そのあまりの美しさに圧倒されて、口を開けたままずっと見上げていたら、その白猫は、ひらりと舞い降りた。

「そなたが、禁欲を貫いたものか」

「まぁ、そうなんですけどね」

「恥ずかしがることはない」

俺が居心地の悪そうにしているのを見て、白猫が言った。

「かつて、幼き頃より修行を積むために預けられた子供たちは、皆そうであった」

白猫は、地面に腰を下ろして座っても、俺の膝丈くらいの大きさはある。

「まぁ、預けられた全ての子供がそうであったわけではないが、今ほど珍しいわけでもない」

「はい、ありがとうございます」

きっと、最初に俺の前に現れた魂の指導者が、こんなきれいな猫だったら、もっとあっさりきっぱり簡単に信用してただろうな。

その優雅な動きや体つきを見ているだけで、魂の全てを奪われてしまいそう。

「私は魂の指導者!」

聞き慣れた、しわがれ声に振り返る。

「久しぶりだな」

焦げ茶の老猫の登場に、白猫の表情がゆるんだ。

「お久しぶりです」

「本当に導師の知り合いなの?」

導師は俺を見上げて、『黙ってろ』という顔をした。

多分だけど。

「今は、導師と呼ばれているのですか」

「私が見つけた弟子だ」

白猫は、ふさふさとした長い尾をゆらして、俺に言った。

「あなたは、童貞を卒業したくはないのですか?」

「えっ?」

「これは、性行為のことだけを言っているのではありません。童貞とは、童のように貞淑、つまり身も心も純粋であるという意味。魔法使いになるのもいい、けれど、わざわざ厳しい道を選ばなくても、得られる幸せはあるということを、あなたに伝えに来たのです」

「なにそれ! そんなの、聞いてないし!」

導師は、後ろ足で首の後ろをぽりぽりと掻いた。

「魔法使いになんてならなくても、幸せに暮らしている人はたくさんいます。あなたは、その一人になれる資格を、充分にお持ちだ」

「それは、普通の幸せってことですか?」

白猫は、ふふふっと笑った。

「あなたの思う普通の幸せとやらが、どのような幸せだか私には分かりませんが、普通に恋をして結婚して家庭を持ち、穏やかに過ごす毎日のことです」

俺の今の状況では、それ自体がどこかの遠い、魔法の国の出来事みたいに思える。

「でも、独身でだって……」

「えぇ、もちろん独身でも幸せな毎日を過ごす方もいます。これは、例えのお話です」

白猫は、長く美しい毛を風に泳がせている。

「修行、お好きですか? 厳しい修行に関係のない、幸せな未来もあるのですよ」

「修行しなくても、いいの?」

「えぇ」

「そ、それなら、そっちの方がいいかも……」

俺は、足元にいる導師を見下ろした。

導師は大きなあくびをしている。

「導師は、引き留めたりしないの?」

「選択権は、常に選択すべき者自身に与えられていて、その決定に対して、誰も干渉することは出来ない」

「自分で決めろって、こと?」

「そ」

「冷たいなぁ、導師は。こういう時にこそ、魂の指導者の出番なんじゃないの?」

「関係ないね」

導師は丸くなってうずくまる。

「よほど、自信がおありのようだ」

「何に対して?」

「あなたに対して」

白猫は、とってもとっても優雅に微笑む。

「私の役目は、魔法を行使しようとする者の、負担を和らげること」

白猫は、俺を見上げる。

「魔法を修得する修行をつみ、それを行使することは、大変な危険と負荷を伴います。それでも修行を続けますか? 魔法が使えなくとも、あなたは充分幸せになれる」

導師は動かない。

俺を魔法使いにならないかと誘ってくれた導師は、どんなつもりで俺の前に現れたんだろう。

その気持ちが、知りたいと思った。

「ありがとう。でも、俺はやっぱり、魔法使いになりたいんだ」

「そうですか」

俺は、足元の導師を抱き上げる。

「どうしても、使いたい魔法があるからね」

導師は、腕の中であくびをした。

白猫は、そよ風に吹かれながら笑う。

「それは頼もしい」

「用が済んだら、帰れ」

気がつけば、白猫は再び鳥居の上に跳び上がっていた。

「あなたが、あらゆる試練を乗り越え、幸せな魔法使いになれることを祈っています」

真っ白な美しい猫は、そのままぴょんと跳ね上がると、どこかへ走り去っていった。

すっかり冷たくなった、秋の風が吹く。

「綺麗な猫ちゃんだったなぁ~」

「ふん、毎度のことだ。いつもそうやって、あいつらは邪魔をしにくる」

家に向かって歩き出した俺は、導師を抱えたまま笑った。

「ねぇ、どうして導師は、俺を選んでくれたの?」

「偶然、通りかかっただけだ」

「はは、でも、最強の弟子になれそうだったんでしょ」

「……、まぁな」

「じゃあさぁ、もうちょっと真面目に修行してよ、俺、本気で大魔王目指してんだからね」

「やかましいわ」

導師の体温が、腕に伝わってあたたかい。

「なんでもない日々を丁寧に生きて行く。それが何よりも、一番の修行なのだ」

そんなことを平気で言っちゃう導師の横顔は、なんかちょっとかっこよく見える。

「お前になら、それが出来る」

夕方になって、少しは人通りの出てきた商店街の入り口、本屋の店の方からのれんをくぐる。

「ただいま~」