もう一方の壁に寄ったときだった。

先ほど廊下を徘徊していた老人がナースステーションの向こうから歩いて来るのが見えた。
男に気づいたのだろう、老人が近づいて行くのがわかった。

「ダメ、近づいちゃダメ!」

叫んでも歩幅を緩めない老人がついに男の横に並んだ。

「こんばんは」

「……許さない。許さない」

まだつぶやきをやめない男の肩に老人は手を置いた。

「今日は雪がふってるらしいよ。こんな暑いのに雪なんておかしいなあ。なあ、あんたは――」

男が前を向いたままサバイバルナイフを素早く振りあげた。
スパッという音がして、次の瞬間、老人の首から血が噴き出していた。噴水のように血しぶきがあふれ、糸の切れた操り人形のように老人は床に倒れた。

ゴポゴポという音がして、その周りにゆっくり血が広がっていく。

ウソだ。こんなの夢だよ……。

「キャーッ!」

カップルの女性のほうが悲鳴をあげた声で我に返った。
間違いない、これは現実のこと。今、ここで殺人がおこなわれているんだ。

男は血で汚れた顔をパーカーの袖で拭うと、

「んだよこれ……どうしてこんなこと僕にさせるんだよ」

と怒りをにじませた口調でわたしを見た。