虻川が見た限り、飄々としている海原は勉学、スポーツ、もちろん芸術に関して非の打ち所がなかった。なんでもそつなくこなしていた。それが虻川には羨ましかった。女性には無縁の虻川も海腹とキャンパスを歩いていると意識せざるをえない。

 海原は女性にモテる、さらには本人が興味ないのかそっけない。そこに女性の闘争本能ともいうべき海原が醸し出すフェロモンに惹き付けられる。虻川は羨望の眼差しと嫉妬が入り組んだ目で海原を見つめていた。

 ある日、教室で簿記の予習と復讐を虻川はしていた。そこに柑橘系の匂いが漂った。脳内が疲れていた彼にとってそれは癒される匂いだった。身体の芯が軽くなり、空へ浮上するのではないか、と彼は思った。

 虻川は振り向いた。そこには一際目を惹く女性がいた。白のワンピース。腰の辺りに刺繍が縫いつけてある。すらりとした体型は細身で。控えめな美しさだった。
「あれ、ここは文化人類学って休講かな?」
 つぶやくように女性が言った。
 思わず、「休講ですよ」と言った。
 彼女は少しびっくりし、閉じられたふっくらとした唇を開き白い歯を覗かせた。

「あっ!文化祭でドラム叩いて方ですよね」
 彼女は明るい口調で言った。

 こんなに可愛く綺麗な女性に覚えられているのが、虻川は嬉しかった。心臓が早鐘を打つ。女性と喋れないわけではないが、いつも傍に誰かしら友達がいた。おどおどしていると、「勉強も得意なんですね」気づけば虻川の半径一メートル以内に接近していた。彼女から漂う、ほのかで清潔な匂いが虻川の鼻孔をくすぐる。シャンプーなのか石鹸なのか判断できないが、とりあえず清潔感が彼女から漂っていた。
 その次に彼女から飛び出した言葉に衝撃が走る。

「あのお、せっかくなんで簿記教えてもらいません?苦手なんですよ」
 少し悩ましげな表情で言った。そして彼女は香苗と名乗った。素敵な名前だと、虻川は思った。
 こうも読み取れる。〝叶え〟、と。

 おそらく担当教授の教え方が悪かったのだろう。虻川の熱心な教えに香苗は簿記の理解を深めていった。たかだか一週間に一回の講義では内容はすぐ忘れる。一時間に多大な量を詰め込むのだ。それでは意味がない。もちろん虻川のように予習復習を怠らない人間は別だが、それは稀に等しい。

 その香苗との出会いから一週間が経過した。虻川は部室にいた。ドラムを孤独に叩く。ビートルズ『アビー・ロード』を一曲目あら順繰りに。ハイハット、スネア、タム、バスドラ、一叩きに気持ちを込めた。
 二曲目は、『サムシング』だ。スローテンポな曲だが、異性界に放りこまれたかのような不思議な哀愁が漂う。それに、虻川の現状にピッタリの曲だ。



 Something in the way she moves  彼女の仕草がかもし出す不思議な魅力が)
 Attracts me like no other lover   ほかのどんあ恋人よりも僕を惹きつける
 Something in the way she woos me 愛してとせがまれればいやとは言えないよ
 I don't want to leave her now    彼女のそばを離れたくない
 You know I believe and how    それでいいと感じるんだ


 その歌詞が当てはまりすぎてドラムを激しく叩き、思わず首まで振っていた。慣れない首振りなんかをしてしまい、少し首関節を痛めた。
 あれ以来、香苗が頭から離れない。

 虻川は〝恋〟とは無縁だった。人を好きになるというのは、こういうことなんだろうか。いても立ってもいられない。胸の圧迫感、どことない不安。単調な毎日に彩りが生まれ、華やぐ。それもこれも香苗と出会ってからだ。

 そのせいか毎朝鏡で自分の顔を入念にチェックするようになった。笑顔の練習もした。表情筋がたるんでることは明白で、次の日には顔面が筋肉痛になり、食事をするのも困難になった。キャンパス内で、友人に会おうものなら、「アブさん。表情が豊かになりましたね」だとか「アッブ、なにかいいことでもあった?口元がだらしないぞ」と周りも虻川の変化に気づいているようだった。女性というのはここまで男という一個体に影響を及ぼすものなのか、と今まさにドラムスティックを握りながら思う。

 さらに嬉しいのは。キャンパス内で香苗に出会うと、むこうから手を振って、挨拶をしてくれることだ。その度に虻川は手をちょこんと挙げて、応える。それだけで嬉しかったが、もう一段、距離を縮めたいと虻川は思う。そのチャンスはくるのか、いやチャンスというのは自分で掴むもの、だ。今までしっかりとやってきたんだ、香苗を射止めたい。虻川の目に恋の光が宿った。
 部室の扉が開いた。

 虻川の願いが通じたのか、これがチャンスというものなのか、神が光の道筋を示してくれたのか定かではないが、香苗がひょこりと顔を出した。
「どうも」と彼女は顔をくしゃっとさせ部室に入ってきた。手には缶が握られていた。
「香苗さん」と虻川は上気する。それは当然だ。目の前に恋する相手がいるのだから。
「香苗でいいですよ」
 と彼女は言った。
「なんか呼び捨ては緊張するなあ」
 ドラムスティックをクルクルと回す。
 虻川の言葉を無視し、ドラムスティック指で回してる光景を見て、「すごい」と香苗は目を輝かせた。その表情には新鮮な息吹が感じられた。

「今日はどうしたの?」
 虻川は訊いた。

「見学ですよ」と簡潔に言い、「どうぞ飲んでください」と缶コーヒーを虻川に手渡した。

 虻川は缶コーヒーを受取り、椅子を二脚出し、一つを香苗に与えそこに彼女は座った。虻川は彼女と向かい合うように座り、「では」と缶を掲げ、「乾杯!」と言った。カンと小気味よい音が部室に響き渡った。

「他の人はこないんですか?」
 香苗が口を開く。

「もうそろそろ来ると思うよ。今日はトレーナーなんだね」
 虻川は言った。

「なんか寒くて。そういえば数年前にNASAが『氷河期』が来る、みたいなこと言ってたよね」

 香苗は缶コーヒーを飲む。彼女は飲むときに目を瞑った。そこには彼女だけの世界観が存在していた。虻川は見惚れている自分に気づき、足で床を一回鳴らす。

「そういえば、言ってたね。でもたしか氷河期は温暖と寒冷の時期があるから、どうなんだろう、ね。地球を管理するのは難しいよ。僕ら人間には」

 虻川も缶コーヒーを一口飲んだ。微糖なのにやけに甘く感じる。それは目の前に香苗がいるからかもしれない。

「地球を管理、って凄い言い回しだね。ドラムスティックを回すみたいな言葉の言い回しも多彩だね」

 香苗は虻川を見つめながら言った。見つめているのではなく、視線を合わせているだけなのはわかっているが、それでも彼の胸はドキドキだった。

 そのドキドキを掻き消すように、扉の方からガヤガヤと声が聞こえた。

 海原と他のメンバーが部室に現れた。各々楽器を持参している。
「あれ、虻ちゃん。そこの女性は誰?」
 海原が言った。

「ええと、なんていったらいいのかな、色々あって、それで、香苗さんです」としどろもどろに言った。

「香苗です」
 慣れた動作でお辞儀を彼女はした。

 その洗練された動作に海原含め、他のメンバーも丁重にお辞儀をした。その光景を見て、自然と虻川も笑みがこぼれる。

 ふと虻川は香苗を見た。海原がギターを取出す姿を彼女は見ていた。その海原を見つめる香苗の視線は、虻川のものとは少しばかり違っていた。



 一人暮らしをしている虻川の住まいは足立区西新井。人情溢れる街と言われているが、窃盗や空き巣が多発している。治安が悪い。足立区長の議事レポートによると都市開発が進んでいるらしいが、まだまだ先らしい。

 それでも嬉しいことに、海原と香苗が足立区に住んでいるということだ。海原は保木間に、香苗は青井に住んでいた。だからよく三人で行動し、食事にでかけることが多かった。海原が、「あと一人いればビートルズになれる」と冗談めかしたことを言えば、香苗が、「じゃあ、横断歩道で『アビーロード』のジャケットみたいに写真撮ろうよ」と言い、「それは名案だ」と虻川が締める。

 さっそく西新井駅から徒歩五分ほどにある尾竹橋通りにある横断歩道で三人並んで、通りすがりのサラリーマンに頼み撮影してもらった。

 虻川は撮影した写真を人数分現像した。一枚一枚確認した。しかし彼の表情は曇った。横断歩道に一列で三人が並んでいる。先頭が虻川、その後ろに海原、さらに後ろに香苗。だが香苗の両手はさりげなく海原の腰付近に添えられていた。それを見たとき、なにかいい知れぬ不安が込み上げてくる。
 もしかして香苗は海原のことが好きなのでは?

 虻川の脳裏にその文脈がテロップとして明滅する。

 一度深呼吸をして冷静に彼は考えた。そう、たしかに海原は女性にモテるが女性に興味がないのか誰かと付き合うという行為には及んでいない。だから大丈夫だ、絶対に。そう、大丈夫だ。虻川は自分に言い聞かせた。
 それでも心臓の鼓動は速かった。


 
 現像した写真を機に、虻川は香苗に対して積極的になった。二人で食事にでかけ、ときには映画を観にいった。ラブストーリーの映画で、男二人が女の一人を好きになってしまう三角関係の内容だった。
 その帰り道、「三角関係って難しいよね」と香苗は言った。
「どちらかが諦めなきゃいけないからね」

「そうよね。哀しき結末。でもあの映画は・・・・・・」
 と香苗は言いかけたがやめた。というのも虻川の住んでいる屋上で突風が吹いたからだ。

 その時、香苗がよろけ虻川にもたれかかり、咄嗟の反応でやさしく受け止める。風がやみ、空には満点の星空が輝いていた。辺りは静まり、どことなく雰囲気がそうさせたのか、虻川の次に出た言葉は、

「香苗のことが好きなんだ。付き合って欲しい」だった。

 虻川の心臓が早鐘を打つ。心臓がバスドラになったかのように、ドンドンと打ちつける。勢いあまって言ってしまったその言葉は取り返しがつかない。消しゴムも使用できない。夢でもない。起きたら、ああ、夢ですね、というアニメ的展開もない。

 それは長い沈黙だった。果てしない荒野を彷徨っているかのように。もしくは水のない砂漠を彷徨っている旅人のように。長い長い時だった。

 香苗は屋上のフェンスに顔を寄せて。星空を見上げた。

 そして運命の時が訪れ虻川にこう告げた。
「ごめんね、虻ちゃん。その気持ちには応えられないの。私、海原君のことが好き」
 わかっていたことだった。
 そう、それは決められたことだった。
 誰がなんと言おうと虻川光国という人間が美女を手にすることは許されないのだ。それは決定された事実だった。

 この機を境に虻川は勉強に打ち込み、起業を志す決意をより一層強めた。もう、恋にかまけてはいられない。そして海原と香苗が付き合ったということを風の便りで知った。友情と恋情は彼の中で崩壊したのだ。
 そう、崩壊。脆く儚く崩れさる。
 見事に敗れ去った虻川は香苗に振られた日、大粒の涙を流した。流してはいけない男が流した最初で最後の涙だった。