その日から、俺は毎日香澄の病院を訪ねて、菜々子ちゃんの代わりに付き添いをする。
菜々子ちゃんは、学校に行けるようになった。
だけど、一番の問題は、お医者さんと話しが出来ないこと。
菜々子ちゃんは未成年だし、俺は他人。
看護師さんは優しいけど、俺と菜々子ちゃんには、何も言わないし、何も教えてくれない。
香澄の体の状態を知っているのは、診察室で話しを聞く、彼女の両親だけだった。
病棟には一度も顔を出したことがないから、俺も見たことがない。
香澄は、出産の予定日が近いこともあって、ほとんどをベッドの上で寝て過ごしている。
菜々子ちゃんは学校から帰ってきたら、宿題と、北沢くんからもらった塾のテキストを、ベッドサイドでやっている。
「お家では、なにしてるの?」
香澄は静かに寝息を立てていて、俺は真剣な顔で問題を解く菜々子ちゃんの、横顔に聞いた。
「大人しくしてる」
「大人しくって?」
「大人しくは、大人しいって意味よ」
菜々子ちゃんは、大人だった。
突然、香澄に繋がる表示モニターが警告音を発した。
あわててナースコールを押すと、ほぼ同時に看護師さんが飛び込んで来る。
「どいてください!」
香澄がベッドごと慌ただしく運ばれていくのを、俺と菜々子ちゃんは、ただ黙って静かに見送った。
「おばあちゃんから、なにか聞いてない? 具合、悪いのかな」
彼女は首を横に振り、ただ前を向いて立っていた。
それからの数日は、俺が面会に行っても、関係者以外は面会謝絶状態で、菜々子ちゃんはうちにも勉強しに来なかった。
一度だけ病院の廊下で、おばあちゃんらしき人と、知らない大人の人と歩く菜々子ちゃんを見かけたけど、俺はあえて声をかけなかった。
邪魔になると思ったから。
彼女はうつむいて、大人しくしていた。
今日の朝も、病院の面会時間前に、店の前を掃いておく。
最近はろくに店も開けていないから、特に掃除する必要もないんだけど、体に染みついた日課なんだから仕方がない。
吹く風が少し冷たくなってきて、導師は建物の陰でうずくまっている。
数枚の枯れ葉と、どこからか飛んできた何かの紙くずを、まとめて片付けておいた。
もうとっくに学校は始まっている時間なのに、ランドセルを背負ったままの菜々子ちゃんが、店の前に立っていた。
「赤ちゃんは、いならいんだって、子供はもう、いらないんだって」
「菜々子ちゃんは、いらない子じゃないよ」
道を掃く、ほうきの手を止める。
「お腹の赤ちゃんは、このままだとお母さんが死んじゃうから、どいてもらうんだって」
菜々子ちゃんはランドセルを背負ったまま、学校に行かずにここに立っている。
「いつ?」
「今日」
「行こう。そんなこと、俺が許さない」
菜々子ちゃんの手を握って、病院へ歩き出す。
あんなに大きくなったお腹の子をあきらめるなんて、おかしいじゃないか。
菜々子ちゃんは、まだ産まれない赤ん坊を、自分と同じように思っている。
だからここへ来て、黙って立っている。
表情を殺した顔で。
それなのに、そんなこと、俺は許さない。
病院に着いたら、香澄は個室に移されていた。
菜々子ちゃんと二人、病院に通い詰めた顔パスパワーで、親族以外は面会謝絶の病室に、無理矢理入り込む。
香澄のお腹は、もうすでにペタンコになっていた。
菜々子ちゃんは、なにも言わずに香澄のベッドサイドに座る。
「お腹の赤ちゃんは?」
「死んだ」
香澄は沢山の管につながれた体で、数本の針が刺さった両腕を、顔の上に置いている。
「死んだの?」
「どーせ助からないし、もういいかなって思って」
香澄がそんなふうにしているから、ここからは香澄の顔が見えない。
菜々子ちゃんは、自分の母親に、自分の兄弟のことを聞いている。
「どーせ邪魔だし、いらないし、出てきても、苦労するだけだから、私が」
病院の個室はとても静かで、親子の会話を邪魔するものはなにもない。
「これ以上、余計なのが増えても、大変でしょ。ついでだから」
「そっか、分かった」
菜々子ちゃんはそう言った。
それで、香澄との話しは終わり。
「そんなこと、聞いてないだろ!」
つい声が大きくなる。
そんなことは、絶対嘘に決まっている。
菜々子ちゃんを一度生んでいるのに、本当にいらないのなら、妊娠が分かったときに、なんとかしてるはずだ。
俺は、そんなことは、聞いてないんだ。
菜々子ちゃんも、本当に聞きたかった話しじゃないはずだ!
「じゃあなんで、名前考えようって、言ったの?」
香澄の腕が顔の上から下ろされたとき、サイドテーブルに指先が少しぶつかった。
そこから積み上げられた紙の山が、バサリと落ちる。
「俺は、一緒に住もうって言ったし、名前も考えようって言ったのに!」
「あんたの子供じゃないんだし、なんであんたに指示されないといけないのよ!」
拾い上げたその紙は、いろんな手術や検査の同意書で、香澄は、そこに何一つ了承のサインをしていなかった。
「ねぇ、これ、どういうこと?」
「あぁ、余計なことしたら、お金かかるでしょ、だから。しないの」
香澄は笑って言う。
「便利だよねー、本人の意志がないと、検査のひとつも出来ないんだってさ」
その笑った瞳から頬に伝うしずくは、本人の意志とは無関係に出てくる汗みたいなものだから、香澄にもきっと、どうしようも出来ないんだと思う。
「さっさと退院できたら楽なんだけど、病院以外で死ぬと、それはそれで厄介みたいで」
「結婚しよう。俺、今から婚姻届け、持ってくる」
「はぁ?」
「そしたら、お前もお腹の子も菜々子ちゃんも、俺のものになる」
「なるわけねーだろ、バカ!」
香澄なんかの声は無視して、廊下を走る。
急いでたら、看護師さんに走らないで下さい! って怒られたけど、後で謝っておくから平気。
このすぐ近くに区役所があるから、そこから勝手に婚姻届けを取ってくればいい。
それにサインして出してしまえば、誰だって家族になれるんだ。
役所に着いたら、引っ越しとかの住所変更と、戸籍抄本や印鑑証明の用紙と並んで、婚姻届けがおいてある。
やろうと思えば、こんなにも簡単にできるんだ。
俺は取り出した一枚の婚姻届けに自分の名前を書いて、一度うちに戻ってはんこを押した。
それから病院に返って、香澄に書類を渡す。
「あんた、バカじゃないの!」
「今日中に出しときたいから、早くサインして」
目の前で、香澄はその紙を破った。
「ちょっと! もう区役所しまっちゃうだろ! なんで破くんだよ!」
「あんたみたいなバカに、なんで私がこんがいてのきあ……」
舌がうまく回らないのか、後半は何を言っているのか分からない。
香澄と繋がった機械のアラームが鳴って、看護師が飛び込んでくる。
「ご家族以外は、面会謝絶ですよ!」
「明日から家族になります。そしたら、手術も出来ますか? 先生の、お話も聞けますか?」
飛び込んで来た医師らしい先生と看護師は、せわしなく手を動かしながらも、俺を見る。
「家族になったら、連絡してください」
「はい、分かりました」
意識を失った香澄を残して、俺と菜々子ちゃんは部屋を追い出された。
そう言えば、菜々子ちゃんには、まだ許可をもらっていない。
「ねぇ、俺がお父さんになっちゃダメ?」
「そんなこと聞かれたの、初めてなんだけど」
菜々子ちゃんは大人だから、いつでも落ち着いている。
「今日からこの人がお父さんってのは、何回かあったけど」
俺は、菜々子ちゃんの手をぎゅっと握った。
「俺が、お父さんになっちゃダメ?」
「すごく頼りないお父さんだよね……、ま、考えておく」
それから俺は、毎日区役所に通って、毎日十枚ずつ婚姻届けをもらってきて、毎日三枚ずつ香澄に渡そうとしたけど、香澄はずっと眠ったまんまで、どうすることも出来なかった。
俺は毎日、持ってきた届けを香澄の枕元に置いた。
夕方の家の居間で、菜々子ちゃんはまた勉強をするようになった。
俺はたまっていく片方だけ署名の入った婚姻届けの束を見ながら、ごろごろしている。
「なんで、あんな人と結婚したいの?」
「初恋の人だったんだ」
「好きなの?」
「うん」
「アレが?」
あの頃と変わらない、片思い満載の婚姻届けの山に囲まれて、俺はその人の娘を見る。
「そうだよ」
「私だったら、別の女にするな」
菜々子ちゃんはふっとため息をついて、片肘をついた。
「たとえば、尚子さんみたいな」
「最悪だ、お前に女を見る目はない」
「私、あんな女になりたくないから、勉強してるの」
彼女は自分の母親のことを、そう呼ぶ。
「だから、さっさと自立して独立するの。自分でちゃんと働いて、仕事するの」
「それは、とてもいいことだね」
でもここは、親の代から続いた本屋で、その経営赤字は、再婚相手の連れ子である尚子が補ってくれている。
税金対策でもあるらしいけど。
「あんたに言うセリフじゃなかった。同じクズだった」
その言葉に、少なからずダメージを受けた俺が寝転がると、導師が腹の上に乗ってくる。
尚子に助けられているのは、確か。
「重い、重たいよ、導師」
だけど、どいてと言って下ろしてしまわないのは、その重みに、本当は耐えられるから。
片思いの婚姻届けに囲まれて、導師の頭を撫でていた俺は、そのまま眠ってしまった。
毎日届けた無駄な婚姻届にも、効能はあった。
その話しを聞いた香澄のお母さんと、俺は会うことになった。
「あの子が死んだらどうするの?」
病院の喫茶コーナー。
とってもアットホームな雰囲気のこぢんまりとしたお店で、客席はわずかに三テーブル程度、使い込まれた傷だらけのグラスに飲み物が注がれ、解放的な空間演出に、すぐ脇を来院者たちが通り抜けていく。
「死んだら、死亡届を出して、火葬に出します」
「子供は?」
「俺の子供ということになりますよね」
「うちで今後とも一切面倒はみないよ」
「当然です」
「入院費用は払う。後は勝手にして」
「分かりました」
後は、香澄自身と菜々子ちゃんの許可だけ。
香澄の病室を覗いても、ずっと寝てるだけだし、相変わらず看護師さんも主治医も、俺には何も教えてくれない。
菜々子ちゃんは、最近はずっと家の居間に来ていて、ひたすら尚子と北沢くんからもらった本で勉強している。
「俺を、お父さんにしてくれる?」
「あたしが結婚するんじゃないから。誰がなっても私には関係ないし」
やっぱり、香澄に意識を取り戻してもらうしかない。
もしも、導師が今でも話しが出来るなら、きっと魔法をかけてくれたに違いない。
俺の結婚の望みは叶わなくても、せめて香澄を、一時だけでも、目覚めさせることは出来ただろう。
俺は中途半端にしか魔法を習ってないから、そんな極意なんてものはさっぱり分からなくて、結局いつもと同じに、何も出来ないでいる。
「導師、なんで俺をもっと早く、魔法使いにしてくれなかったの?」
俺が導師をぎゅっと抱きしめたら、導師は腕から飛び出して逃げていった。
「また言ってる。なんで魔法使いになりたいわけ?」
「この世の全てを支配したいから、大魔王になりたいの」
菜々子ちゃんは、ふんと笑った。
「あんたって、本当にバカだよね」
毎日毎日、婚姻届けを片手に病室に通っていると、いいこともあって、もちろん嫌悪感たっぷりの視線でにらまれるのが九割なんだけど、それでもこっそり味方してくれる人が、わずかながら出てくる。
その日も、菜々子ちゃんの付き添いってことで、俺は病室に入れてもらえた。
「あんた、まだ来てたの」
香澄は酸素マスクをつけていて、体は動かせなくても、口だけは動くし、声は小さくても、意識ははっきりしてる。
「結婚しようよ」
「なにが目当てなわけ? 遺産とかないし、もうすぐ死ぬのに、なんで?」
「俺は初恋の人と結婚できるし、未婚の生涯独身者じゃなくなる。菜々子ちゃんを、簡単に俺の養子にすることが出来て、君の死後の不安も取り除ける」
香澄の半分開いた、焦点の合わない目が、懸命に俺を探している。
「残された時間は少しかもしれないけど、俺は、君を幸せにする」
かけられた布団の上から、香澄のお腹に手の平を重ねる。
「本当は、産みたかったんでしょ、菜々子ちゃんを見てたら分かる」
香澄にはもう、自分の手を動かす力すら残ってないらしい。
「俺はあの頃には、何も出来なかったけど、今なら出来る。君の命は助けられなくても、不安と心配はなくせるし、菜々子ちゃんを、ちゃんと育てる」
俺の後ろで見ていた、菜々子ちゃんが立ち上がった。
「私、あんたに育ててもらうつもりはないけど、自分で育つから」
彼女は、自分の母親を見下ろした。
「だけど、この人なら、成人するまで面倒みてくれる気がする。お父さんって、呼んであげてもいい気がする」
「私みたいになるな、お前は勉強して自立しろって、菜々子ちゃんに教えたのは、香澄ちゃんなんでしょ」
香澄の手が、何かを探していて、菜々子ちゃんは、その手にペンを握らせた。
香澄はガタガタの文字で自分の名前を書いて、菜々子ちゃんがはんこを押した。
他にも証人とか、戸籍とかが必要とかで、あちこち駆け回ってる間に、香澄はまた意識を失って、婚姻届けを提出出来たときには、もう動かなくなっていた。
婚姻届けは無事に出せたのかとお医者さんに聞かれて、はいとうなずいたら、時計を見て死亡時刻を確定した。
菜々子ちゃんは正式に俺の子供になり、俺は菜々子ちゃんの正式な保護者になった。
彼女はうちに引っ越してきて、そしてまた、うちに位牌が増えた。
「なんかこの部屋、縁起が悪いよね」
「全部、腐れ縁だからね」
「ヘンなの」
菜々子ちゃんは泣いていて、俺はその泣き顔を、初めて見た。
なってみてようやく分かったけど、保護者というのは結構急がしい。
参観日とか、持ち物とか、親の会とか、他にも色々たくさんあって、かつてないほどの雑用に追われている。
菜々子ちゃんはちゃんと約束を守って、俺のことを『お父さん』と呼んでくれていて、それだけはとてもありがたいし、助かった。
そして、導師がいなくなった。
数日前から、用意した餌を食べていない、姿も見ていない。
菜々子ちゃんに聞いたら、三日前には、うちにいたのを見たという。
「どっかに行っちゃったのかな、俺をおいて」
結局俺は、魔法使いになんてなれなかった。
きっとそんな素質もなかったし、尚子たちの言う通り、夢を見ていただけなのかもしれない。
「あたしがいるから、いいじゃない」
「菜々子ちゃんがいたって、魔法は使えないよ」
「あたしと、お母さんを幸せにする魔法をつかったんでしょ」
彼女は呆れたように言う。
「それで、世界を救ったっていうことで、いいんじゃない? 魔法使いの大魔王なんでしょ?」
導師は、菜々子ちゃんは魔女になるかもって、言ってた。
「きっと、導師の役目は終わったんだよ、それで、次の人の所に行ったんだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ。よかったね」
彼女がそう思うのなら、そういうことにしておこう。
俺は多分、魔法使いになった。
完