*13
 翌朝、八木田橋は朝食を運んで来ると鍵を私に預けた。鍵は酒井に渡せ、気をつけて帰れ、と無愛想に言い、技術選に向かった。
 八木田橋の部屋で、昨夜もらったピアスを眺める。八木田橋の気持ちが分からない。私は、気持ちがないなら期待させるようなことはしないでと言ったのに、なぜこんなことをするのだろう。私の気持ちを知っててわざと構う。そんな八木田橋は私を飼い殺しにして楽しんでるとしか思えない。
 私は朝食を食べ終えると支度をして八木田橋の部屋を出た。酒井さんを探しにスクール小屋に行く。酒井さんはウェアを着ていない私を見て、不思議そうな顔をした。私は母が心配してるから帰ると伝え、部屋の鍵を酒井さんに差し出した。
「ヤギが酒井さんに預けてくれ、って」
「預かるね。というかそのまま俺が持ってるけど」
「合コンするのに、ですか?」
「あ、違う違う。飲んだ時とか昨日みたいに通行止めになったときにヤギの部屋に泊めてもらうんだ」
「ヤギが昨日言ってたから、てっきり合コンかと……」
「ああ、あの日はね、たまたま。隣のスナックで合コンしようとしたら満席で入れなくてさ。そうそう、あのときだよ、青山さんが帰る前の日、大晦日だったよね」
「年越し合コン、ですか?」
 八木田橋が私を抱いた夜。
「それ。ヤギに連絡してからと思ったんだけど珍しくスマホつながらなくてさ。仕方なく無許可でヤギの部屋を使ったんだ。ヤギもさ、スクール終わってから何処に行ってたんだかさあ、日付が変わる頃帰って来て、カップ酒を一気飲みして、はい、お開き!って」
 八木田橋が合コンに参加したって、ただ単に部屋で合コンをやってたから? じゃあ地元のコを送ったって言うのも?
「俺さ、あの日酔っちゃってフラフラで、ヤギが女の子送ってったんだよ。雪結構降ってたし夜中だったしさ」
 ヤギって美味しいとこ持ってくよ、俺が情けないだけかな、と酒井さんは笑った。そして、気を付けて帰ってね、今度こそ合コンしようね、と見送ってくれた。
 車で県道を下りる。事故の処理はとっくに終わっていて跡形はなかった。高速に乗り、自宅に着いたのは昼過ぎだった。深呼吸して玄関の前に立つ。ドアを開けようとすると勝手に開いた。心配げに顔をのぞかせる母。でも私の顔を見た瞬間、ほっとしたのか笑顔を浮かべた。
「た、ただいま。母さん、ごめ……」
「いいから。ほらほら、上がりなさい」
 玄関に入った瞬間、おいしそうな匂いがした。ダイニングに入るとテーブルには私の好物が並んでいた。もちろん母の手料理だ。心の中でその料理たちに詫びた。
「怖かったでしょう? こっちのニュースでも流れててね、母さんもびっくりして。ユキが巻き込まれなくて良かった」
 母はレンジで温め直した。その間に冷蔵庫からサラダやケーキが出される。
「八木田橋さんがいてくださって良かったわ」
「あ、うん、ヤギ……や、八木田橋さんがすぐ部屋を手配してくれて、ちゃんと泊まれたし、コンビニにも案内してくれて……助かった」
 口が裂けても八木田橋の部屋に泊まったなんて言えない。母を見ると笑っている。
「ふうん。誕生日に男の人に会いに行くなんて、ね」
「ヤギ……田橋さんは技術選でいなかったし会いに行ったんじゃない。さ、酒井さんが夕方まで待てばって」
「事故は仕方ないにしても、外泊ねえ?」
「八木田橋さんは他の部屋に移って、別に同じ部屋で寝た訳じゃないし……」
「え? 八木田橋さんの部屋に泊まったの?」
「ち、ちが……まあ、そうだけど、ホテルが満室で、その……」
 言葉を返す分だけ墓穴を掘ってる、私。
「ユキも親より大切な人が出来たのね」
「だから、そんなんじゃないってば! そんなんじゃな……」
 母が心なしか、寂しく笑った気がした。昨夜母をひとりにした罪悪感が蘇る。ふたりではとても食べ切れない量の食事をひとりで作りひとりで並べ、ひとりで私を待っていた母。
「……母さん、ごめんなさい。帰るって言ったのに」
 いいから食べなさい、冷めちゃうわよ、と母は皿を差し出した。親より大切……そんな関係じゃない。八木田橋はハッキリと否定した。自意識過剰だと言った。もう少し優しい言い方だってある。正直傷ついた、本当に堪えた。なのに八木田橋はパニックになった私を引き止めて、部屋の心配もして、からかっていつもの私にもどしてくれて、レッスン代の代わりと言えどプレゼントを用意していて、ケーキまで……。合コンだって私のはやとちりだった、菜々子ちゃんのことだって私の勘違いだった。八木田橋が遊び人だというのは誤解だった。インストラクターであることをひけらかしてチャラチャラと女を引っ掛けるような男じゃないのは分かったけど、なぜ八木田橋はこんなちぐはぐな態度を取るのだろう……。
「ユキ、八木田橋さんには連絡したの? 心配してるんじゃないの?」
「ううん……。技術選の最中だろうし」
 私のことなんて、本当に心配してるんだろうか。母や叔父の手前、何かあったら面倒だと思ってるんじゃないかなって。
「ユキ、あとでちゃんと電話もしなさいね、母さんも八木田橋さんとお話ししたいし。お礼を言わないとね」
「え?」
 母は、何慌ててるのよ、と笑いながら言う。私はスマホを徐に取り出し、八木田橋にメールを打つ。ひとこと、着いたから、と打ち込み、なんだかぶっきらぼうな女だと言われそうで、無事着いたから、にする。それでも足りない気がして、『無事着いたから。技術選頑張って』という文面にした。
 食事を終えて荷物を片付ける。荷物の中にはあの水色の小箱も入っている。部屋でこっそりと開ける。2組のピアス。ひとつは直径3センチくらいの18金のフープピアス、1月の誕生石のガーネットや淡いピンクやエンジ色のスワロフスキーが通されている。暖色系の深いベリー色で、かと言って甘すぎず、派手すぎず、休日に付けるのにちょうどいい雰囲気のピアスだった。もう一つは直径1センチ弱の雪の結晶、所々小さいダイヤがあしらわれていて、ほんの少しでも揺らすとキラキラと上品に輝く。そのピアスを耳に当てた。
 私の耳に触れたときのことを思い出した。チョコレート味のキス、大きな手のひらで私を包むように抱いてくれたこと、終えたあとに優しく髪を梳いた八木田橋が鮮明に浮かんだ。一度目の旅行で抱いてくれた、二度目の旅行でキスされた、三度目の今回の旅行では手を繋がれた、レッスン代も返されてもう会う理由もなくなってもう四度目の旅行はないかもしれない。段々と後退してる八木田橋との関係に寂しくなる。このあと礼を言うために電話をしたら八木田橋とは終わる。昨夜、遊びだと抱かれた方がマシだったろうか。せめてもう一度、八木田橋の背中にしがみついた方がよかっただろうか。きっとこのピアスを見るたびに八木田橋の顔を体を思い出してしまう。プレゼントなんてもらわなかった方がよかった。私はピアスを箱にしまい、引き出しの中に隠すようにしまい込んだ。
 さっさと電話してしまおう、用件を済ませて八木田橋のことはキレイサッパリ忘れよう、そう思ってスマホを出した。画面を眺める。待受画面が突如黒く反転した。着信画面に切り替わり着信音が鳴り響いた。画面には八木田橋の名が浮かんでいる。私の気持ちを察知した以心伝心の八木田橋からの着信。八木田橋は最後の最後まで人を惑わすんだろう。
「も、もしもし」
「ユキも学習能力があったんだな」
「何よ、それ」
 着いたって、ちゃんとメールよこしたから、と八木田橋は言った。八木田橋の声の後ろからガヤガヤとした音が聞こえる。わあ、だの、やったー、だの騒がしい。
「決勝、ちゃんと入賞したから。ユキが頑張って、ってメール入れたからじゃねえぞ」
「私だって、私のせいで駄目になった、って言われたくなかったから!」
 沈黙する。これを切ってしまったら、八木田橋との関係も切れるから。
「お……おめでと」
「ああ……」
「あと、ありがと」
「何が」
「泊めてくれたこと」
「しょうがねえだろ」
 そのひとことに私は再び沈黙した。しょうがない、しょうがなくて泊めたんだ。私は、母が話したいって言うから代わるね、と保留ボタンを押した。部屋を出て階下のダイニングに行き、母にスマホを渡す。
「こんにちは、ユキの母です」
 心なしかワントーン高い母の声。八木田橋と話をするのが嬉しいみたいだ。
 母は昨日今日の技術選県予選の労いをし、結果を聞くとたいそう喜んだ。ええ、そう、と笑顔で相槌を打ち、母は次の地方予選の日程まで聞き出した。そして昨日の礼を言う。本当にありがとうございました、ユキもどんなに心強かったか、感謝します、と。私なんかより何倍もの時間を八木田橋は母と話している。ロリコンの他に熟女も、守備範囲の広さに呆れた。
「でね、是非お礼をさせていただきたいの」
 お礼、きっと好みを聞き出して何かを送るのだと思った。そんな遠慮なさらないで、ユキの命の恩人なんだし、ねえお酒は日本酒?、とオバサンのごり押しで八木田橋に迫る。
「じゃあユキに日本酒を持たせるから、再来週が地方予選なら来週はいらっしゃるのよね?」
「ええっ! 母さん?」
 母は、いいのよ、ユキはスキーに行きたいだろうし、私も八木田橋さんのところなら安心だから、と私の都合も聞かずにまくし立てる。
「母さんっ! 母さん勝手に決めないで!」
私の話も聞かず、母は八木田橋にもう一度礼を言うと通話を切った。