「楽しいわけないでしょ! あんたのためにやってんのよ!」

二階と玄関から同時に足音がして、千里と尚子が飛び込んできた。

「お兄ちゃん? なにやってんの!」

「和也? あんた、大丈夫?」

突然の女性二人の登場に、俺の腕の中で香澄は叫んだ。

「助けてください! この人が急に!」

俺は、自分の体の下にある香澄を潰してしまわないように、ゆっくりと気をつけて上体を起こす。

「私、突然この人に押し倒されたんです!」

香澄の訴えに、二人は顔を見合わせた。

俺はただ、何も言わずに黙っている。

「うちのお兄ちゃんは、そんなことする人じゃないでしょ」

「和也は、無理矢理女性を押し倒すようなことは、出来ませんよ」

香澄が見上げた先にあったものは、彼女の望むものではなかった。

彼女の平手打ちが、俺の左頬を強打する。

「どいて! 邪魔!」

香澄は出て行った。

こんな形で、俺の初恋が終わりを迎えるとは、思いもよらなかった。

「だって、お兄ちゃんはビビリなんだもん」

「やり方も知らないんじゃない?」

二人の女は、いつも好き勝手なことを言う。

俺は、叩かれた頬に触れてみた。

指の先から、ヒリヒリと痛む。

だけど、そんな痛みよりも、傷ついた思い出の方が、よっぽど痛い。

尚子がため息をついた。

「あんた、あの人のことが好きだったの?」

のれんをくぐって出て行った香澄を、俺は追いかけないといけないはずだった。

「だったら、素直にそう言ってあげればよかったのに」

「導師を探してくる」

「変なの」

店から出て行こうとする俺の背中に、二人の声が突き刺さる。

「どうして、ちゃんと言ってあげなかったのよ」

「なんか今日は変だよ。いつものお兄ちゃんじゃない」

「だから、お前らは嫌いなんだよ」

俺は、導師を探しに行くんだ。

使い古したボロボロのサンダルを引っかけて、店の外に出る。

だって俺は、香澄の好きなお菓子なんて知らない。

本当はただ、外に出たかっただけ、外の空気を吸いに出たかっただけ。

風の吹き抜ける河原の土手の上、今日は、北沢くんにも菜々子ちゃんにも会いたくない。

そのまま家にいて、尚子と千里と言い合いを続ける気もないし、どこか遠くへ行ってしまいたかった。

もう、導師も、魔法使いも、本当はどうだっていいんだ。

俺は、自分の身にふりかかる、数多くの悪事をコントロールしたかった。

自分に起こる嫌な出来事を、自分でコントロールすることができるなら、それは正義の味方とかじゃなくて、悪魔か大魔王のはずだ。

戦って勝てる相手じゃないなら、それをうまく避けるしかない。

大魔王になって、俺は向こうから勝手に飛んでくる悪を、避けたかったんだ。

ついでに回りの人たちもなんて、余計なことは、考えている場合じゃなかった。

導師との修行が進まないのも、自分に焦りがあったのも、結局は全部、自分が助かりたかっただけだし。

今日はもう、なにもしない。

こんな時は、ただ歩くに限る。

どこまでもどこまでも、足の動くかぎり動かして、帰れなくなってもいい、行き着いた先で座っていればいい。

そしたらまた、いつの間にか太陽が昇って、大勢の人がどこかに向かって急ぐ風景を見ながら、自分はやっぱり一人なんだということを再認識する。

分かりきってることを、時々忘れてしまうから、辛くなるだけなんだ。

本当はこのまま消えてなくなってしまいたいけど、そんな度胸もないから、結局はまた何もない家に戻る。

玄関の方から居間に上がると、灯りがついたままの部屋で、尚子と千里が待っていた。