*11
 高速代とガソリン代を考慮したら元なんか取れないのに、とは思う。
「スキーに来た、と思えば、いっか」
 立て続けに来るのは気が引けて、3週間ほど間を置いた。毎週スキーに行くのは贅沢だし、体力も使うし、と理屈をつけたけど、本当のところは違う。八木田橋に会うのが怖かった。だって、お金を受け取ったらもう会う理由がなくなるのだから。
 それでも踏ん切りがついたのは今日が私の誕生日だったから。何かを期待する訳じゃない。ただ重い腰を上げるきっかけが欲しかった。母は、誕生日だから早く帰って来なさい、お父さんが待ってるから、と出掛けに言った。毎年、家族でお祝いしてきた。私はもちろんふたつ返事で家を出た。
 1月29日、土曜日。雪の質も量も申し分ない時期にゲレンデは混みあう。でも赤いウェアのインストラクターもいたけど心なしか数も少ないし、八木田橋の姿がない。
「青山さん?」
 声を掛けてきたのは酒井さんだった。こないだはご馳走さまでした、楽しかったね、と笑顔で挨拶をしてくれた。
「ヤギ探してる?」
「うん」
「ヤギね、今日いないんだ。技選に行ってる」
「技術選?」
 酒井さんは、ご馳走になったお礼にランチ奢るね、話はそのときに、と生徒のところへ紛れた。
 八木田橋は技術選……。運がないと思う、縁もないと思う。そう思う半面、安心してる。またここに来る口実が出来たって。午前中は目一杯滑って酒井さんとお昼を食べたら上がろう、それから高速に乗って帰れば夕飯には間に合う。きっと母さんは腕によりを掛けて料理を作ってるし、手伝いたいし、何より食べたいし、と、そんなことを考えながら滑っていた。
 昼近くになり、麓のレストハウスに行く。酒井さんとはカウンター席で落ち合った。食券を買ってもらい、酒井さんはラーメンを、私はカルボナーラを取ってカウンターにもどった。
「今日、県予選の予選」
 酒井さんは席に着くなり言った。3月の全国大会を前に今日明日で県大会があり、今日は予選の予選だと教えてくれた。県内で150人程エントリーしていて今日の予選で半数に絞られる。そして明日の予選決勝で来月の地方予選に行けるメンバーが決まるらしい。
「ホントならヤギは予選パスなんだけどね」
「パス?」
「全国大会決勝まで残った選手は翌年は予選無しで全国大会からエントリーするんだ」
「ヤギは去年、全国決勝まで?」
「そう、ヤギは毎年決勝まで残ってるよ。去年はさ、会場に向かうってときにそこの県道で事故があってね。エントリー締め切り時間に間に合わなかったんだ」
「事故? ヤギが?」
「ううん。その事故にヤギがレッスンした家族が巻き込まれてて、ヤギ、ほっとけなかったんだよね。ご主人が前方の事故った車を避けようとしてハンドル切ったらスリップして、車体が横に振られて頭を窓に打ち付けられたんだ。で、ヤギが救急車呼んで、奥さんはご主人に付き添って救急車に乗らなきゃいけないけど、娘さんはパニックになって泣いちゃってるしで。ヤギが娘さんを預かってさ。その家族を放って行っちゃえば間に合ったのに遅刻して失格。ヤギらしいよね。あ、娘さんって菜々子ちゃん。メルマガの」
 酒井さんはズルズルとラーメンを啜った。八木田橋はいい人なんだと思う。叔父や母にも学生にも当たりが良くて、小さい子を上手に教えて。
「ヤギに会いたいって菜々子ちゃんに泣き付かれてご家族でお正月にやって来たんだよ、ヤギって小さい子にもモテるんだよなあ」
「ヤギ、いつも女の子ばかり教えてる感じですけど」
「大人からの指名は断ってるからね」
「ロ、ロリコンだからじゃないですか?」
 酒井さんはまた笑う。技選出場者や全日本公認デモを志願するようなスキーヤーから指導を受けたいと指名されることもよくあるけどヤギは断ってる、と。
「技術は“教わる”モンじゃねえ、“盗む”モンだ、って」
「盗む……」
「そのかわりヤギはいつも仕事上がりにナイターで滑ってる。後継の学生や若手スキーヤーに模範を示すように、好きなだけ盗めと言わんばかりにね」
 まあ、そう言われても盗めるものじゃないけどね、と酒井さんはまたラーメンを啜った。私もパスタをクルクルと巻く。青山さん、今日も泊まり?、と尋ねられて、日帰りです、と答えた。酒井さんは、合コンは出来ないかあ、残念、と笑った。
「でも滑ってるうちにヤギも帰って来るだろうから、そしたらお茶しようよ。ロビーのロールケーキ美味しいよ。毎日シェフが焼いてるんだ」
「でも」
「予選結果も聞けるし、ケーキ好きのヤギも喜ぶから。ね?」
 そう言うと私の返事も聞かずに、酒井さんは午後のレッスンがあるからと外へ向かった。どうしよう。八木田橋が帰ってくるのを待ってから帰るか、帰ってくるって何時だろう、7時に浦和に着くにはと逆算する。4時で上がればぎりぎり8時には浦和に着く。
 何とか八木田橋に会おうとしてる自分にハッとした。
 結局、食事を終えて再び板を履く。日も暮れてレストハウス前までもどると、あたりがざわついていた。そちこちで客たちは集まって話をしている。ロビーに向かうと、グレーのスタッフコートを着た酒井さんもいて、真剣な表情でお客さんと話していた。スタッフもいつもの倍もいて、変に慌ただしい雰囲気だ。近くのスタッフに尋ねた。
「あの、どうしたんですか?」
「県道で事故がありまして。スリップした車に5台ほど追突したようです。夕刻で混む時間でしたので」
 麓までの県道で事故があり、通行止めになっていて解除の見通しが立ってない、と説明してくれた。スタッフがたくさんスタンバイしているのは、これから帰るお客さんたちを誘導するためだった。
 血の気が引く。帰らなくちゃいけないのに。帰らなくちゃ……。
 突然、後ろから肩を叩かれた。
「来てたのか?」
 振り返ると八木田橋が立っていた。いつもの黒いダウンジャケット。驚いたのもあって、私は声が出なかった。口をあわあわとさせる。
「どした?」
「あ……私、帰らなくちゃ……あの……」
「帰るって、通行止めだぞ?」
 八木田橋は、アホか、と私を見下ろす。単独なら1時間もあればレッカー移動して終わるけど、あれじゃしばらく掛かるぞ、と早口でまくしたてる。
「だって母さんが、母さんが料理作って……待って……」
 私は咄嗟に車のキーをポケットから取り出し、駐車場に向かおうした。すると手首をがっちりと捕まれた。
「馬鹿! 何考えてるんだっ」
 八木田橋が声を荒げた。怒っている。いつものアホってからかう顔じゃない。真剣な表情に私はさらに身を強張らせた。
「何時間掛かるか分からない、車の中で一晩過ごすかもしれないんだぞ? 雪山をナメるな!」
 八木田橋は私の手首をぐいと引っ張り、自動ドアをくぐるとフロントに連れていった。
 八木田橋は今夜空いてる部屋はないかとフロントに尋ねる。でもシーズン真っ只中のリゾートホテルに空きは少なく、足止めを食らった他の客に先を越された。後は宴会場をパーテーションで区切って貸し出すとスタッフが言ったが、八木田橋はそれを断ってフロントから離れた。そして宴会場よりマシか、とブツブツ言いながら、ホテル内のミニコンビニの脇にある立入禁止の鉄扉を開け、長い廊下を有無も言わさず歩かせる。
 着いた先は従業員宿舎だった。八木田橋は鍵を開けて中に私を引き入れる。6畳程の部屋に埋め込み式のクローゼット、小さいちゃぶ台、殺風景な部屋。
「今夜はここに泊まれ」
「ここって」
「見りゃあ分かるだろ、俺の部屋だ」
と吐き捨て、八木田橋は循環ヒーターのレバーを上げた。
「座れよ」
「や、やだっ、帰るっ!」
「アホ。通行止めって何回言えば分かるんだよ!」
「だって母さんが待ってるから」
 八木田橋は、ファザコンの上にマザコンかよ、と言いながら私に手を差し出した。
「スマホ。お母さんに電話しろよ」
「なんで?」
「ユキのお母さんに技選の報告するから」
 仕方なく私はスマホをポケットから取り出し、自宅の番号を呼び出した。コール音が鳴る。
 帰るって約束したのに、しかも私を待っている母にそんなこと言えない。思い悩んでいると母が出た。その途端に八木田橋は私の手からスマホを奪った。
「ちょ……」
「あ、八木田橋です。先日はありがとうこざいました。はい、いえ……」
 母とこないだの旅行の話をしている。一緒にレッスンを受けた学生が検定にパスしただの、地酒がどうの、そんな会話。そして今日は県技選で予選を無事通過した、と報告した。はい、ありがとうこざいます、明日も頑張ります、と返事をしている。
「実は先程、県道で事故がありまして、ええ、僕がこっちにもどった後に起きたようで」
 とうとう八木田橋は通行止めの話をしだした。6台が関係する事故でしばらく開通しそうにない、と淡々と説明した。
「夜中に帰すのも危ないので、今晩はお嬢さんをお預かりします」
「ちょっと!」
 八木田橋からスマホを奪還すべく手を伸ばすけどくるりと身をかわされて。
「無断外泊する訳にいかないだろ?」
 お嬢さんは事故に巻き込まれたかもしれないとちょっとパニックになっていて、はい、事故には巻き込まれてませんので安心してください、落ち着いたら電話させますので、と話して通話を切った。