彼女は、俺が唯一心を寄せた女性は、名を藤崎香澄といった。

「わー、なつかしい! この本屋、まだ潰れてなかったんだね」

彼女はクスクスと笑って、店の中をのぞき込む。

「菜々子の言ってたこと、本当だったねー」

彼女は、俺の顔をちらりと見ただけで、すぐに視線を尚子に移す。

「はー、お姉さんが出来たって言ってたけど、本当にあの有名人の荒間尚子だったんだ。まぁ、あの頃は、たいしたもんじゃなかったけど」

大きなお腹をして、香澄は足元に転がる紙切れを、どうでもテキトーに蹴飛ばした。

「おもしろーい」

「お母さん!」

菜々子ちゃんは、香澄の腕にしがみつく。

「ここの本屋さん、知ってるの?」

「えぇ?」

香澄は、思い出したように笑って、俺を見上げる。

「まぁ、ね」 

そう言って、香澄はまた笑った。

「ほら、帰るよ」

大きなお腹で左手に買い物袋を持ち、右手には菜々子ちゃんをぶら下げて、香澄は去っていく。

「なにあの女、かんじ悪くない?」

「別に、かんじ悪くないよ」

肩までのまっすぐな黒髪に、細い目。

それは、彼女の気の強い性格そのものだった。

中学三年生、初めて同じクラスになって、一目で恋に落ちた。

胸の奥が痛む。

「お腹すいた。ご飯食べよう」

彼女の姿を見ただけで、簡単に十五年前に戻ってしまう。

そんな自分を知られたくなくて、すぐにのれんをくぐるふりをして、尚子に背を向ける。

「知り合いなの?」

「同級生」

「あの女、かんじ悪い。あんな女にひっかからないでよ」

「ないって」

それだけを答えることすら、精一杯だった。

俺の背中で、尚子は好き勝手なことを言う。

「ま、妊婦さんみたいだし、あんたなんか、相手にする必要もないと思うけど」

膨らんだお腹。

俺には、そのことがとても悲しくもあり、同時にうれしくもあった。

彼女は今、幸せにしているんだろうか。

「同じ、同級生と結婚したんだ」

「へー。それも知り合い?」

「うん、まあね」

台所に向かった俺に、尚子は呆れたように言う。

「ちょっと、失恋したみたいになってんじゃないわよ」

「失恋じゃないし」

「好きだったんだー、まだ忘れられないとか?」

「何年前の話だよ」

「だから、新しい恋愛が出来ないとか言わないでよね。ま、あんたの場合、それ以前の問題だけどねぇ」

悪いけど、そんな話は、今はできない。

包丁を握る手に、思わず力が入る。

「ちょっと、そんなことよりお店のことだけど、いくら客がいないからってさ……」

「お前こそ、テキトーに男変えて、ちゃらちゃらチャラチャラ遊んでんじゃねーよ! お前に恋愛の話しされても、俺は何とも思わないからな!」

「なに言ってんのよ」

「また雑誌で話題になってただろ、いいかげんにしろよ」

尚子は笑い出した。

俺はとっさに、話題を変えることに、成功した。