魔法使いになりたいか

千里がお腹減ったっていうから、ご飯をつくって食べた。

それから片付けをして、なんとなくクセでテレビをつける。

明日はなにをしよう、なにをすればいいんだろう。

テレビ画面の中は、とってもにぎやかで楽しそうだけど、俺には完全に無関係な世界が広がっている。

とりあえず、菜々子ちゃんちに行ってみようかな、どこにあるのか、知らないけど。

千里はのんきに鼻歌を歌いながら、風呂上がりの髪の毛を拭いていた。

「ねぇ、千里」

「なに?」

お父さんいなくて、どうだったとか、お母さんいなくなって、さみしかったとか、だけど、今さら聞くのもバカらしい。

「なんでもない」

「キンモッ!」

千里が二階にあがっていくのを、俺はなんか安心して見上げた。

またなんとなく次の日の朝が来て、なんとなく店のシャッターを上げている時だった。

ふと横に目をやると、そこには香澄が立っていた。

「まだこの本屋さん、続けてたんだ」

「うん」

俺は、なんとなくそう答える。

お腹は大きくなっていても、それ以外は俺の記憶のそのままで、こうやって香澄の方から話しかけられるのも、不思議な気がする。

「菜々子から聞いたんだけどさぁ~」

香澄は、にこにことにやにやの、中間で笑っている。

「結婚って、してないんだ」

黙ってうなずく。

「私と同い年だから、三十だよね、独身かぁー。彼女とか、つき合ってる人とか、いないの?」

俺は、黙って首を横に振る。

彼女はそれを見て、楽しそうに笑った。

「はは、そうなんだ。じゃあ、本当に本屋は、一人でやってるんだね」

そうかそうかといいながら、香澄は店の外観を見て回る。

「まぁ、悪くはないわよね」

香澄とは、中三の時に同じクラスになった。

その時には、同じクラスに彼氏がいた。

その彼はとってもいい奴で、俺はほとんどしゃべったことはなかったけど、俺にもいじわるなんて、してくるような奴じゃなかった。

クラスの人気者で、キラキラしてるタイプだった。

俺は香澄のことが好きだったけど、そいつにはかなわないって、最初から分かってたから、なにも言わなかった。

「私のこと、まだ好き?」

そんな彼女に、なぜか一度だけ告白した。

どうしてそんなことをしたのか、その時の自分の行動が、今になって考えてみても、よく分からないけど、とにかく何かのタイミングで、ふたりきりになったとき、何を思ったのか、俺は彼女に好きだと言った。

「まぁでも、あれから何年も経ってるもんね、私も今、こんなだし」

香澄は、大きなお腹を抱えて笑う。

あの時もそうだった。

彼女は、俺のシンプルな告白を聞いた校庭の隅で、何の冗談かと笑っていた。

そうなることは、簡単に想像出来たのに、よく分かっていたのに、俺はそのまま立ち上がって、黙ってその場を後にした。

彼女は、そのまま彼氏の所に走っていって、何事もなかったように、それからの日々を過ごした。

「人間、どうなるか分かんないよね~」

菜々子ちゃんは今、学校に行っている。

平日の午前中、さびれ果てた商店街に、人影はまばらすぎた。
「またさ、菜々子、ここに来てもいい?」

香澄さえいいのであれば、俺に異論はない。

「勉強してたんだってね、本気で? 女の子が勉強したって、なんにもなんないのにね」

香澄は笑っている。ただ、声を出して笑っているだけ。

「ねぇ、菜々子の勉強、またみてくれる?」

「いいよ」

「そ、よかった」

彼女はそれだけを言って、朝日のなかで手を振った。

「じゃあ、菜々子が帰ってきたら、そう言っとくから」

菜々子ちゃんは、ここで勉強することを、どう思っているのだろう。

お母さんのこと、好きなのかな。

聞きたいことが、沢山あった。

言いたいことが、山ほどあった。

それを何一つ出来ないでいるのは、自分に勇気がないから、とは、思っていない。

午後になって、菜々子ちゃんは本当にやってきた。

「お母さんに、行ってこいって、言われたの」

「うん」

「入ってもいい?」

「うん」

菜々子ちゃんは、ちゃんと勉強道具を持ってきていた。

「こないだうちにいた俺の姉ちゃんがね、菜々子ちゃんに、プレゼントだって」

尚子が買った、参考書と問題集。本棚の低い所にいれておいた。

その隣には、北沢くんが持ってきた、塾の問題集。

彼女は、黙って塾のテキストを手にとった。

「やっぱり、本屋さんで売ってる問題と、塾の問題って、違うね」

その、汚い字で書き殴られた、所々に涙で濡れたような跡と、破れたページがあるテキストは、北沢くんの戦いの痕跡。

「私ね、お母さんから、あの女の人の話、聞いた」

菜々子ちゃんは、北沢くんのテキストの、最初のページを開いて置いた。

「うちのお母さんは……、わ、悪口みたいなこと言ってたけど、私は違うと思う」

菜々子ちゃんは、うつむいていた顔を、まっすぐに俺に向けた。

「今の私には、勉強以外出来ることがないから、勉強するね」

彼女の小さな手が、本のページをめくる。

導師は、縁側からじっと菜々子ちゃんの様子を見ている。

俺は邪魔をしないように、そっとその場を離れて、店のレジに座った。

多分どこかのブランドの子供服で、だけど相変わらず体には擦り傷が絶えなくて、きっと彼の両親は、北沢くんのつくる傷は、腕白でやんちゃな元気の証拠だと思っていて、それが悪意のある誰かによって、わざとつけられた傷であることは、本人にも言うつもりが無い。

そんな北沢くんがやってきて、遠くからこっそり店の中をのぞいている。

「お菓子あるのに、入ってこないの?」

「あいつ、来てます?」

彼はいつものように、居間に飛び込んだりせずに、ゆっくり歩いて店の中に入ってきた。

「勉強してるよ。君の持ってきたテキストで」

北沢くんの目は、居間へ上がる段差のところに並べられた、小さな靴しか見ていない。

「あ、本当だ! じゃあ上がらせてもらいますね」

居間の方からは、すぐに言い争う二人のにぎやかな声が聞こえてきて、しばらくするとその声は大人しくなったから、ちゃんと二人で勉強を始めたんだと思う。

導師がやってきて、俺の膝に座った。

「やれやれだな」

俺は、導師の頭を掻いてやる。

「ねぇ導師、菜々子ちゃんってさぁあー……」

「うちの菜々子がどうしたって?」

顔を上げると、買い物袋をぶら下げた香澄が立っていた。
「はい、これ。あんたも男の一人暮らしじゃ、さみしいと思って」

中に入っていたのは、スーパーで買ってきた大量のお総菜。

「今夜のおかずにでもして。ほら、菜々子がお世話になってるから」

香澄は、俺の膝に座る導師を見下ろした。

「私、妊婦じゃない? 猫には、引っかかれたくないんだけど」

導師と目が合う。

「追いだしてくれない? 猫の毛も嫌だし」

香澄は勝手に居間へと上がって行く。

「やれやれだな」

導師は立ち上がって、全身を伸ばしてから床に飛び降りた。

「導師、ごめんね!」

「私は散歩に行きたくなったから、出て行くだけだ」

居間に戻って、もらったお総菜を冷蔵庫に入れる。

作り置きおかずのタッパーは、奥に押し込んでおく。

「え? あんたんちって、両親とも弁護士なの?」

「えぇ、特に自慢するほどのことでもありませんけどね」

香澄は北沢くんの両親に興味津々で、北沢くんは得意げにその話にのっている。

「僕も将来は、医者か弁護士になる予定です」

香澄は笑った。

「なに? 菜々子は、この子が目当てだったの?」

北沢くんは、顔をまっ赤にしてうつむいて、俺はその隣に座った。

「この家って、あんた以外は上出来なんだね」

「そんなことないよ」

俺だけが、本当はマトモなんだけど、そんなことを言っても、彼女には通じないだろうから言わない。

その日の夜、久しぶりに千里が早く帰ってきた。

全国ツアーのリハーサルとかで、練習に体力を使うから、早めに終わるようにしてるんだって。

千里は、冷蔵庫のお総菜を見て、変な顔をしてたけど、俺の方をちらりと見ただけで、何も言わなかった。

朝になって、開店準備のシャッターを開ける。

今日は天気がいいから、布団を干して洗濯をしよう。

そしたら、家中を掃除して回ろう。

そう思って、洗濯の終わったシーツを庭の物干し台にかけたところで、香澄が現れた。

「おはよー」

彼女はまた、買い物袋をぶら下げている。

居間のちゃぶ台の上には、昨日もらったお総菜に、アレンジを加えた朝ご飯と、座布団には導師。

香澄は、昨日のうちに買っておいたらしい割引の総菜が入った袋を、導師に向かって投げつけた。

導師はちゃぶ台の下に逃げ込む。

「なにこれ、私への当てつけ? さっさとこの猫、追いだしてって言ったよね」

香澄はそばにあった布団叩きを拾いあげると、ちゃぶ台の脚を何度も叩きつける。

「待って!」

台の下から飛び出した導師を、香澄は思いっきり叩きつけた。

導師の体が宙に浮きあがり、棚にぶつかる。

導師は矢のように逃げ去った。

「なんでそんなことをするの! 俺は、導師を探してくる!」

「何その名前、ドウシって、同士? あんたの仲間?」

香澄は、手にした布団叩きを放り投げた。

「あたしが今ここにいるのに、なんであんたが出て行くのよ」

「導師がいなくなったからだよ!」

突然、香澄は俺の胸ぐらをつかむと、足をなぎ払い床に押し倒した。

「ねぇ、妊婦でも、セックスできるって、知ってた?」

香澄は落ちてきた髪を、耳にかき上げる。

「エッチ、しよっか」

彼女の突き出た大きなお腹が、俺の腹部を圧迫する。

這わせた手が股間に到達すると、香澄の唇が俺に触れた。

「菜々子ちゃんのお父さんって、三浦くんなの? 中学の時、つき合ってたよね、そのまま結婚したって聞いたけど、菜々子のお父さんって、やっぱりそうなんだ」

香澄の手が止まった。

高校を卒業してから、俺はずっと地元で暮らしている。

同じ所に長く住んでいると、いろんなことが、勝手に耳に入ってくる。

「元気にしてるの?」

三浦くんは、作業現場の事故で亡くなったと聞いている。

「今は、どこに住んでるの? 三浦くんちの実家? それとも別に部屋を借りた?」

駆け落ちみたいにして結婚したから、義両親とは音信不通で、香澄は実の両親とも、昔から仲が悪かった。

「それとも、自分のうちに戻ったの?」

大きいお腹で突然帰ってきた出戻り娘の噂は、実のお母さんの悪口という形で、とっくに近所に知れ渡っている。

「お腹の赤ちゃんも、もうすぐ生まれてくるの、楽しみだね」

この子の父親は、誰だか分からないそうだ。

「今のあんたに、そんなこと関係ないでしょう!」

強引に唇を寄せる香澄から、俺は必死で抵抗する。

「なによ、いいじゃないの、ちょっとぐらい。そうだ、面白いことしてあげようか」

香澄はお腹を俺の腹部に押し当てたまま、両手両足を浮かせた。

「ほら、こうやっても全然お腹潰れないんだよ、風船みたいでしょ?」

お腹の子と、香澄の体重が俺の体にのしかかる。香澄は大声で笑っている。

「潰してやろうかと思ってさ、いつもこれやってるんだけど、なかなか潰れないんだぁ、これが! 案外丈夫なうえに、しぶといよね、このままあんたのお腹の上でふたりとも死んだら、それってもしかして腹上死ってやつ?」

香澄の笑い声は、俺を俺じゃない何者かに変えてしまいそうだ。

「やめろよ!」

お腹をクッションにして飛び跳ねる香澄を、下にして組み伏せた。

「こんなことして、なにが楽しいんだ!」
「楽しいわけないでしょ! あんたのためにやってんのよ!」

二階と玄関から同時に足音がして、千里と尚子が飛び込んできた。

「お兄ちゃん? なにやってんの!」

「和也? あんた、大丈夫?」

突然の女性二人の登場に、俺の腕の中で香澄は叫んだ。

「助けてください! この人が急に!」

俺は、自分の体の下にある香澄を潰してしまわないように、ゆっくりと気をつけて上体を起こす。

「私、突然この人に押し倒されたんです!」

香澄の訴えに、二人は顔を見合わせた。

俺はただ、何も言わずに黙っている。

「うちのお兄ちゃんは、そんなことする人じゃないでしょ」

「和也は、無理矢理女性を押し倒すようなことは、出来ませんよ」

香澄が見上げた先にあったものは、彼女の望むものではなかった。

彼女の平手打ちが、俺の左頬を強打する。

「どいて! 邪魔!」

香澄は出て行った。

こんな形で、俺の初恋が終わりを迎えるとは、思いもよらなかった。

「だって、お兄ちゃんはビビリなんだもん」

「やり方も知らないんじゃない?」

二人の女は、いつも好き勝手なことを言う。

俺は、叩かれた頬に触れてみた。

指の先から、ヒリヒリと痛む。

だけど、そんな痛みよりも、傷ついた思い出の方が、よっぽど痛い。

尚子がため息をついた。

「あんた、あの人のことが好きだったの?」

のれんをくぐって出て行った香澄を、俺は追いかけないといけないはずだった。

「だったら、素直にそう言ってあげればよかったのに」

「導師を探してくる」

「変なの」

店から出て行こうとする俺の背中に、二人の声が突き刺さる。

「どうして、ちゃんと言ってあげなかったのよ」

「なんか今日は変だよ。いつものお兄ちゃんじゃない」

「だから、お前らは嫌いなんだよ」

俺は、導師を探しに行くんだ。

使い古したボロボロのサンダルを引っかけて、店の外に出る。

だって俺は、香澄の好きなお菓子なんて知らない。

本当はただ、外に出たかっただけ、外の空気を吸いに出たかっただけ。

風の吹き抜ける河原の土手の上、今日は、北沢くんにも菜々子ちゃんにも会いたくない。

そのまま家にいて、尚子と千里と言い合いを続ける気もないし、どこか遠くへ行ってしまいたかった。

もう、導師も、魔法使いも、本当はどうだっていいんだ。

俺は、自分の身にふりかかる、数多くの悪事をコントロールしたかった。

自分に起こる嫌な出来事を、自分でコントロールすることができるなら、それは正義の味方とかじゃなくて、悪魔か大魔王のはずだ。

戦って勝てる相手じゃないなら、それをうまく避けるしかない。

大魔王になって、俺は向こうから勝手に飛んでくる悪を、避けたかったんだ。

ついでに回りの人たちもなんて、余計なことは、考えている場合じゃなかった。

導師との修行が進まないのも、自分に焦りがあったのも、結局は全部、自分が助かりたかっただけだし。

今日はもう、なにもしない。

こんな時は、ただ歩くに限る。

どこまでもどこまでも、足の動くかぎり動かして、帰れなくなってもいい、行き着いた先で座っていればいい。

そしたらまた、いつの間にか太陽が昇って、大勢の人がどこかに向かって急ぐ風景を見ながら、自分はやっぱり一人なんだということを再認識する。

分かりきってることを、時々忘れてしまうから、辛くなるだけなんだ。

本当はこのまま消えてなくなってしまいたいけど、そんな度胸もないから、結局はまた何もない家に戻る。

玄関の方から居間に上がると、灯りがついたままの部屋で、尚子と千里が待っていた。
「ちょっと! どこほっつき歩いてたのよ!」

「だからお兄ちゃんも、いい加減、携帯電話持ちなって!」

「なんだよ」

家に帰りつくなり、うるさい女共に囲まれた。

「導師が、車にひかれて倒れてたの!」

何を言われているのか、耳の理解を超える言葉の羅列。

世界が凍りつく。

俺はすぐに、身を翻した。

「どこに行くのよ!」

「あたしとお姉ちゃんとで、もう病院に連れてって、入院させてるから!」

振りむいたら、むっつりとふくれた二つの女の顔。

「外傷はないけど、内臓がどうなってるのか分からないから、今夜は病院で様子みるって」

「明日、お見舞いにいってあげて」

二人からそう言われて、なにも返さず二階へ上がった。

子供の頃から何も変わらない、小さな部屋。

小学生の時から使っている、机と簡易ベッド。

窓から見える景色は、道路脇のすぐ向かいの家の壁に阻まれていて、夜でも明るい空は、視界の三分の一程度。

この家の壁に囲まれて、目が覚めたら世界が変わっていたらいいのにと、何度願ったことか。

幾度となく裏切られても、そう願わずにはいられない。

どうにもならないって、いい加減あきらめらたいいのに。

今日はもう、このまま寝る。

朝になって、臨時休業の張り紙を店の前に出してから、動物病院へと向かった。

「いや~驚きましたよ! カリスマ経営者の荒間尚子と、超人気アイドルの荒間千里が姉妹だったなんて!」

先生は、連絡先が記載されたカルテを指差しながら、「この住所と電話番号であってます?」とか聞いてくる。

なにかあったら、連絡するために必要らしい。

「でも、そう言われてみると、顔とかそっくりですよね、ホントよく似てますよね、やっぱりお姉妹なんだなぁ~」

病院の奥から連れてこられた導師は、ゲージのなかでぐったりと横たわっていた。

「朝イチで検査したので、麻酔がまだ効いてるんです。もう少ししたら元気になりますから、お家につれて帰ってもらって大丈夫ですよ」

命に関わるような怪我はないから、おうちでゆっくり様子をみたのでいいと言われた。

お金は尚子が払ってくれていたらしく、預かり金があるからいらないと言われた。

ぐったりとした導師を抱いて、俺は家に戻る。

空は秋晴れの気持ちのいい空で、土手の上を歩いているうちに、導師はもぞもぞと動き出した。

目は閉じているから、まだ疲れているのだろう。

「ねぇ導師。空がきれいだよ」

むぅ、という小さな鳴き声がして、導師は寝返りをうった。

麻酔はもう、切れたみたいだ。

家にたどり着いて、俺は居間での導師の定位置に、座布団を敷いて寝かせた。

「ニャー」

「どうしたの、導師?」

座布団の上で、ゆっくりとのびをして顔を上げる導師。

導師はこちらを見上げるばかりで、なにも言わない。

後ろあしで、あごの下を掻いた。

「導師、体はどう?」

導師は、目を細めて鼻をひくひくさせる。

「ねぇ、導師ってば」

耳の後ろに手を伸ばした俺に、導師が答えた。

「ニャア」

「ねぇ、なにそれ、ニャアだけじゃ分かんないよ」

導師を膝に抱き上げる。

導師はゆっくりと目を閉じて、また開けた。

「病院はどうだった? なんで車になんか、ひかれたんだよ」

導師は黙ったまま、気持ちよさそうに目を閉じる。

「ねぇ、今日はなに食べたい? 今日だけは、特別に導師の好きなもの作ってあげる」

導師は俺の膝から下りると、首の下を掻いた。

あくびをして、その場にうずくまる。

「ねぇ、導師、なにかしゃべってよ」

「ニャー」

俺は、伸ばした腕ごと、全身が固まった。

「え、なにそれ、ちょっと待ってよ」

もしかして、導師の声が聞こえなくなってる? 

どうしよう、なんで? なにがあった?
俺は、震える手で動物病院の薬の袋を見た。

薬袋には、病院の電話番号がのっている。

導師になにが起こったのか、ちゃんと聞かなくちゃ。

黒電話に手を伸ばしたとき、呼び鈴がなった。

「はい、もしもし」

「病院行った? どうだった?」

尚子だった。

「導師が、導師がしゃべってくれないんだ!」

「は? 導師がしゃべらなくなったって?」

「どうしよう、なんで? なんでしゃべってくれないの?」

自分でも、自分の声が震えているのが分かる。

受話器の向こうで、尚子がため息をついた。

「そ、じゃあ元に戻って、よかったんじゃないの」

「なにが?」

「普通の猫に戻って、あんたも、変な寝言を言わなくなる」

「は?」

「黙ってたけどさ、病院連れて行こうかと、千里と相談してた。あんたが、いつまでもおかしなこと言ってたから」

「魔法使いになりたいって? 導師と修行してるって?」

「……、そう」

もう少しで、わざと受話器を落としてしまいそうだった。

自分がいま、ここで立っていられるのも、不思議なくらいなのに。

腹の底から、嫌な笑いがこみあげてくるのを感じている。

遠くでなにかの、大きな音が聞こえる。

「ちょっと心配してた。でも、導師の声が聞こえなくなったんなら、私は安心したよ」

外から聞こえる音が、家の近くで止まった。

「あんたも色々あって、疲れてたんだと思う。父さんが亡くなってから、ずっと一人でバタバタしてたし。少し休んで、ゆっくりしなさい。導師が無事で、よかったね」

俺は受話器を置いた。

再び鳴りだしたサイレンの音。

それは、香澄が救急車で運ばれていく音だった。

知らせに来てくれたのは、北沢くんだった。

菜々子ちゃんは、学校に来ていないらしい。

ずっと病院で付き添いをしているから、学校には来られないんだって。

そのことをレジの前で聞いたとき、俺は黙ってうなずいただけだった。

「お見舞いとか、行かないんですか?」

「どうして?」

「だって、気になるじゃないですか、どうなってるのか。僕は見に行けないし」

「行っても、しょうがないから」

北沢くんは、やれやれといったかんじで肩をすくめると、すぐに帰っていってしまった。

彼はもう、居間に上がってお菓子を食べたりなんかしない。

導師は隣でずっと毛づくろいをしていて、それが終わったら、丸くなって目を閉じた。

今思えば、恋とか、つき合うとか、何も考えていなかった中学の頃、なんで俺は、あの時、あの場所で、香澄に告白したんだろう。

どうして二人きりで、あの時あの場所にいたのかすら、もう覚えていない。

とても暑かったから、もしかしたら、運動会の練習かなにかだったのかもしれない。

気が強くて、いつもクラスの中心にいた香澄が、一人で座っていた。

俺はなぜか、香澄を探していて、香澄は真っ青な顔で校舎の陰に座っていて、保健室に行こうって誘ったけど、嫌がった。

お腹が痛いって、彼女は泣いていた。

だったら、なおさら保健室に行けばいいじゃないかって言ったのに、うずくまったまま、かたくなにそこを動かなかった。

彼女は何かを恐れ、怖がっていた。

それが何かは分からなかったけど、その時になぜか俺は「君のことが好きだから」って、言った。

彼女はそれを聞いて、笑って、笑って、泣いたんだ。

その時に俺は、本当はどうすればよかったのか、それが分からなくて、ずっと考えてて、多分今でも、そのことを考え続けている。

自分が今でも一人でいる理由が、その全てだなんて思ってはないけど、そこで立ち止まったまま、動けていないのは多分事実。

だから、お腹の大きくなった、変わってしまった香澄が目の前に現れた時に、自分だけが取り残されたような気がして、ますますどうすればよかったのか答えが見えなくなって、ただ一人でずっと悩んでいた自分がバカみたいに思えて、情けなくて、悔しかったんだ。

レジ台から立ち上がる。

俺は、香澄に謝らなくてはいけない。

彼女はきっと、また笑うだろう。

ワケ分かんないって、いつの話しだって、彼女自身も、そんなことがあったことすら、覚えていないかもしれない。

でも、そうしなければ、そうすることが、俺が自分で前に進む、今度こそ、俺が本当に香澄から解放される、儀式になるんだ。

立ち上がった俺を、導師が見上げる。

導師はあれから、一言も声をかけてはくれないけど、多分、頑張れよって、言ってくれてる。

俺は、導師の頭をひとなでしてから、香澄の待つ病院へと向かった。
真っ白い、つるつるの床が続く長い廊下は、何度来ても楽しいもんじゃない。

三人の母と一人の父を看取った俺には、入院病棟なんて、見慣れすぎて気持ち悪いくらいだ。

俺にとっては、そんな記号でしかない。

学校、病院、家と本屋。香澄の部屋は、廊下の一番端っこの、大部屋だった。

カーテンを開けると、ベッドの脇に菜々子ちゃんが座っていた。

ちょっとびっくりしたみたいな顔で俺を見上げて、すぐに椅子を出してくれた。

香澄はぼんやりとした目で、出された椅子に座るまでの俺を、じっと観察していた。

「お見舞いに来た」

「来なくても、よかったのに」

菜々子ちゃんが言った。

「気になったんだ」

「誰が?」

「君が」

菜々子ちゃんとばかり話す俺を、彼女は変な顔で見てくる。

「なにそれ、ヘンなの。うちのお母さんと大人の話がしたかったの? そんな話、するような仲だったっけ?」

俺がにこっと笑ったら、彼女はため息をついて立ち上がった。

「まぁいいよ。洗濯しないといけなかったから。交代して」

まだ小さな菜々子ちゃんは、まだ小さいのに、洗濯をするために部屋を出て行った。

香澄は腕に点滴のチューブをさして、モニターの機械につながれていて、その数値は安定しているみたいだった。

「大きな事故にならずに、よかったね」

「あんたに、なにが分かるの?」

香澄はそう言うけど、俺はこんな風景を、考えてみたら親父の時も含めて、もうずっと見続けている。

「なんとなく、分かる」

香澄はため息をついた。

「何しに来たの?」

「お見舞いに来た」

「来なくてもよかったのに」

そう言った香澄の顔が、菜々子ちゃんのと全く同じで、思わす笑ってしまう。

「菜々子ちゃんと、同じこと言ってる」

香澄はムッとして背を向けたけれども、香澄はここだと怒ったり逃げたり出来ないから、俺にとっては都合がよかったのかもしれない。

「退院したら、一緒に住もう。俺は今でも、君のことが好きだし、出来れば一緒に暮らしたい」

香澄は頭だけ動かして、俺を見上げた。

「は?」

「一緒に、暮らそう」

俺は、笑われると思っていたけど、香澄は笑わなかった。

「いいよ、別に。同情されたいわけじゃないし」

「違う、そうじゃない。本気でそう思ってる。俺の心の準備が、あの時はまだ出来てなかっただけ」

これが俺の謝罪。

なのに、香澄は笑ってくれなかった。

「いらない。退院できたら、また考える」

「分かった」

またフラれた。

だけど、なんとなく俺はうれしくなってしまった。

「毎日、お見舞いに来てもいい?」

「いらない」

「何か、買ってくるものとか、欲しいものはある?」

「別にないよ」

「お腹の子は、男の子なの、女の子なの?」

香澄は今日初めて、ちゃんと俺を見上げた。

「名前、考えておかなくっちゃね」

自分が誰かの名付け親になるなんて、想像もしなかった。

どんな名前にしよう、子供がおおきくなって、なんでこの名前にしたのって聞かれたら、ちゃんとした理由を言える名前がいいな。

「あんたって、本当にバカだよね」

香澄は結局、最後まで笑ってくれなかったけど、代わりに俺が笑っておいたから大丈夫。

二階の部屋を片付けておこう、尚子と千里も追い出せるし、一石二鳥だ。俺にも家族が出来る。

家に帰ってテレビをつけたら、尚子と千里が姉妹だということが、芸能ワイドショーで大騒ぎになっていて、それを見てまた笑った。
その日から、俺は毎日香澄の病院を訪ねて、菜々子ちゃんの代わりに付き添いをする。

菜々子ちゃんは、学校に行けるようになった。

だけど、一番の問題は、お医者さんと話しが出来ないこと。

菜々子ちゃんは未成年だし、俺は他人。

看護師さんは優しいけど、俺と菜々子ちゃんには、何も言わないし、何も教えてくれない。

香澄の体の状態を知っているのは、診察室で話しを聞く、彼女の両親だけだった。

病棟には一度も顔を出したことがないから、俺も見たことがない。

香澄は、出産の予定日が近いこともあって、ほとんどをベッドの上で寝て過ごしている。

菜々子ちゃんは学校から帰ってきたら、宿題と、北沢くんからもらった塾のテキストを、ベッドサイドでやっている。

「お家では、なにしてるの?」

香澄は静かに寝息を立てていて、俺は真剣な顔で問題を解く菜々子ちゃんの、横顔に聞いた。

「大人しくしてる」

「大人しくって?」

「大人しくは、大人しいって意味よ」

菜々子ちゃんは、大人だった。

突然、香澄に繋がる表示モニターが警告音を発した。

あわててナースコールを押すと、ほぼ同時に看護師さんが飛び込んで来る。

「どいてください!」

香澄がベッドごと慌ただしく運ばれていくのを、俺と菜々子ちゃんは、ただ黙って静かに見送った。

「おばあちゃんから、なにか聞いてない? 具合、悪いのかな」

彼女は首を横に振り、ただ前を向いて立っていた。

それからの数日は、俺が面会に行っても、関係者以外は面会謝絶状態で、菜々子ちゃんはうちにも勉強しに来なかった。

一度だけ病院の廊下で、おばあちゃんらしき人と、知らない大人の人と歩く菜々子ちゃんを見かけたけど、俺はあえて声をかけなかった。

邪魔になると思ったから。

彼女はうつむいて、大人しくしていた。

今日の朝も、病院の面会時間前に、店の前を掃いておく。

最近はろくに店も開けていないから、特に掃除する必要もないんだけど、体に染みついた日課なんだから仕方がない。

吹く風が少し冷たくなってきて、導師は建物の陰でうずくまっている。

数枚の枯れ葉と、どこからか飛んできた何かの紙くずを、まとめて片付けておいた。

もうとっくに学校は始まっている時間なのに、ランドセルを背負ったままの菜々子ちゃんが、店の前に立っていた。

「赤ちゃんは、いならいんだって、子供はもう、いらないんだって」

「菜々子ちゃんは、いらない子じゃないよ」

道を掃く、ほうきの手を止める。

「お腹の赤ちゃんは、このままだとお母さんが死んじゃうから、どいてもらうんだって」

菜々子ちゃんはランドセルを背負ったまま、学校に行かずにここに立っている。

「いつ?」

「今日」

「行こう。そんなこと、俺が許さない」

菜々子ちゃんの手を握って、病院へ歩き出す。

あんなに大きくなったお腹の子をあきらめるなんて、おかしいじゃないか。

菜々子ちゃんは、まだ産まれない赤ん坊を、自分と同じように思っている。

だからここへ来て、黙って立っている。

表情を殺した顔で。

それなのに、そんなこと、俺は許さない。
病院に着いたら、香澄は個室に移されていた。

菜々子ちゃんと二人、病院に通い詰めた顔パスパワーで、親族以外は面会謝絶の病室に、無理矢理入り込む。

香澄のお腹は、もうすでにペタンコになっていた。

菜々子ちゃんは、なにも言わずに香澄のベッドサイドに座る。

「お腹の赤ちゃんは?」

「死んだ」

香澄は沢山の管につながれた体で、数本の針が刺さった両腕を、顔の上に置いている。

「死んだの?」

「どーせ助からないし、もういいかなって思って」

香澄がそんなふうにしているから、ここからは香澄の顔が見えない。

菜々子ちゃんは、自分の母親に、自分の兄弟のことを聞いている。

「どーせ邪魔だし、いらないし、出てきても、苦労するだけだから、私が」

病院の個室はとても静かで、親子の会話を邪魔するものはなにもない。

「これ以上、余計なのが増えても、大変でしょ。ついでだから」

「そっか、分かった」

菜々子ちゃんはそう言った。

それで、香澄との話しは終わり。

「そんなこと、聞いてないだろ!」

つい声が大きくなる。

そんなことは、絶対嘘に決まっている。

菜々子ちゃんを一度生んでいるのに、本当にいらないのなら、妊娠が分かったときに、なんとかしてるはずだ。

俺は、そんなことは、聞いてないんだ。

菜々子ちゃんも、本当に聞きたかった話しじゃないはずだ!

「じゃあなんで、名前考えようって、言ったの?」

香澄の腕が顔の上から下ろされたとき、サイドテーブルに指先が少しぶつかった。

そこから積み上げられた紙の山が、バサリと落ちる。

「俺は、一緒に住もうって言ったし、名前も考えようって言ったのに!」

「あんたの子供じゃないんだし、なんであんたに指示されないといけないのよ!」

拾い上げたその紙は、いろんな手術や検査の同意書で、香澄は、そこに何一つ了承のサインをしていなかった。

「ねぇ、これ、どういうこと?」

「あぁ、余計なことしたら、お金かかるでしょ、だから。しないの」

香澄は笑って言う。

「便利だよねー、本人の意志がないと、検査のひとつも出来ないんだってさ」

その笑った瞳から頬に伝うしずくは、本人の意志とは無関係に出てくる汗みたいなものだから、香澄にもきっと、どうしようも出来ないんだと思う。

「さっさと退院できたら楽なんだけど、病院以外で死ぬと、それはそれで厄介みたいで」

「結婚しよう。俺、今から婚姻届け、持ってくる」

「はぁ?」

「そしたら、お前もお腹の子も菜々子ちゃんも、俺のものになる」

「なるわけねーだろ、バカ!」

香澄なんかの声は無視して、廊下を走る。

急いでたら、看護師さんに走らないで下さい! って怒られたけど、後で謝っておくから平気。

このすぐ近くに区役所があるから、そこから勝手に婚姻届けを取ってくればいい。

それにサインして出してしまえば、誰だって家族になれるんだ。

役所に着いたら、引っ越しとかの住所変更と、戸籍抄本や印鑑証明の用紙と並んで、婚姻届けがおいてある。

やろうと思えば、こんなにも簡単にできるんだ。

俺は取り出した一枚の婚姻届けに自分の名前を書いて、一度うちに戻ってはんこを押した。

それから病院に返って、香澄に書類を渡す。