*15
 しばらくして握っていた八木田橋のスマホが鳴り出した。画面には酒井さんの名前。酒井さんは、これから板を持ってくから待ってて、と静かに言った。板は無事にもどってきたらしいが、酒井さんの片言の沈んだ話し方が気になった。ゴーグルを被り、グローブをはめながら外に出る。直にやって来た酒井さんは、下りられる?、と優しく声を掛けてくれた。私は頷き、板を受け取る。近くには切断されたワイヤー錠が落ちていた。
 酒井さんに続き、ゆっくりと滑り、スクール小屋に行く。扉を開けて驚いた。八木田橋が左手で額にガーゼを当てていた。右手には消毒液。八木田橋は私を一瞥すると目を逸らせた。
「ヤギ……?」
「悪い、逃げられた」
 八木田橋は両手でガーゼを押さえながら説明した。犯人は途中でコース外れ、林に逃げた。恐らく麓のレストハウス前に酒井さんやスタッフが待ち構えてるのを見越していたのだろう。八木田橋は木々をくぐり抜け、それでも必死に追い掛けた。犯人は迫る八木田橋に板を諦め、板を脱ぐと八木田橋に向かってポールと共に放り投げた。それはうまく交わしたが、更に追い掛けた八木田橋に犯人は持っていたペンチを投げ付けた。もう投げるものは無いと油断していた八木田橋は避け損ねて額で受けてしまった、と。
「すぐ下に車がスタンバってて、共犯者がいたみたいだな」
「そうじゃなくて」
 酒井さんはゲレンデ責任者に報告してくるね、青山さんヤギを宜しくね、言うと小屋を出て行った。不意に八木田橋とふたりきりになる。
「ば、ばっかじゃない? 私の板なのになぜそこまでしたの? 自分が開発した板だから?」
 八木田橋はガーゼを外して、新しいガーゼに消毒液を垂らす。そんなんじゃねえよ、と言いながら額に当てる。
「大切な板だろ。っ……」
 八木田橋は消毒液がしみたのか、顔を引き攣らせた。
「5年もしがみついてやっとボーナスもらって、親父さんのことも吹っ切って、ようやく滑る気になれて、薬局から内緒で注文した板なんだろ?」
「だからって……」
 取り替えたガーゼには結構な量の血が付着していた。たかが板なのに、まるで私を守るかのような八木田橋の行動に腹が立った。
「……優しくしないで、って言ったよね? 気を持たせるようなことしないで、って言ったよね? こんなことされたら期待するじゃない!」
 自分の声が震えているのが分かる。なぜそこまでして私を構うのか、構う癖に素っ気ない態度を取るのか、分からない自分にも腹を立てていた。視界が歪む。頬を液体が伝う。ブレた視界の中でも八木田橋の表情が険しくなるのが見えた。あの通行止めになったとき、帰るとパニクった私を怒鳴ったとき同様、私を睨みつける。
「……だったらユキはどうなんだよ」
「何が、よ……」
「部屋に俺を誘って手料理食わせて抱かせて、親戚連れてまた俺の前に現れて、元も取れねえのにレッスン代をわざわざ取りに来て、プレゼントしたピアスも付けて、更に手作りチョコだろ?」
 怒っている。なぜ八木田橋が怒るのか分からない。
「温泉スキーなら他だってあるだろ? レッスン代なら振り込むって言っただろ? 泊めた礼なんて宅配便で送りゃあいいのに」
「だって……」
「ユキこそ期待させんな!」
 八木田橋は立ち上がった。テーブル越しに私を見下ろす。
「覚悟はあるのかよっ!」
 覚悟? 一体何の……? 分からなくて立ち尽くした。
「クソっ……痛え……」
 八木田橋は怒鳴ったせいで傷を広げたようだ。額を押さえて屈み、椅子に座る。私は慌てて八木田橋の側に寄り、額を押さえている八木田橋の手に自分の手を重ねようとした。でも八木田橋は私の手を振り払った。
 ちょうどそこへ酒井さんがもどって来た。酒井さんは私が泣いて八木田橋に寄り添ってるのを見て、お取り込み中?、とからかったけど、異様な雰囲気を察したのか笑うのをやめた。
「ヤギ、女の子泣かしちゃいけないって学校で教わらなかった?」
「……うるせえ。宿舎で休むわ、スクール長に言っといてくれ」
 と呟くように言うと八木田橋は席を立った。私の横をすり抜けて扉に向かう。私は慌てて預かっていた八木田橋のスマホを差し出した。八木田橋はバツの悪そうに受け取る。八木田橋の顔を見上げるけど、目も合わせてはくれなかった。
「……もう来るなよ。顔も見たくねえ」
 八木田橋は携帯をポケットにしまいながらそう吐き捨て、小屋を出て行く。酒井さんは、おいヤギっ、それはないだろ!、と呼び掛けてくれたけど、一度閉まった扉が開くことはなかった。
「青山さん、大丈夫?」
「うん……」
 座って、コーヒー入れるね、と酒井さんは棚に向かう。怖かったでしょ?、ワイヤー切ってまで狙うなんてさ、と話を逸らす。なぜ私が泣いてるのか、なぜ八木田橋が怒っているのか、それを知ってるからか、理由を聞こうとしなかった。酒井さんはカップにインスタントコーヒーを入れ、電気ポットからお湯を注いだ。
「ヤギさ、あの板を初めて見掛けたとき、すごく喜んでた。吸い込まれるように青山さんのあとをつけてさ。俺が見る限り、ヤギから女の子に声を掛けたのはあのときが初めてだよ。ヤギを見た女の子が女の子から声を掛けるパターンだからね」
「それはヤギが開発した板だったからでしょ?」
「まあ、それは大前提だけどね。ヤギの元カノに似てるから、青山さん」
「……似てないよ」
「元カノ知ってるの?」
 八木田橋のスマホに保存されてた元カノ。ふんわり巻き髪に甘めのネイルカラー。
「スマホで見たから。私より若くて可愛く飾ってて」
 酒井さんは笑う。青山さんだって若いし可愛いし、と言うけど、人当たりの良い酒井さんの褒め言葉に信憑性は無い。
「何て言うかさ、匂い」
「匂い?」
「放って置けない匂い。ヤギはあの通り、面倒見たがりだからさ。普段は口は悪いけど」
 あまりしゃべるとヤギが怒るから言えないけど、と前置きして酒井さんは話を続ける。八木田橋の元カノはスキー初心者で、緩やかな初心者コースを数メートル滑っては転び、起き上がっては転び、を繰り返していたらしい。
 レッスン中だった八木田橋は横目に彼女を見るしかなかったが、目の前で彼女は転び、その拍子に板が外れ、八木田橋は板を拾って彼女の元へ届けた。彼女は心配する八木田橋に、大丈夫です、すみません、大丈夫です、を遠慮がちに繰り返すだけだった。そこへオフで滑っていた酒井さんがひょっこり現れ、彼女に付き添い、レストハウスまで下ろした。彼女はシャトルバスで一緒に来ていた友人とはぐれていたけど、そこで再会し、もちろん酒井さんは合コンを持ち掛けた。
「ひとりで来てひとりで滑れる青山さんとは一見、正反対だけどね」
「逞しくてすみません」
「ほら、そうやって自分を隠すところ」
 元カノは正直、スキーや雪山は苦手でそれっきりスキー場には来なかった。でも八木田橋は板の開発にあたり、会議や打ち合わせで東京に行くことが多かった。ふたりはその出張先で会っていた。でも開発も終え、春先に予約販売のプロモーションが終わると八木田橋は東京に出ることがなくなった。そしてしばらくして八木田橋と元カノは別れた。
「ヤギは怖いんだと思う。同じことを繰り返すんじゃないか、ってね」
「同じこと?」
「僕もそうだけど、ヤギも山を下りられない人間だからね」
 山を下りられない……、別に遠距離恋愛だって十分続けられると思う。私が彼女だったら、毎週は無理でも月イチで会いに行くし、八木田橋だってシーズンオフになれば会いに来てくれそうなのに。元カノは何が不満だったのだろう、八木田橋も何が不満だったのだろう。
「別れた原因って?」
「ヤギも29だしさ、その先のことを考えてたんじゃないの?」
 雪が苦手な元カノを無理矢理ここに縛り付けたくなかったんだろうね、と言って酒井さんはコーヒーを啜る。先のことを考えて出来たトラウマで悩んでるって、私とも先を……?
「さ、先のこと、って」
「ヤギもフライングだよねえ」
 酒井さんはニコニコとからかうように笑う。私は八木田橋のトラウマが気になり、どうにも落ち着かなかった。八木田橋に問い質したい、でも私のせいで怪我までさせて、更にあんなキツいことまで言われて、八木田橋に会いに行く気にはなれなかった。