*10
 遅めの朝食をバイキング会場で取る。10時前にチェックアウトして荷物を積み込む。八木田橋からメールが入る。
『本文:気をつけて帰れよ』
 たったひとことだった。
「なんなの、これ」
 スマホの画面にたった一行、尊敬語でも丁寧語でもない文面。八木田橋らしいぶっきらぼうで短い言葉にホッとする自分がいた。でも悩む。なぜ、八木田橋はこんなメールを送って来るのか。遊びなら放っておけばいい。逆にもっと遊びたいならチヤホヤする文章を送ってくればいい。こんな中途半端で気遣う内容……。
 車に皆を乗せてホテルをあとにする。隣の会津若松まで足を延ばした。鶴ヶ城や博物館をめぐり、昼食を済ませてから高速に乗る。浦和に着いたのは夕方で、まずは叔母たちを送り、洗車場で車の足回りを流してから叔父夫婦を送る。置かせてもらっていた自分の車に乗り換えて、ファミレスで夕食を取り、なんだかんだで自宅に着いたのは21時を過ぎていた。
 玄関に荷物を下ろしてまずは和室に向かう。線香に火を点け、手を合わせて、無事に帰宅したことを父に伝える。フシダラな娘はスキー馬鹿にキスされました、と心の中で報告する。遺影の父は、もちろんただ笑っている。
「ユキ、お線香上げるならこれも一緒に。お父さん喜ぶと思うから」
 玄関に降ろした荷物の中から母が手にして来たのは、八木田橋が抱えていたあの一升瓶だった。飲み切れず3分1程残っていたのだ。母は生前父が好んで使っていたガラスの猪口を棚から出してその酒を注いだ。母は猪口を両手で持ち、懐かしそうに眺めている。
「酒屋さんに寄って買ってくれば良かったわね。お父さん、こういう濃いお酒、好きだったわ。八木田橋さん、一升瓶を抱えて入ってきたでしょ? なんかね、若い頃のお父さんを見てるようだったわ」
「ヤギ……田橋さん?」
 慌てて、さんを後付けした。
「全然似てないよ、顔も体格も……」
 性格も、と言おうとしてやめた。
「そりゃあ父さんは今の人みたいに背はないし、八木田橋さん程ハンサムでもないし。あ、今はイケメンって言うのよね?」
「イ……イケメン? 母さん視力落ちたんじゃない?」
 八木田橋の顔が浮かぶ。昨夜、目の前に迫った八木田橋の顔。腕を押さえ付けられて、キスをされた。ジャケットからは男の匂いがして、耳からは奴の吐息が聞こえた。
 私は母から渡された猪口を仏壇に上げて再び手を合わせた。テーブルについて乾杯をする。脳内に浮かんだ奴の顔を消したくて、目の前にあった猪口を一気飲みした。でもその冷たい猪口の感触に今度は八木田橋の冷えた唇を思い出してしまった。顔が熱くなる。挙動不審の私に母が私の顔をのぞき込んだ。
「八木田橋さんと何かあったの?」
「ヤギ……田橋さんとは何かあるほど知り合いじゃないから」
「そう? 八木田橋さんがスキーの話をしてくださったのに、ユキは妹たちと酒井さんの話に加わって。いつものユキならかじり付くように聞くのに」
 今度は母の猪口が空になり、酌をした。八木田橋は技術選予選に出るとか、スキーパトロールの資格を取るとか、母は八木田橋の話を要約して話した。なぜか嬉しそうにうっとりと。
「一升瓶で皆に注ぎ回りながらスキーを真面目に語るところ、お父さん思い出したわ」
 スマホが壊れたと嘘をついて近付いてきた八木田橋。避妊具を持って部屋に乗り込んできた八木田橋。私と寝たあとに合コンに参加した八木田橋。煩いハエを追い払うかのようにキスをした八木田橋。
「あんな男と父さんを一緒にしないでっ!」
 私は立ち上がってテーブルを叩いていた。びっくりした母が私を見上げていた。
「あ……な、何でもない。父さんは父さんだから……」
 バツが悪くて猪口の酒を飲み干す。アルコール度数も高いのか、疲れているのか、酔いが一気に回ってクラクラする。ちょうどそのとき私のスマホが鳴った。画面を見る。八木田橋だ。
「ヤ……」
 多分、きっと、いや絶対、今の私が出たら悪態をつく。出ようか出るまいか悩む。でも母の手前、相手が誰であれ居留守を使うのは嫌だったし、何より、聞きたい声……。私は画面をタップした。
「もしもし」
「今どこだよ」
「自宅」
「アホ」
「ア……」
 アホって何よ!、と言おうとしてやめた。母を横目にダイニングから玄関に移動した。
「アホって何よ」
「決まってるだろ、アホだからだ」
「はあ?」
「着いたんならちゃんと返信よこせよ。心配するだろ」
 八木田橋から来た、あのメール。心配して電話くれた? なぜ。なぜ、心配するの?
「ごめんなさい」
「無事ついたなら、いい」
 沈黙する。でも八木田橋も通話を切る気配はない。何か言いたいことでもあるのか。私だって話すことはない。でも自分から切りたくはなくて、玄関に置いた荷物の前で立っていた。壁には板、ポール。八木田橋とお揃いの。
 何か話そうとさっきの母の話を思い出した。
「か……」
「ぎ……」
 八木田橋の声と重なって言葉を止めた。八木田橋も何か言いかけてやめた。
「な、何だよ」
「そっちこそ」
「ユキから言えよ」
「ヤギから言ってよ」
「こういうときはレディファーストだろ」
「そんな紳士でもない癖に」
「うるせえよ」
 再び沈黙する。
「ぎ、技術選に出るんだって?」
「ああ」
「今年は県予選からだから忙しいな。県予選、地方ブロック予選、そのあとに全国予選決勝だから」
「ふうん……」
 三度、沈黙する。
「で、ヤギの話は?」
「ああ……」
 八木田橋は少し間を置いた。
「……返すよ」
「何を?」
「レッスン代。ユキに払わせた個人レッスン代」
 そんなもの……。
「いらない」
「返す」
「いらないっ」
「振り込むから口座番号教えろよ」
「口座番号? 新手のオレオレ詐欺?」
「はあ?」
「勝手に振り込んで、貸してやったから3倍にして返せ、とか言うんでしょ!」
「ちゃんとケジメつけた方がいいだろ? いつまでも気になってしょうがねえだろ」
 ショックだった。今、思い返せばあの嘘がなかったら八木田橋と知り合うことはなかった。こうして思いを寄せることもなかった。その出来事すら帳消しにすると言われたも同然だ。八木田橋としてはもう私とは関わりたくないっていうこと。
「そうねっ、ちゃんと精算してよ。ヤギみたいな詐欺師にはもう関わりたくないから」
「俺だってユキみたいなメールの返信も出来ないアホには関わりたくねえし」
「耳揃えてキッチリ返してよね!」
「当たり前だろ」
「取り立てに行くから用意しといてよっ。じゃ!」
 ムカついて通話を切る。ダイニングにもどり、猪口の酒を飲み干して再び注ぐ。もういい、八木田橋なんて、もう忘れてしまえ、ゲレンデの雪に惑わされてるだけなんだ、ちょっと格好良く滑ってた八木田橋に錯覚を起こしただけだ。お金を返してもらったら金輪際、八木田橋のヤの字も忘れてやる!、そう思った。