秋津は二十歳になっていた。父はライブはハウス経営の傍ら、他にも不動産業や飲食店など手広くやっていた。
が、事業というものは面白いもので、何をやってもうまくいく幸運期もあれば、何をやってもうまくいかない不運な時期もある。今の秋津は後者であり不運に巻き込まれた。手広く事業をやり過ぎた父は、世界経済の大打撃をうけた。不動産は買い手がつかず莫大な仕入れ値を財務諸表に計上。利益はマイナスを続け、結局は倒産。飲食店も食糧の輸入が滞り、現地の食材は軒並み高騰を続け。客離れも深刻になり、結局は倒産。借金だけが残った。
やれやれ、と秋津は思う。ライブハウスだけでいいものを。欲が欲を生み、結局は欲という魔物に喰い潰される。欲は適度が一番、だ。彼は父の失敗からそれを学んだ。秋津たちが住んでいる梅島のライブハウスの裏手にあるマンションに連日連夜借金取りが押し寄せた。かつて父の仲間だったものが、「借りた金返せ」と怒号を発する。その言葉にかつて恰幅よく威厳のあった父は痩せ、頬をげっそりさせながら、「返しますから」と弱々しい声で言った。秋津は情けないと思った。そんな父を見たくなかった。そのやるせない怒りが溜まったのか、
「返すっていってんだろ」と秋津は借金取り達に向かって放った。
「なんだとクソ坊主。おめえの親父にこき使われてた身にもなってみろ。無理難題な要求をこっちを解決してきてやったんだ。だから金は返してもらう」
「雇われる方が悪いんじゃん。経営するのだって大変なんだ」
秋津は涙声で言った。別に父を擁護する気ではなかったが悔しかった。だが、その言葉に秋津の頬に鉄拳が飛んできた。口の中が錆びた鉄の味で広がった。さらにはリビングの方で母親の悲鳴とも泣き声ともとれる叫びが漏れた。
「親父に似て、生意気な餓鬼だ」
と借金取りが言い放った。
「まあまあ」とこの場には似つかわしくない声が借金取りの背後から聞こえ、
「冷静に話そうよ」と言った。その男のは倉林と名乗った。秋津を殺し屋に仕立て人物でもある。その倉林が話をまとめ上げる。
「今日のところは穏便に行きましょうよ。また明日来ればいいことですし」と他のフロアの住人に響き渡るように声を大にして言い、父に歩み寄り耳元で何か囁いた。その言葉に父は目を丸くし、深く項垂れた。
秋津は父に歩み寄り、項垂れ憔悴しきっている父に肩をかし、ベッドルームへ連れていこうとした。その秋津の背後に、「坊主。お前いい目してるな」と倉林の声が飛んだ。
思わず、「失せろ」と秋津は一言放った。口の中はヒリヒリとし、血の味がしたままだった。
次の日も借金取りが来ると思ったがこなかった。それもそのはずだ。父が自殺したからだ。多額の保険金が秋津家の振り込まれたのは一ヶ月後だった。そのお金は全て借金返済に消えた。秋津の心は暗く、魔物が住み憑いた。『氷河期』が到来し、人類の大半が滅びる、という。滅べばいい、人が大事なのではなく、皆、金、金、金、じゃないか。秋津はそういう考えに陥っていた。
母は父の自殺後に体調を崩し、大阪の実家に帰ることになった。か細い声で、「元気でね」と母が言った。秋津はやさしく母を抱きしめた。その温もりは秋津にとって母を感じた最後だった。その三年後に母は亡くなった。最後は抜け殻のようだった、と祖父が言っていた。
秋津はアルバイトやサラリーマンとして奮闘しようと、借金取りたちを見返そうと孤軍奮闘した。だが、どうも彼には合わなかった。組織というもに合わなかったのかもしれない。「顔はいいが、愛想が悪い」とどこかのありきたりなコピーライティングを上司に披露されることもあった。社会というものはこういうものであり、集団で群れなければ人間というのは己を保てないのだな、と秋津は納得することにし辞表を提出した。
気づけば梅島駅から梅田方面に歩き、かつて公園だった場所に秋津はいた。そこは既に月極駐車場になっていた。ここにも触れ合いというよりは〝金〟がはびこっていた。ポケットから煙草を取出し、火をつけた。
〝煙草はダメよ〟母の言葉を秋津は思い出す。
ごめん、と心の中でつぶやきながら深々と肺に煙を吸い込んだ。
「よお、坊主。久々だな」
秋津は声がする方向に顔を向けた。暗がりでよくわからず一瞬目を細め、「あっ」と秋津は声を出した。
「覚えてるかい。倉林だ」
とあの日のように穏やかな口調で言った。
「忘れることの方が無理だ」
秋津は唾を飛ばしながら言った。
「若いねぇー。いいよ。若さの素晴らしいところは勢いだね。勢いがあればなんでもできる。怖いものはない。勇敢に立ち向かえる。強靭な敵にも、ね」
何か含みを持たせる言い方を倉林はした。
秋津の目が暗闇というよりは見たくもない倉林に慣れた。綺麗にグレーのスーツを着こなし、外資系金融機関が好みそうなカラーシャツには対照的な紺のストライプのネクタイをしっかり身につけていた。洗練された身のこなしだった。はたから見れば借金取りには見えない。むしろエリートだ。
「おいおい。そんな凝視するなよ。お前も着たいんだろ。上等なスーツをよ」と綺麗な歯並びを見せつけながら倉林は言った。
「あんたは何をしてるんだ?」思わず秋津は訊いた。
「借金取りではない。殺し屋だ」
「嘘つけ。お前は借金取りだ」
「じゃあ、お前の父親はなぜ死んだ?」
なぜ?おかしなことを訊くな、と秋津は思った。借金苦の末に自殺、それに決まっている。
「借金返せなくて自殺したよ。静かにね」
「ふっ!そこが間違っている。自殺したように見えただけだ」
倉林は胸ポケットから煙草を取出し、ジッポで慣れた手つきで火をつけた。
それを見届け、「どういうことだ」と秋津は訊いた。
「この世の中でやってはいけないことってわかるか?」倉林は秋津に訊ねた。
「罪を犯すこと」
秋津は断言した。
「優等生の解答だな。罪を犯すなんていうのは多かれ少なかれ誰もが犯しているんだよ。誰かの悪口を言い人を傷つけるのも罪だ。もちろん人を殺すことも罪だ。だが、人を殺すこが大罪とされ、誰かを傷つけ悪口を言い放ち、その言われた側が深く傷つき自殺したらどうなる?人が死んでいるのに悪口を言った側は罰せられない。おかしくないか?俺が間違っているのか」
倉林はどこか自分に言い聞かせるているように秋津には見えた。
「何がいいたいんだ」
「ああ悪い、悪い」と倉林は煙草を深々と幸福な表情をしながら吸い、「思い込みだよ」と煙を吐き出しながら言った。その煙から悪魔が出てきそうな程、勢いがあった。
「思い込み?」
「誰しも思い込みの中で生きている。あの日を覚えてるか?まあ、覚えているだろうな。俺がお前の親父さんに囁きかけた場面だ。あの時、既に親父さんには遅効性の薬を屈んだときに注射しといた。さらには親父さんに肩をかけたときに胸ポケットに睡眠薬を大量に仕込んどいた。だからあの後、すぐに親父さんは眠ったろう」
秋津はうなずき、「そんなこと、で、できるわけ」と最後までいい切る前に、「できるんだよ。なにせプロだからな」と有無を言わせぬ口調だった。これが本来の倉林の声なのだろう。何も言い返せない、自身に溢れた口調だった。
「思い込みは罪だよ。君の親父さんは事業がうまくいっていると思い込んでいた。だが、もう既に崩れていたんだ。あの立派な家を見ろよ」と目の前にある邸宅を指さした。秋津は見た。門があり、庭がある。メイドがいそうな家だった。
「あの家もよ。格となる支柱が一本崩れただけで、もろくも崩れさる。たった一本だ。それだけぞ。その一本で連鎖的に崩れさる。お前の親父さんは支柱が破壊され、もろくも崩れ去った。手広くやり過ぎるのも問題だがな。お前にはそれがわかっているんだろ」
倉林の言葉に秋津は何も言えなかった。
「図星か。まあ、俺はお前をスカウトしにきた。今が時期だと思ってな。興味あったら連絡してこい。まあ、来ると思うが」
そう言い、名刺を一枚取出し秋津に手渡した。
株式会社 The End 倉林冬彦
と印字されていた。
「これビートルズの曲名?」と
と名刺を見ながら秋津は訊いた。
「ああ、代表が好きなんだ。ビートルズ。それ日本語にするとなんだっけな」と吸殻を律儀に携帯灰皿にしまいながら言った。
「『じゃあね』でしょ」
「ほお、やるねえ。すっかり忘れてた。ボスの口癖でもあるんだけどな、『じゃあね』って。お前、ビートルズ好きなのか?」
倉林は訊き、秋津は軽くうなずいた。
さらには倉林が、たこ焼き奢ってやる、ということで近くの商店街まで向かった。一本五十円で三個ついてくる。お得だ。二人で立ちながら食べた。彼らの前を十代後半と思しき女性が通り過ぎた。
「あれは将来、いい女になるな」
倉林がたこ焼きを頬張りながら言った。
「充分、綺麗だと思うけど」
「そう言う意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
秋津は倉林の方を向いた。
「大物になるっていう意味だ」と倉林は通り過ぎた女性を見ながら言った。
「なんでわかるの?」
秋津は目を細めた。
「目だよ。目」と倉林は言い、「力がある。何かに挑戦してる目だ。あれを持続させたとき高みへ行ける。継続は力なり、だからな」企業の訓示のようなことを倉林は言った。秋津が最初に入社した印刷会社の朝礼で毎朝社員全員で叫ぶ言葉は、
〝成長することは学ぶことだ〟
を社員全員十回叫ぶという宗教めいた会社だった。もちろん辞表届けを出したから彼の今がある。
秋津は目の前を通り過ぎた女性の後姿を見た。肩に美術教師が持っているような大きい鞄を下げていた。画家?と彼が思ったとき白い物が上から降ってきた。季節は秋だった。四季の乱れに、「わたくし、倉林冬彦と申します。冬生まれですが今は秋です」と雪が舞う空に向かって穏やかに倉林は言った。
「相手を認知したら引き金を引く!三秒だ。三秒で決まる」
倉林が怒気を飛ばした。
秋津は梅島ベルモント公園の地下施設にいた。地上では子供や暇を持て余した老人で賑わっている中、彼は射撃練習に精を出していた。倉林から名刺を貰った翌日に電話をかけ、殺し屋になる決意を固めた。とくに信じるものもなければ失うものもない。それに、「善人ぶっている中に悪がいる。俺等の組織はそういう奴らを抹消している」という倉林のボールペンで二重線を引くかのような物言いに惹かれたのも事実だ。じゃあ、父はどうなるのだ、と思ったが、秋津は考えた。結局、事業を拡大しすぎ借金を膨らまし、採算がとれなく、周りに迷惑をかけた。そういうこと、か。倉林にそのことを言ったら、「仕方がなかった」とそれだけだった。大人の世界では、「仕方がなかった」という事後報告で済ませるということを秋津は学んだ。
「おい聞いてるのか」倉林が叫び空間に声が反響した。「一瞬でもミスや躊躇があれば、撃ち殺されるのは、おまえだ。もう一度いう、おまえだからな」
「わかってる。三秒もいらない。二秒で充分。そして相手を天に召す」
その秋津の言葉に倉林がフッと笑ったように聞こえた。そして休憩になった。
「技術、基礎体力、集中力。問題ない。三ヶ月でここまで出来れば上出来だ。次は実践だ。いいかミスは許されない。へこたれた企業みたいな、先輩、入力ミスしました、納品ミスしました、なんていう、うっかりミスは許されない。こんなことが頻繁に起こっているから日本の企業はどんどん衰退していくんだ。殺し屋を見習え。ミスがなく仕事が完璧だから顧客からの信頼を得られ、また口コミでお客が増える」
倉林がおにぎりを食べながら言った。口元に米が二粒ついていた。
「一つ質問なんだけど?」と秋津は訊いたが「二つ質問があるんですが」と訂正した。
「なんだ?」
「顧客はどんな人かと、ボスにはいつ会えるのかなって」
秋津はペットボトルのお茶を飲んだ。
「ああ、なるほど。顧客は日本に限らず世界の政府筋もいれば、どこそかの大企業の社長もいる。大物系からの依頼が多い。それとボスだが。たぶんお前は姿を見ることはない。なぜなら雲だからだ」
「雲?」
「ああ。別名『クラウド』雲のように流れては消え、また流れては消える。空には浮かんでいるのに実体を掴むことはできない。そういう存在だ。まあ、俺は一度だけお目にかかったが、それも偶然といえば偶然だ。最後に〝じゃあね〟だもん。結構陽気な人だよ」
倉林は缶ビールのプルタブを器用にひねり、喉奥に流し込んだ。喉仏が上下に揺れ動き、規則正しいメトロノームのようだった。
「その別名『クラウド』って人が世界中の顧客を相手にしてるってこと?」
秋津は倉林の喉仏の上下動を観察しながら訊いた。その規則正しいテンポを眺めながら、最近ギターを弾いてないことに気づいた。
「そういうことだ。そして俺らのところに仕事を回す。報酬は高い。グレードが高い仕事を五回こなせばサラリーマンの生涯所得なんてあっさり越える」
倉林は笑った。だが、どこか寂しい表情をしていた。
「ねえ、言いづらかったら別にいいんだけど、何で殺し屋なんかに?」
倉林は長考に入った。腕を組み、缶ビールを飲み、そして、「不条理だ」と淀みのない声で言いい、「お前と対して変わらないかもな。俺はな息子を一人死なせてんだよ。可愛かったぞ。当時の俺は外資系の金融機関で働いていたんだが、いかんせん忙しい。朝から晩までM&Aだ、不良債権処理だ、って具合にな。それで息子の事を見てやれなかった」
倉林は遠くを見つめた。幻の中に息子を見つけるかのように。
「奥さんは?」
「ああ、元々身体が弱くてな。息子を生んで三年後に死んだよ。だから俺は一人。当時な、小学校四年だった息子はいじめられてたんだ。誰にも相談できず、意味も無く広い部屋で孤独だったんだ。ある日、息子を見てないな、と思い部屋に入ったら首を吊ってたよ。遺体を引き取った警察が服を捲ったら息子の身体に打撲痕があったってよ。虐待してたんじゃえか疑われたよ。俺がだぞ。徐々にその噂が広まり周りからは白い目で見られる。ありえるか?その時に何かが吹っ切れちまったんだろうな」
秋津は何も言えなかった。人は誰しも触れられたくない過去を抱え生きている。明日、世界が滅びようとも、それを抱え胸に抱き未消化のまま、日々を過ごすのかもしれない。
「ごめんなさい。変なこと訊いて」
秋津は頭を下げた。
「いや、いいんだ。もう過去だ。それにお前がいる。一人は辛いぞ。若い内はいいがな、歳をとると心が蝕む」
倉林の目は潤っていた。秋津はなぜだか彼の目を直視できなかった。
が、事業というものは面白いもので、何をやってもうまくいく幸運期もあれば、何をやってもうまくいかない不運な時期もある。今の秋津は後者であり不運に巻き込まれた。手広く事業をやり過ぎた父は、世界経済の大打撃をうけた。不動産は買い手がつかず莫大な仕入れ値を財務諸表に計上。利益はマイナスを続け、結局は倒産。飲食店も食糧の輸入が滞り、現地の食材は軒並み高騰を続け。客離れも深刻になり、結局は倒産。借金だけが残った。
やれやれ、と秋津は思う。ライブハウスだけでいいものを。欲が欲を生み、結局は欲という魔物に喰い潰される。欲は適度が一番、だ。彼は父の失敗からそれを学んだ。秋津たちが住んでいる梅島のライブハウスの裏手にあるマンションに連日連夜借金取りが押し寄せた。かつて父の仲間だったものが、「借りた金返せ」と怒号を発する。その言葉にかつて恰幅よく威厳のあった父は痩せ、頬をげっそりさせながら、「返しますから」と弱々しい声で言った。秋津は情けないと思った。そんな父を見たくなかった。そのやるせない怒りが溜まったのか、
「返すっていってんだろ」と秋津は借金取り達に向かって放った。
「なんだとクソ坊主。おめえの親父にこき使われてた身にもなってみろ。無理難題な要求をこっちを解決してきてやったんだ。だから金は返してもらう」
「雇われる方が悪いんじゃん。経営するのだって大変なんだ」
秋津は涙声で言った。別に父を擁護する気ではなかったが悔しかった。だが、その言葉に秋津の頬に鉄拳が飛んできた。口の中が錆びた鉄の味で広がった。さらにはリビングの方で母親の悲鳴とも泣き声ともとれる叫びが漏れた。
「親父に似て、生意気な餓鬼だ」
と借金取りが言い放った。
「まあまあ」とこの場には似つかわしくない声が借金取りの背後から聞こえ、
「冷静に話そうよ」と言った。その男のは倉林と名乗った。秋津を殺し屋に仕立て人物でもある。その倉林が話をまとめ上げる。
「今日のところは穏便に行きましょうよ。また明日来ればいいことですし」と他のフロアの住人に響き渡るように声を大にして言い、父に歩み寄り耳元で何か囁いた。その言葉に父は目を丸くし、深く項垂れた。
秋津は父に歩み寄り、項垂れ憔悴しきっている父に肩をかし、ベッドルームへ連れていこうとした。その秋津の背後に、「坊主。お前いい目してるな」と倉林の声が飛んだ。
思わず、「失せろ」と秋津は一言放った。口の中はヒリヒリとし、血の味がしたままだった。
次の日も借金取りが来ると思ったがこなかった。それもそのはずだ。父が自殺したからだ。多額の保険金が秋津家の振り込まれたのは一ヶ月後だった。そのお金は全て借金返済に消えた。秋津の心は暗く、魔物が住み憑いた。『氷河期』が到来し、人類の大半が滅びる、という。滅べばいい、人が大事なのではなく、皆、金、金、金、じゃないか。秋津はそういう考えに陥っていた。
母は父の自殺後に体調を崩し、大阪の実家に帰ることになった。か細い声で、「元気でね」と母が言った。秋津はやさしく母を抱きしめた。その温もりは秋津にとって母を感じた最後だった。その三年後に母は亡くなった。最後は抜け殻のようだった、と祖父が言っていた。
秋津はアルバイトやサラリーマンとして奮闘しようと、借金取りたちを見返そうと孤軍奮闘した。だが、どうも彼には合わなかった。組織というもに合わなかったのかもしれない。「顔はいいが、愛想が悪い」とどこかのありきたりなコピーライティングを上司に披露されることもあった。社会というものはこういうものであり、集団で群れなければ人間というのは己を保てないのだな、と秋津は納得することにし辞表を提出した。
気づけば梅島駅から梅田方面に歩き、かつて公園だった場所に秋津はいた。そこは既に月極駐車場になっていた。ここにも触れ合いというよりは〝金〟がはびこっていた。ポケットから煙草を取出し、火をつけた。
〝煙草はダメよ〟母の言葉を秋津は思い出す。
ごめん、と心の中でつぶやきながら深々と肺に煙を吸い込んだ。
「よお、坊主。久々だな」
秋津は声がする方向に顔を向けた。暗がりでよくわからず一瞬目を細め、「あっ」と秋津は声を出した。
「覚えてるかい。倉林だ」
とあの日のように穏やかな口調で言った。
「忘れることの方が無理だ」
秋津は唾を飛ばしながら言った。
「若いねぇー。いいよ。若さの素晴らしいところは勢いだね。勢いがあればなんでもできる。怖いものはない。勇敢に立ち向かえる。強靭な敵にも、ね」
何か含みを持たせる言い方を倉林はした。
秋津の目が暗闇というよりは見たくもない倉林に慣れた。綺麗にグレーのスーツを着こなし、外資系金融機関が好みそうなカラーシャツには対照的な紺のストライプのネクタイをしっかり身につけていた。洗練された身のこなしだった。はたから見れば借金取りには見えない。むしろエリートだ。
「おいおい。そんな凝視するなよ。お前も着たいんだろ。上等なスーツをよ」と綺麗な歯並びを見せつけながら倉林は言った。
「あんたは何をしてるんだ?」思わず秋津は訊いた。
「借金取りではない。殺し屋だ」
「嘘つけ。お前は借金取りだ」
「じゃあ、お前の父親はなぜ死んだ?」
なぜ?おかしなことを訊くな、と秋津は思った。借金苦の末に自殺、それに決まっている。
「借金返せなくて自殺したよ。静かにね」
「ふっ!そこが間違っている。自殺したように見えただけだ」
倉林は胸ポケットから煙草を取出し、ジッポで慣れた手つきで火をつけた。
それを見届け、「どういうことだ」と秋津は訊いた。
「この世の中でやってはいけないことってわかるか?」倉林は秋津に訊ねた。
「罪を犯すこと」
秋津は断言した。
「優等生の解答だな。罪を犯すなんていうのは多かれ少なかれ誰もが犯しているんだよ。誰かの悪口を言い人を傷つけるのも罪だ。もちろん人を殺すことも罪だ。だが、人を殺すこが大罪とされ、誰かを傷つけ悪口を言い放ち、その言われた側が深く傷つき自殺したらどうなる?人が死んでいるのに悪口を言った側は罰せられない。おかしくないか?俺が間違っているのか」
倉林はどこか自分に言い聞かせるているように秋津には見えた。
「何がいいたいんだ」
「ああ悪い、悪い」と倉林は煙草を深々と幸福な表情をしながら吸い、「思い込みだよ」と煙を吐き出しながら言った。その煙から悪魔が出てきそうな程、勢いがあった。
「思い込み?」
「誰しも思い込みの中で生きている。あの日を覚えてるか?まあ、覚えているだろうな。俺がお前の親父さんに囁きかけた場面だ。あの時、既に親父さんには遅効性の薬を屈んだときに注射しといた。さらには親父さんに肩をかけたときに胸ポケットに睡眠薬を大量に仕込んどいた。だからあの後、すぐに親父さんは眠ったろう」
秋津はうなずき、「そんなこと、で、できるわけ」と最後までいい切る前に、「できるんだよ。なにせプロだからな」と有無を言わせぬ口調だった。これが本来の倉林の声なのだろう。何も言い返せない、自身に溢れた口調だった。
「思い込みは罪だよ。君の親父さんは事業がうまくいっていると思い込んでいた。だが、もう既に崩れていたんだ。あの立派な家を見ろよ」と目の前にある邸宅を指さした。秋津は見た。門があり、庭がある。メイドがいそうな家だった。
「あの家もよ。格となる支柱が一本崩れただけで、もろくも崩れさる。たった一本だ。それだけぞ。その一本で連鎖的に崩れさる。お前の親父さんは支柱が破壊され、もろくも崩れ去った。手広くやり過ぎるのも問題だがな。お前にはそれがわかっているんだろ」
倉林の言葉に秋津は何も言えなかった。
「図星か。まあ、俺はお前をスカウトしにきた。今が時期だと思ってな。興味あったら連絡してこい。まあ、来ると思うが」
そう言い、名刺を一枚取出し秋津に手渡した。
株式会社 The End 倉林冬彦
と印字されていた。
「これビートルズの曲名?」と
と名刺を見ながら秋津は訊いた。
「ああ、代表が好きなんだ。ビートルズ。それ日本語にするとなんだっけな」と吸殻を律儀に携帯灰皿にしまいながら言った。
「『じゃあね』でしょ」
「ほお、やるねえ。すっかり忘れてた。ボスの口癖でもあるんだけどな、『じゃあね』って。お前、ビートルズ好きなのか?」
倉林は訊き、秋津は軽くうなずいた。
さらには倉林が、たこ焼き奢ってやる、ということで近くの商店街まで向かった。一本五十円で三個ついてくる。お得だ。二人で立ちながら食べた。彼らの前を十代後半と思しき女性が通り過ぎた。
「あれは将来、いい女になるな」
倉林がたこ焼きを頬張りながら言った。
「充分、綺麗だと思うけど」
「そう言う意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
秋津は倉林の方を向いた。
「大物になるっていう意味だ」と倉林は通り過ぎた女性を見ながら言った。
「なんでわかるの?」
秋津は目を細めた。
「目だよ。目」と倉林は言い、「力がある。何かに挑戦してる目だ。あれを持続させたとき高みへ行ける。継続は力なり、だからな」企業の訓示のようなことを倉林は言った。秋津が最初に入社した印刷会社の朝礼で毎朝社員全員で叫ぶ言葉は、
〝成長することは学ぶことだ〟
を社員全員十回叫ぶという宗教めいた会社だった。もちろん辞表届けを出したから彼の今がある。
秋津は目の前を通り過ぎた女性の後姿を見た。肩に美術教師が持っているような大きい鞄を下げていた。画家?と彼が思ったとき白い物が上から降ってきた。季節は秋だった。四季の乱れに、「わたくし、倉林冬彦と申します。冬生まれですが今は秋です」と雪が舞う空に向かって穏やかに倉林は言った。
「相手を認知したら引き金を引く!三秒だ。三秒で決まる」
倉林が怒気を飛ばした。
秋津は梅島ベルモント公園の地下施設にいた。地上では子供や暇を持て余した老人で賑わっている中、彼は射撃練習に精を出していた。倉林から名刺を貰った翌日に電話をかけ、殺し屋になる決意を固めた。とくに信じるものもなければ失うものもない。それに、「善人ぶっている中に悪がいる。俺等の組織はそういう奴らを抹消している」という倉林のボールペンで二重線を引くかのような物言いに惹かれたのも事実だ。じゃあ、父はどうなるのだ、と思ったが、秋津は考えた。結局、事業を拡大しすぎ借金を膨らまし、採算がとれなく、周りに迷惑をかけた。そういうこと、か。倉林にそのことを言ったら、「仕方がなかった」とそれだけだった。大人の世界では、「仕方がなかった」という事後報告で済ませるということを秋津は学んだ。
「おい聞いてるのか」倉林が叫び空間に声が反響した。「一瞬でもミスや躊躇があれば、撃ち殺されるのは、おまえだ。もう一度いう、おまえだからな」
「わかってる。三秒もいらない。二秒で充分。そして相手を天に召す」
その秋津の言葉に倉林がフッと笑ったように聞こえた。そして休憩になった。
「技術、基礎体力、集中力。問題ない。三ヶ月でここまで出来れば上出来だ。次は実践だ。いいかミスは許されない。へこたれた企業みたいな、先輩、入力ミスしました、納品ミスしました、なんていう、うっかりミスは許されない。こんなことが頻繁に起こっているから日本の企業はどんどん衰退していくんだ。殺し屋を見習え。ミスがなく仕事が完璧だから顧客からの信頼を得られ、また口コミでお客が増える」
倉林がおにぎりを食べながら言った。口元に米が二粒ついていた。
「一つ質問なんだけど?」と秋津は訊いたが「二つ質問があるんですが」と訂正した。
「なんだ?」
「顧客はどんな人かと、ボスにはいつ会えるのかなって」
秋津はペットボトルのお茶を飲んだ。
「ああ、なるほど。顧客は日本に限らず世界の政府筋もいれば、どこそかの大企業の社長もいる。大物系からの依頼が多い。それとボスだが。たぶんお前は姿を見ることはない。なぜなら雲だからだ」
「雲?」
「ああ。別名『クラウド』雲のように流れては消え、また流れては消える。空には浮かんでいるのに実体を掴むことはできない。そういう存在だ。まあ、俺は一度だけお目にかかったが、それも偶然といえば偶然だ。最後に〝じゃあね〟だもん。結構陽気な人だよ」
倉林は缶ビールのプルタブを器用にひねり、喉奥に流し込んだ。喉仏が上下に揺れ動き、規則正しいメトロノームのようだった。
「その別名『クラウド』って人が世界中の顧客を相手にしてるってこと?」
秋津は倉林の喉仏の上下動を観察しながら訊いた。その規則正しいテンポを眺めながら、最近ギターを弾いてないことに気づいた。
「そういうことだ。そして俺らのところに仕事を回す。報酬は高い。グレードが高い仕事を五回こなせばサラリーマンの生涯所得なんてあっさり越える」
倉林は笑った。だが、どこか寂しい表情をしていた。
「ねえ、言いづらかったら別にいいんだけど、何で殺し屋なんかに?」
倉林は長考に入った。腕を組み、缶ビールを飲み、そして、「不条理だ」と淀みのない声で言いい、「お前と対して変わらないかもな。俺はな息子を一人死なせてんだよ。可愛かったぞ。当時の俺は外資系の金融機関で働いていたんだが、いかんせん忙しい。朝から晩までM&Aだ、不良債権処理だ、って具合にな。それで息子の事を見てやれなかった」
倉林は遠くを見つめた。幻の中に息子を見つけるかのように。
「奥さんは?」
「ああ、元々身体が弱くてな。息子を生んで三年後に死んだよ。だから俺は一人。当時な、小学校四年だった息子はいじめられてたんだ。誰にも相談できず、意味も無く広い部屋で孤独だったんだ。ある日、息子を見てないな、と思い部屋に入ったら首を吊ってたよ。遺体を引き取った警察が服を捲ったら息子の身体に打撲痕があったってよ。虐待してたんじゃえか疑われたよ。俺がだぞ。徐々にその噂が広まり周りからは白い目で見られる。ありえるか?その時に何かが吹っ切れちまったんだろうな」
秋津は何も言えなかった。人は誰しも触れられたくない過去を抱え生きている。明日、世界が滅びようとも、それを抱え胸に抱き未消化のまま、日々を過ごすのかもしれない。
「ごめんなさい。変なこと訊いて」
秋津は頭を下げた。
「いや、いいんだ。もう過去だ。それにお前がいる。一人は辛いぞ。若い内はいいがな、歳をとると心が蝕む」
倉林の目は潤っていた。秋津はなぜだか彼の目を直視できなかった。