*12
八木田橋は給湯室で湯を沸かしコーヒーを入れてくれた。何も会話はない。ちゃぶ台を挟んで、ただコーヒーを飲む。私は呆然としていた。初めて入る八木田橋の部屋というのもあったけど、それ以上に外泊という事実に心が沈んでいた。
「トイレと風呂は共同。でもユキは客のフリして露天風呂行けよ」
「……うん」
「飯は社員食堂からここに持ってくるから」
「……うん」
「この部屋にあるモンは何でも使っていい」
「……うん」
車から荷物を降ろしにいってくるから、と八木田橋は部屋から出て行った。ひとり残されて考える。八木田橋を待たずにお昼で上がれば帰れた。今頃自宅にいて、ガスオーブンで焼き上がったケーキを私が飾り付けていただろう。小さい頃からそうだった。父は、ユキの誕生日なんだからいいだろう?、と口実を付けて昼間から飲んでいた。母の料理をつまみ食いしても母は今日だけねと笑う。毎年繰り返される同じ光景……。
しばらくして廊下が騒がしくなる。酒井さんと八木田橋の声がした。入るぞ、と言いながら八木田橋が板を、その後ろから酒井さんがバッグを抱えて入ってきた。酒井さんが私を見て驚いた。
「えっ?」
八木田橋は、そういうことだから、と板を壁に立てかける。荷物を酒井さんから受け取ると、酒井さんに手の平を出した。
「返せよ」
「何を」
「合い鍵。また勝手に合コンされても困るし」
酒井さんは渋々鍵を八木田橋に返した。
「今晩うちに帰れそうにないから泊めてもらおうと思ったのに」
「バイトの相部屋が空いてるだろ」
「ちぇっ。ヤギだけ今晩お楽しみかよ」
「アホ!」
八木田橋は夕飯取ってくるから待ってろ、と言って酒井さんと部屋を出た。10分程してノックする音がする。八木田橋の、開けてくれ、の声で私は立ち上がりドアを開く。八木田橋だけがもどっていて両手にトレーを持っていた。ひとつ受け取りちゃぶ台に置く。どんぶりに盛られた肉じゃがが湯気を上げていた。
八木田橋は座るとお茶を一口啜り、超大盛りのご飯にかぶりついた。私も箸を手に取り食事をする。野菜によく味がしみて、じゃがいももホクホクして、甘くて美味しかった。母の作る肉じゃがの味と似ていた。ふと母を思う。父が亡くなる前は家族3人で過ごしていた私の誕生日。父が亡くなってからは母と二人で過ごしていた。今夜、母は家にひとりでいる。
「どした?」
私のために私の好物ばかりをテーブルに並べきれないほど皿を作って。きっと、二人分って難しいわね、と零しながら私の帰りを待っていただろうに。目頭が熱くなる。母をひとりにしている罪悪感。母をひとりぼっちにしているのは紛れもなく私なんだ……。そのまま鼻を啜る。ポロポロと涙が零れた。他人を前に恥ずかしいのに止められるはずもなく、泣きながらご飯を口に運んだ。
すると前から舌打ちが聞こえた。当然、八木田橋。箸を止めて奴を見上げる。肩眉を上げて呆れた顔をしていた。
「ファザコンにマザコンにホームシックかよ。お前ケツ青いんじゃねえの?」
「あ、青くなんかないわよっ! ヤギだって見たでしょっ!」
八木田橋に煽られて、つい口に出した台詞。自分が何を言ったか気づいてかあっと顔が熱くなった。八木田橋を見ると肩を振るわせている。しかもクスクスと意地悪に笑いながら。
「泣いて怒って忙しい奴。見てる俺も忙しいわ」
「だ、大体ヤギが変なこと言うからよ! エロヤギっ!」
「早く食えよ。食ったらミニコンビニ行くぞ」
「コンビニ?」
「それとも俺のトランクス履く? 貸してやってもいいけど」
「トラン……!」
再び顔が熱くなる。私の反応を見て、今度はゲラゲラと豪快に笑った。
「え、エッチ! そ、想像したでしょ?」
「何をだよ」
「私のパンツ!」
「いちご柄の?」
「そんなコドモ染みたパンツなんて履いてないわよっ!」
八木田橋は相変わらず笑っていたけど、なんか少し、優しく微笑んでる気がした。ふう、と軽くひと息ついて私を見つめている。ここまで来てようやく八木田橋の意図に気がついた。
「やっといつものユキにもどったな」
「ひ、ひとのパンツの心配してる暇があったら、自分の心配したらどうなのよ。明日、県の決勝なんでしょ。私のことより自分のこと考えたら?」
「そういう訳にはいかないだろ」
なぜ、なぜ八木田橋は私に優しくするんだろう。遊びで抱いたなら放っておけばいいのに。雪道で寒い思いしたって八木田橋には関係がないのに。八木田橋の顔を見るのも辛くて俯いた。
「私のこと好きな訳?」
「そんなんじゃねえよ。お前、自意識過剰じゃねえの?」
「なら、構わないでよ。気を持たせるようなことしないで。最低」
「最低で結構」
食べ終えるとふたりで宿舎を出た。自意識過剰……その言葉がリフレインする。長い廊下の先にある鉄扉を抜けるとコンビニの脇に出たけど、八木田橋はコンビニには向かわず、ロビーのカフェへと足を進めた。
「ヤギ? コンビニは……」
八木田橋は私の台詞を無視してカフェの入口に立つ。そして顎でしゃくり、私に中に入るよう促した。私は仕方なく適当な席に座り、八木田橋を見る。八木田橋はカフェの店員と話をしてから私のところへ来た。
八木田橋は向かいの椅子に座ると黒のダウンジャケットの右ポケットから茶封筒を出した。
「レッスン代、返す」
八木田橋はテーブルに置いてズズッと差し出した。さっきの八木田橋の台詞もあって、手切れ金のようにも見えた。
「いらない。今夜泊めてもらうからその宿泊代としてお返しします」
私もその茶封筒をズズッと押し返した。
すると八木田橋は茶封筒をしまい、今度は左ポケットから何かを取り出した。淡い水色の5センチ四方の小箱。白いサテンリボンで飾られている。
「多分、受け取らねえと思ったから。これ」
八木田橋は今度はその小箱をズズッと差し出した。
「開けろよ」
私は訳が分からず、その小箱を手に取り、リボンを解く。中にはキラキラと光る小さな物体が入っていた。2組のピアス。
「私に……?」
「俺、そういうのはよく分かんねえから、ショップ店員と相談して決めたけど。名前がユキで雪の結晶が好きで、28歳で」
「え? 28……?」
スクールの申込書には27歳って記入したはず……なのに。
「誕生日なんだろ、今日」
八木田橋は頭を掻きながらボソリと言った。確かにスクールの申込書には生年月日も記入した。私は八木田橋の顔を見つめた。目が合うと奴は視線を逸らせた。
そこへカフェの店員がやって来てテーブルにロールケーキをふたつ置いた。多分酒井さんが言ってたケーキだ。しかも私の前に置かれたロールケーキには細いキャンドルが3本立っていて、明かりが燈されていた。店員は、おめでとうございます、と笑顔で私に言うとテーブルから離れた。
「……俺がケーキを食いたかったんだよ。早く消せよ」
「言われなくても消すわよ」
その揺らめく火を吹き消した。
「……おめでと」
八木田橋は恥ずかしそうに吐き捨ててフォークを握り、ロールケーキにかぶりついた。
ケーキを食べ、カフェをあとにする。ミニコンビニで必要なものを買い、八木田橋の部屋にもどった。八木田橋はクローゼットの上の段から布団を出して敷き、下の段の引き出しから部屋着を出して私に貸してくれた。そして自分の部屋着やら下着を出すと部屋を出ようとする。
「ヤギ?」
「バイトの相部屋で寝るわ」
「え?」
「一緒に寝る訳にはいかないだろ……アホ」
そう言ってドアを開けるとドアの向こうに消えた。
八木田橋は給湯室で湯を沸かしコーヒーを入れてくれた。何も会話はない。ちゃぶ台を挟んで、ただコーヒーを飲む。私は呆然としていた。初めて入る八木田橋の部屋というのもあったけど、それ以上に外泊という事実に心が沈んでいた。
「トイレと風呂は共同。でもユキは客のフリして露天風呂行けよ」
「……うん」
「飯は社員食堂からここに持ってくるから」
「……うん」
「この部屋にあるモンは何でも使っていい」
「……うん」
車から荷物を降ろしにいってくるから、と八木田橋は部屋から出て行った。ひとり残されて考える。八木田橋を待たずにお昼で上がれば帰れた。今頃自宅にいて、ガスオーブンで焼き上がったケーキを私が飾り付けていただろう。小さい頃からそうだった。父は、ユキの誕生日なんだからいいだろう?、と口実を付けて昼間から飲んでいた。母の料理をつまみ食いしても母は今日だけねと笑う。毎年繰り返される同じ光景……。
しばらくして廊下が騒がしくなる。酒井さんと八木田橋の声がした。入るぞ、と言いながら八木田橋が板を、その後ろから酒井さんがバッグを抱えて入ってきた。酒井さんが私を見て驚いた。
「えっ?」
八木田橋は、そういうことだから、と板を壁に立てかける。荷物を酒井さんから受け取ると、酒井さんに手の平を出した。
「返せよ」
「何を」
「合い鍵。また勝手に合コンされても困るし」
酒井さんは渋々鍵を八木田橋に返した。
「今晩うちに帰れそうにないから泊めてもらおうと思ったのに」
「バイトの相部屋が空いてるだろ」
「ちぇっ。ヤギだけ今晩お楽しみかよ」
「アホ!」
八木田橋は夕飯取ってくるから待ってろ、と言って酒井さんと部屋を出た。10分程してノックする音がする。八木田橋の、開けてくれ、の声で私は立ち上がりドアを開く。八木田橋だけがもどっていて両手にトレーを持っていた。ひとつ受け取りちゃぶ台に置く。どんぶりに盛られた肉じゃがが湯気を上げていた。
八木田橋は座るとお茶を一口啜り、超大盛りのご飯にかぶりついた。私も箸を手に取り食事をする。野菜によく味がしみて、じゃがいももホクホクして、甘くて美味しかった。母の作る肉じゃがの味と似ていた。ふと母を思う。父が亡くなる前は家族3人で過ごしていた私の誕生日。父が亡くなってからは母と二人で過ごしていた。今夜、母は家にひとりでいる。
「どした?」
私のために私の好物ばかりをテーブルに並べきれないほど皿を作って。きっと、二人分って難しいわね、と零しながら私の帰りを待っていただろうに。目頭が熱くなる。母をひとりにしている罪悪感。母をひとりぼっちにしているのは紛れもなく私なんだ……。そのまま鼻を啜る。ポロポロと涙が零れた。他人を前に恥ずかしいのに止められるはずもなく、泣きながらご飯を口に運んだ。
すると前から舌打ちが聞こえた。当然、八木田橋。箸を止めて奴を見上げる。肩眉を上げて呆れた顔をしていた。
「ファザコンにマザコンにホームシックかよ。お前ケツ青いんじゃねえの?」
「あ、青くなんかないわよっ! ヤギだって見たでしょっ!」
八木田橋に煽られて、つい口に出した台詞。自分が何を言ったか気づいてかあっと顔が熱くなった。八木田橋を見ると肩を振るわせている。しかもクスクスと意地悪に笑いながら。
「泣いて怒って忙しい奴。見てる俺も忙しいわ」
「だ、大体ヤギが変なこと言うからよ! エロヤギっ!」
「早く食えよ。食ったらミニコンビニ行くぞ」
「コンビニ?」
「それとも俺のトランクス履く? 貸してやってもいいけど」
「トラン……!」
再び顔が熱くなる。私の反応を見て、今度はゲラゲラと豪快に笑った。
「え、エッチ! そ、想像したでしょ?」
「何をだよ」
「私のパンツ!」
「いちご柄の?」
「そんなコドモ染みたパンツなんて履いてないわよっ!」
八木田橋は相変わらず笑っていたけど、なんか少し、優しく微笑んでる気がした。ふう、と軽くひと息ついて私を見つめている。ここまで来てようやく八木田橋の意図に気がついた。
「やっといつものユキにもどったな」
「ひ、ひとのパンツの心配してる暇があったら、自分の心配したらどうなのよ。明日、県の決勝なんでしょ。私のことより自分のこと考えたら?」
「そういう訳にはいかないだろ」
なぜ、なぜ八木田橋は私に優しくするんだろう。遊びで抱いたなら放っておけばいいのに。雪道で寒い思いしたって八木田橋には関係がないのに。八木田橋の顔を見るのも辛くて俯いた。
「私のこと好きな訳?」
「そんなんじゃねえよ。お前、自意識過剰じゃねえの?」
「なら、構わないでよ。気を持たせるようなことしないで。最低」
「最低で結構」
食べ終えるとふたりで宿舎を出た。自意識過剰……その言葉がリフレインする。長い廊下の先にある鉄扉を抜けるとコンビニの脇に出たけど、八木田橋はコンビニには向かわず、ロビーのカフェへと足を進めた。
「ヤギ? コンビニは……」
八木田橋は私の台詞を無視してカフェの入口に立つ。そして顎でしゃくり、私に中に入るよう促した。私は仕方なく適当な席に座り、八木田橋を見る。八木田橋はカフェの店員と話をしてから私のところへ来た。
八木田橋は向かいの椅子に座ると黒のダウンジャケットの右ポケットから茶封筒を出した。
「レッスン代、返す」
八木田橋はテーブルに置いてズズッと差し出した。さっきの八木田橋の台詞もあって、手切れ金のようにも見えた。
「いらない。今夜泊めてもらうからその宿泊代としてお返しします」
私もその茶封筒をズズッと押し返した。
すると八木田橋は茶封筒をしまい、今度は左ポケットから何かを取り出した。淡い水色の5センチ四方の小箱。白いサテンリボンで飾られている。
「多分、受け取らねえと思ったから。これ」
八木田橋は今度はその小箱をズズッと差し出した。
「開けろよ」
私は訳が分からず、その小箱を手に取り、リボンを解く。中にはキラキラと光る小さな物体が入っていた。2組のピアス。
「私に……?」
「俺、そういうのはよく分かんねえから、ショップ店員と相談して決めたけど。名前がユキで雪の結晶が好きで、28歳で」
「え? 28……?」
スクールの申込書には27歳って記入したはず……なのに。
「誕生日なんだろ、今日」
八木田橋は頭を掻きながらボソリと言った。確かにスクールの申込書には生年月日も記入した。私は八木田橋の顔を見つめた。目が合うと奴は視線を逸らせた。
そこへカフェの店員がやって来てテーブルにロールケーキをふたつ置いた。多分酒井さんが言ってたケーキだ。しかも私の前に置かれたロールケーキには細いキャンドルが3本立っていて、明かりが燈されていた。店員は、おめでとうございます、と笑顔で私に言うとテーブルから離れた。
「……俺がケーキを食いたかったんだよ。早く消せよ」
「言われなくても消すわよ」
その揺らめく火を吹き消した。
「……おめでと」
八木田橋は恥ずかしそうに吐き捨ててフォークを握り、ロールケーキにかぶりついた。
ケーキを食べ、カフェをあとにする。ミニコンビニで必要なものを買い、八木田橋の部屋にもどった。八木田橋はクローゼットの上の段から布団を出して敷き、下の段の引き出しから部屋着を出して私に貸してくれた。そして自分の部屋着やら下着を出すと部屋を出ようとする。
「ヤギ?」
「バイトの相部屋で寝るわ」
「え?」
「一緒に寝る訳にはいかないだろ……アホ」
そう言ってドアを開けるとドアの向こうに消えた。