「またさ、菜々子、ここに来てもいい?」

香澄さえいいのであれば、俺に異論はない。

「勉強してたんだってね、本気で? 女の子が勉強したって、なんにもなんないのにね」

香澄は笑っている。ただ、声を出して笑っているだけ。

「ねぇ、菜々子の勉強、またみてくれる?」

「いいよ」

「そ、よかった」

彼女はそれだけを言って、朝日のなかで手を振った。

「じゃあ、菜々子が帰ってきたら、そう言っとくから」

菜々子ちゃんは、ここで勉強することを、どう思っているのだろう。

お母さんのこと、好きなのかな。

聞きたいことが、沢山あった。

言いたいことが、山ほどあった。

それを何一つ出来ないでいるのは、自分に勇気がないから、とは、思っていない。

午後になって、菜々子ちゃんは本当にやってきた。

「お母さんに、行ってこいって、言われたの」

「うん」

「入ってもいい?」

「うん」

菜々子ちゃんは、ちゃんと勉強道具を持ってきていた。

「こないだうちにいた俺の姉ちゃんがね、菜々子ちゃんに、プレゼントだって」

尚子が買った、参考書と問題集。本棚の低い所にいれておいた。

その隣には、北沢くんが持ってきた、塾の問題集。

彼女は、黙って塾のテキストを手にとった。

「やっぱり、本屋さんで売ってる問題と、塾の問題って、違うね」

その、汚い字で書き殴られた、所々に涙で濡れたような跡と、破れたページがあるテキストは、北沢くんの戦いの痕跡。

「私ね、お母さんから、あの女の人の話、聞いた」

菜々子ちゃんは、北沢くんのテキストの、最初のページを開いて置いた。

「うちのお母さんは……、わ、悪口みたいなこと言ってたけど、私は違うと思う」

菜々子ちゃんは、うつむいていた顔を、まっすぐに俺に向けた。

「今の私には、勉強以外出来ることがないから、勉強するね」

彼女の小さな手が、本のページをめくる。

導師は、縁側からじっと菜々子ちゃんの様子を見ている。

俺は邪魔をしないように、そっとその場を離れて、店のレジに座った。

多分どこかのブランドの子供服で、だけど相変わらず体には擦り傷が絶えなくて、きっと彼の両親は、北沢くんのつくる傷は、腕白でやんちゃな元気の証拠だと思っていて、それが悪意のある誰かによって、わざとつけられた傷であることは、本人にも言うつもりが無い。

そんな北沢くんがやってきて、遠くからこっそり店の中をのぞいている。

「お菓子あるのに、入ってこないの?」

「あいつ、来てます?」

彼はいつものように、居間に飛び込んだりせずに、ゆっくり歩いて店の中に入ってきた。

「勉強してるよ。君の持ってきたテキストで」

北沢くんの目は、居間へ上がる段差のところに並べられた、小さな靴しか見ていない。

「あ、本当だ! じゃあ上がらせてもらいますね」

居間の方からは、すぐに言い争う二人のにぎやかな声が聞こえてきて、しばらくするとその声は大人しくなったから、ちゃんと二人で勉強を始めたんだと思う。

導師がやってきて、俺の膝に座った。

「やれやれだな」

俺は、導師の頭を掻いてやる。

「ねぇ導師、菜々子ちゃんってさぁあー……」

「うちの菜々子がどうしたって?」

顔を上げると、買い物袋をぶら下げた香澄が立っていた。