるのかよっ』
あんな酷い台詞を言われた。言われたけどショックではなかった。あれは八木田橋の本心じゃない。“覚悟がないなら来るな”と解釈したから。ただ単に私が脳天気なだけだろうか、酷いことを言われて喜ぶM気質なんだろうか。
「だから結婚なんか……」
「そう? ユキがお嫁に行ったら寂しいわねえ」
「母さんをひとりにはしないわよ」
そこで私のスマホが鳴った。画面には八木田橋の名。顔も見たくねえ、と言った癖に何の用?
「もしもし」
「午後は滑らなかったのか?」
「うん。それより怪我はどうなのよ」
「心配するな、アホ。お母さんいるか?」
目の前でやり取りを聞いていた母は慌てた。怪我?、怪我って何?、と私に食いかかる。私は、板を盗まれそうになって八木田橋が犯人を追いかけてくれた、と手短に説明した。母はスマホを慌てて取り、八木田橋と会話を始めた。ユキの母です、娘がご迷惑を、いえ、と早口でまくしたてる。
「ペンチ? 大丈夫な訳ないでしょう? 病院は……、そう。でも来週、予選なんでしょう? 大丈夫なの?」
予選? 技術選? 来週……? 地方予選を控えて、そんな無茶を?
「でも響くでしょ? そう……ええ」
板なんてまた買えばいい、シリアルナンバーは入らないがデザイン違いの同じタイプの板はある。なのにどうしてそこまでするの?
「いえ、お口にあったかしら」
母の口調は緩やかになる。話題はブラウニーに変わったらしい。それから再び技術選の話になり、今回も私よりずっと長い時間しゃべっている。怪我のことも技術選のことも日本酒のことも本当は私の方が聞きたいのに。
しばらくして通話を切ると母はスマホを私に返した。
「怪我のことは心配しなくていいってユキに伝えて、って」
「そ」
「ヘルメットが傷に当たるけど来週には治ると思うから、って」
「うん」
「怖かっただろうけど、懲りずにスキーは続けて欲しい、って」
やっぱり、また懲りずに来いよ、という台詞ではなかった。どのみち“覚悟”の意味が分からなければもう八木田橋には会えない。でも分かったところで会える確証もないし。
「喧嘩でもしたの?」
「そんなんじゃない」
母経由と言えど、経過を聞けてほっとした。でも本当はそばにいて傷の手当をしたかった。もし恋人だったら出来ただろうか、奥さんだったら出来ただろうか。あの6畳ほどの宿舎の部屋で。
こんなときに自分でも何を考えてるんだろうと思う。ぶんぶんと頭を振った。
「ひょっとしてプロポーズされた?」
「プ……違う! 大体知り合って2ヶ月と経ってないのに、そんなこと」
「時間が経ってればいいの?」
「っていうか付き合ってもないし!」
母はニヤニヤと笑う。もし私が八木田橋と結婚したら母はどうなるんだろう。私が山に嫁げばこの家にひとり残される。八木田橋が婿入りしてこの家に来ない限りは母はひとりだ。八木田橋がこの家に? 八木田橋を山から引きずり下ろす? そんなこと八木田橋がするはずがないし、私だってしたくない。じゃあ逆に母も連れて雪山に嫁ぐ……? 母は寒い雪国は苦手だ。こっちにいれば妹や義弟も義妹も友人もいる。父と暮らしたこの家もある。母を連れて八木田橋のところになんか行けない。
『覚悟はあるのかよ』 『ヤギもフライングだよね』
まさか、八木田橋は私と結婚まで? そこまで考えてたってこと? 母のこともあるけど、結婚して八木田橋のところに行くなら今の仕事も辞めなくちゃいけない。5年続けてようやく正社員になれた会社。長期休暇も育児休暇ももらえるようになった。ボーナスも満額もらえるようになった。八木田橋と暮らすということは、こちらでの生活を全て手放すということ……。
母はキッチンで夕飯作りを続ける。結婚は縁だという人がいる。したいと思って出来るものじゃない、縁も必要なのだ。ひとり娘の私と雪山で暮らす八木田橋とは結婚なんて無理だ。八木田橋が元カノと別れた理由がなんとなく分かった。
ゲレンデの恋はゲレンデでこそ映える。格好良く見えていた男がウェアを脱いだら普通の男だった、なんて皆は言うけど、そうして終わる方が自然なのだ。八木田橋が私とのことをそこまで考えてただけで胸がいっぱいになった。八木田橋と会うのはやめよう。もうあのスキー場に行ったら気を持たせることになる。早く怪我を治して地方予選に万全な態勢で臨んでほしい。私のためにも、奈々子ちゃんのご家族のためにも、八木田橋が全国決勝にコマを進めることが唯一の望みだ。
翌週。何処にも出掛けずパソコンの前にかじりつく。土曜日の予選一日目の結果がネットに出るのだ。15時過ぎに現れた成績表には上から数番目に八木田橋の名前があった。翌日の二日目もソワソワと待っていると、結果が出るより先にメールの着信音が鳴った。
『地方決勝も通過したから心配するな』
私のせいで怪我をさせてしまって心苦しくて、ずっと心配だった。でも無事通過したなら八木田橋は全国大会に行ける。私はほっとして肩の力が抜けた。その一方で段々と遠くなる八木田橋との関係に寂しくなった。初めての旅行で八木田橋に抱かれたことが凄く遠く感じる。黙らないからとキスされたことも八木田橋の部屋に泊まったことも全て昔のようだ。でも、そうやって今までの出来事は過去になる。いつかこんなこともあったって笑って話すことが出来るようになる……。
八木田橋のメールを閉じて、スクールからのメルマガを開く。八木田橋が菜々子ちゃんを教えている姿、菜々子にキスされて照れる八木田橋。もう会うことはない。顔を見ることもない。電話で声を聞くこともないと思うと胸が痛んだ。
「ヤギ……」
携帯の画面の中の八木田橋の顔が滲む。画面に水滴も落ちて八木田橋はもっと歪む。
「ヤギ、寂しい……」
ポトリ、ポトリと画面に落ちる涙はいつの間にか頬から顎へとだらだら流れていた。鼻を啜る。肩をしゃくりあげる。泣いたってどうにもならないのに涙は止まらない。
母が買い物から帰宅したのか玄関で物音がする。心配を掛けたくない私は自分の部屋へ駆け上がる。ベッドの布団の中に潜って枕に顔を押し付けて声を殺してしばらく泣いていた。