日曜日の朝、俺はひとまず病院に向かった。
病室では、美乃が診察を受けていた。


「……うん、大丈夫みたいだね。だけど、無理は禁物だからね? 薬も飲み忘れないように気をつけて。じゃあ、今日は楽しんでおいで」

「本当に良かったわね、美乃ちゃん。楽しんできてね!」


菊川先生と内田さんに言われ、彼女が満面の笑みで大きく頷いた。


「よかったな、美乃。これでイルカに会えるぞ!」

「うん! 早く準備しなきゃ!」

「まだ時間はあるだろ?」

「女の子は色々と準備があるのっ!」


ふたりが病室から出ていくと、美乃は慌ただしく準備を始めた。


「美乃ちゃーん!」

「広瀬! 早くないか⁉」

「美乃ちゃんの準備を手伝いに来たのよ! 飛び切り可愛くならなきゃね! はいはい、男は出ていって!」

「えっ? あっ、じゃあ、あとで迎えにくるから」


追い出される羽目になった俺は、苦笑しながら病室を後にした。
それから適応に時間を潰し、約束の時間よりも少し早く病院に行った。


「入るぞ〜」


逸る気持ちを抑えながらノックをしてドアを開けると、ワンピース姿の美乃がいた。
ブラウンのロングブーツを履き、白いカーディガンを着ている。
ワンピースは淡いピンクで、ふとあの時の桜色のリボンを思い出した。


「美乃ちゃん、すっごく可愛いでしょ⁉」

「さっすが俺の妹だな!」


広瀬と信二がニヤニヤしながら、奥から出てきた。
彼女に見入っていた俺は、ハッとして我に返る。


「ああ、可愛いよ」


ストレートの黒髪を軽く巻いて薄くメイクをした美乃は、頬を赤らめながら照れ笑いをしていた。
思わずキスしたくなったけれど、信二と広瀬がいるから仕方なく諦める。


「じゃあ、行くか」


信二の言葉に頷き、俺たちはナースステーションで内田さんに声を掛けてから駐車場に向かった。

車に乗り込むと、美乃の好きなアーティストの音楽をかけた。
後部席では、信二と広瀬が楽しそうに話している。
デッキから流れる曲が、俺たちの気持ちを盛り上げる。


「いっちゃん、今日は眼鏡なんだね。視力悪いの?」

「ああ……。運転する時だけ掛けてるんだよ」


俺は、少しだけ視力が悪い。
普段は差し支えないし、眼鏡は嫌いだからできれば使いたくないけれど、コンタクトが合わなくて仕方なく眼鏡を掛けている。


「いっちゃん、眼鏡似合ってるよ!」

「……そうか?」

「うん! 萌えちゃう!」

「はぁ? なんだよ、それ」

「萌え〜だよ!」

「ますます惚れたってことか?」

「それは前からだよ」


こんなやり取りで幸せになれる単純な俺は、美乃の言葉で眼鏡を掛けた自分がそんなに嫌いじゃなくなった。


「おい、前のふたり! イチャイチャするなよ!」


広瀬と話していた信二が、突然後ろから身を乗り出した。


「危ないだろ!」

「俺から可愛い妹を奪っといて、なぁーにが『ますます惚れた?』だよ! このヤンキーめ!」

「なんだよ、ヤンキーって!」

「親父がそう言ってた!」

「はぁ⁉」

「うん。パパは、『茶髪はヤンキーだ』って言うの!」


美乃がその時のことを思い出すように、クスクスと笑う。


「えっ……」

「染井は茶髪にピアスだから、完全にアウトだよね〜!」

「パパがありえないんだよ! 今時、茶髪くらいでヤンキーなんて……」

「そうだよなー! それじゃあ、世の中ヤンキーだらけになるし」


美乃と信二は呆れたように笑い、広瀬も後ろで楽しそうに笑ってたけれど、俺は不安になった。
美乃の両親にはいつも気遣ってもらっているけれど、本心ではあまり印象がよくなかったのかもしれない。

美乃も信二も、髪は黒い。
信二なんてふざけた性格でバカなことばかり言っているけれど、実はそれなりの企業に勤めているサラリーマンだ。


俺は特別派手じゃないけれどかなり明るめの茶髪で、最近はどちらかというと金髪に近い。
それに、耳には三つのピアス。
右には二つで、左には一つ。


その上、職業は鳶だから仕事でツナギを着ている時は、結構ヤンキーっぽく見えるのも自覚している。
普段の服はそうでもないとはいえ、周りからは派手に見えるのかもしれない。
ここまでを総合すると、美乃の父親から見た俺は完璧なヤンキーの部類だろう。


「やばいな……」

「いっちゃん、なにがやばいの?」

「え? いや、別に……」

「やばいって言ったじゃない!」

「なんでもないから!」


独り言だった言葉を拾われてしまい、必死に冷静を装う。
本当のことを口に出すのが恥ずかしくて、咄嗟に笑みを繕った。


「もう! 言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ!」


「そうだぞ、染井! 我慢はよくない!」

「ちゃんと言って?」


広瀬と信二が後ろから口を挟み、美乃は心配そうに俺を見ている。
仕方なく、深呼吸をしてからゆっくりと口を開いた。


「だから……やばいんじゃないか、って思ったんだよ」

「なにがやばいの?」

「俺……印象悪そうだろ……」


そう付け足すと、みんながようやく察したらしい。
直後には、三人ともお腹を抱えて笑い出した。


「ありえねぇ! 染井がそんなこと気にするキャラかよ!」

「可愛いとこあるじゃない!」

「うるさいっ! ああ、もうありえねぇ……。だから言うのが嫌だったんだよ! てか、お前ら降りろ!」


笑い過ぎて涙を浮かべている信二につられるように、広瀬もケラケラと笑っている。
後ろで笑い続けるふたりを、ルームミラー越しに睨んだ。

「ありがとう、いっちゃん」

「……お前もさっきまでバカにしてただろ」

「だって、おかしかったんだもん! いっちゃんは周りを気にしないのに」


信号待ちで俺の顔を覗き込んできた美乃に、眉を小さく寄せる。
彼女の顔は明らかにまだ笑っていて、俺は悪戯心が芽生えた。


「じゃあ、今ここでキスしてくれたら許す」

「えっ⁉ 今⁉」

「嫌ならいいけど」


戸惑う美乃を見て、拗ねた振りをしながら視線を逸らす。


「待って、いっちゃん!」


すると、彼女がすかさず横から俺の首に手を回して、左頬に唇を寄せた。


「あぁーーーっ‼」


後ろから大声で叫ぶ信二と広瀬と、俺の隣で少しだけ俯く美乃。
そんな三人を余所に、俺は突然の出来事に顔を真っ赤にしてしまった。


からかうつもりが逆に墓穴を掘ってしまい、後部席のふたりにますますからかわれる羽目になった。
車内での出来事ですっかり疲れてしまった俺は、水族館に着いたばかりなのにぐったりとしていた。


「大丈夫かよ?」


心配しているような口調とは裏腹に、信二の顔はまだニヤニヤしている。
もう怒る気にもなれなくて、美乃を連れて水族館に入った。


「わぁー! すっごく綺麗! 海の中にいるみたいだね」


興奮する彼女を見ていると、疲労感が吹き飛んでいく。
俺の隣で嬉しそうにはしゃいでいる姿は、普通の女の子そのものだった。


「よかったね、美乃ちゃん」


信二と広瀬も、嬉しそうにする美乃に目を細めている。
彼女を見ながら微笑む広瀬から視線を逸らした信二は、急に改まったような表情で俺を真っ直ぐ見つめ、おもむろに頭を下げた。


「本当にありがとな、染井」

「なんだよ、急に!」


冗談半分な言い方をしたけれど、信二の気持ちはわかっていた。
だから……なんだか、無性に切なくなってしまった。

俺たちは別行動を取り、二時間後に館内にあるレストランで待ち合わせることになった。
俺と美乃は手を繋ぎ、幻想的な水族館の中をゆっくりと歩いた。


一面水槽の部屋でたくさんの魚に囲まれながら、彼女はずっと笑っていた。
楽しい時間が流れる。
それはまるで、どこか他の世界に引き込まれてふたりで遠い国に来たような、幸せで切ない錯覚だった。


このまま時間が止まってくれればいいのに……。


水槽を眺める美乃を見ながら、本気でそう思った。
そして……彼女も心のどこかで、それを望んでいたんだろう。


「このままずっとここにいたいなぁ……」


水槽を眺めながら微笑んだ美乃が、まるで無意識かと思わせるくらい自然とそう呟いた。
楽しそうな彼女の胸の内に触れた瞬間、嬉しさと切なさに挟まれて胸の奥が締めつけられる。
水槽で泳ぐ魚たちが急に悲しげに見えて、不覚にも泣き出してしまいそうになった。


「ねぇ、いっちゃん……。この魚たちはどこから来たのかな?」

「ん? 海だろ?」


美乃の可愛い問い掛けに、冗談めかして答えた。


「もう! そういうことじゃなくて!」

「わかってるよ。……こいつら、どこから来たんだろうな」

「こんな水槽の中で、どんな思いしてるのかな?」

「本当は海に帰りたいのかもしれないよな……」

「えっ⁉ どうして?」


俺が苦笑を零すと、彼女が不思議そうな顔をした。


「いや……。こいつらだって、本当は広い海で泳ぎたいんじゃないかと思って……」

「そうかな? 案外、そんなことないかもしれないよ?」


ごく普通に言い切った美乃の言葉を、どう捉えればいいのかわからなかった。


「美乃こそ、どうしてそう思うんだ?」


彼女は水槽にそっと触れ、ニッコリと笑いながら俺を見た。

「価値観の問題、かな」

「価値観?」

「うん、考え方の問題だよ。この子たちは望んでここに来たわけじゃないんだろうけど、ここの暮らしもそんなに悪くないかもしれないでしょ?」


そう言われても納得できず、俺を見ている美乃に素直に頷けない。
彼女はクスッと笑って、そのまま話を続けた。


「だって、海は広過ぎてどっちに泳げばいいのかわからないし、もしかしたらどこかで仲間とはぐれてひとりぼっちになるかもしれない……。サメに襲われることもあるかもしれないし、夜の海は真っ暗で、きっと恐いんじゃないかな。それにね……」

「うん?」

「ここにいれば、みんなが会いにきてくれるでしょ?」


それは以前、しばらく絶対安静を強いられて外出許可が出なかった時に、美乃が口にした言葉だった。
あの時の彼女のことを思い出し、胸の奥が少しだけ痛む。


美乃は、魚たちと自分を重ねてる……?


俺の不安を余所に、切なさを孕んだ予想はいい意味で裏切られた。


「ここは海とは違って狭い空間かもしれないけど、ここにいればたくさんの人に出会える。広い海で泳ぐことはできなくてもたくさんの仲間たちといられて、きっと寂しくないと思う。ここにいても、海の中の世界を見ることはできるんだよ」

「そうだな」

「うん! 私も、いっちゃんに会えたんだもん!」

「え?」

「水槽の中だけでしか泳げなくてもね」


首を傾げた俺に、柔らかい笑みが向けられる。


「私ね、ずっと入院生活ばっかりでつらかったけど……。神様がいっちゃんを連れてきてくれたから、今までのことはチャラになっちゃった」


美乃は幸せそうに微笑んだかと思うと、俺に勢いよく抱き着いた。
ただ単純に嬉しくて可愛くて、俺は彼女顔を上げさせてそっとキスをした。


唇を離すと、美乃が照れ臭そうにしながら顔を上げ、俺の頬に口づけた。
俺と彼女は微笑み合い、また優しいキスをした。


ふたりだけの甘く優しい雰囲気の中で、俺たちはずっと笑い合っていた――。

そのあとも、俺たちは水族館の中を手を繋ぎながら歩いた。
美乃は持って来たデジカメで、俺の写真を何枚も撮った。


「俺ばっかり撮るなよ……」


写真が苦手な俺は、ため息混じりに笑う。
カメラ目線のものはないけれど、俺だけ撮られるのは照れ臭いし、なによりもどうせならふたりで写りたい。


「せっかくだから、ふたりで撮ろう」

「でも……」


戸惑うように眉を下げた彼女からデジカメを取り、近くにいた人に頼んだ。
「いきますよー!」という声に合わせ、デジカメが光を放った。


お礼を言ってからデジカメの履歴を確認すると、小さな画面の中には水槽の前で俺の隣に立って優しく笑い掛ける美乃がいた。
別に写真なんて特別なことじゃないのに、すごく嬉しかった。


彼女に「これは絶対に消すなよ」と念を押し、ふと時計を見ると約束の時間が迫っていた。
俺たちは、そのまま待ち合わせ場所に向かった。


出口の少し手前にあるレストランに行って中に入ると、信二と広瀬は先に来ていた。


「ごめん、遅くなった!」

「いや、俺らも今来たとこだよ」

「楽しかった? 美乃ちゃん」

「うん! 魚になって海を泳いでるみたいだったよ!」

「美乃は魚じゃなくて、人魚だよな〜!」

「はぁ? アンタはまたバカなこと言って……」

「由加はサメだよな……」

「信二……。お望みなら、水槽の中に閉じ込めてあげようか?」


広瀬は、いつものように信二を睨んだ。
俺と美乃は、ふたりの痴話喧嘩を笑いながらを見ていた。


「あっ、薬飲まなきゃ!」


不意に彼女が薬を取り出し、それを順番に飲んでいった。
菊川先生との約束は、夕食までに病院に戻ること。
俺は時計を確認したあと、重い口をゆっくりと開いた。

「そろそろ病院に戻ろうか」

「そうね」

「充分楽しんだもんな!」


俺が促すと、広瀬と信二が楽しい雰囲気を壊さないように気遣ったのか、明るく頷いたけれど……。美乃だけは、黙って俯いてしまった。


「……帰る前に訊きたいことがあるの」


それから程なくして、彼女が真剣な眼差しで切り出した。


「どうしたの?」


広瀬に微笑まれ、美乃は少しだけ迷ったあとで言い難そうに口を開いた。


「あのね、前から思ってたんだけどね……。ふたりは……結婚、しないの?」

「急にどうしたんだよ?」

「そうよ、突然どうしたの?」


彼女の雰囲気から深刻な話なんだろうとは思ったけれど、予想外の言葉だった。
驚きながら訊いた信二に続いて、同じような様子の広瀬が笑う。


「だって、ふたりは高校の時から付き合ってるのに、全然そんな話をしないじゃない。だから……もしかして私のせいかな、って……」


小さく話した美乃が、悲しげに眉を寄せた。
信二と広瀬は困惑していて、言葉を探しているようだった。


俺達は、今年で二五歳になる。
男の信二はともかく、女の広瀬なら少し早いかもしれないものの“結婚適齢期”とも言えるだろう。


俺は今まで結婚したいと思った事はないし、そんな相手もいなかったけれど、信二と広瀬は違うだろう。
もうずっと一緒にいるし、この先もきっと一緒だと思う。


もし、ふたりの結婚に障害になる事があるとしたら、たぶん美乃の事だ。
なにも答えないふたりを見て、そんなことを考えてしまった。


しばらくして口を開いたのは、広瀬だった。


「私は信二が好きよ。今までずっと一緒にいたし、これからも一緒にいたいと思ってる。信二以外の人といる自分なんて、全然想像できないしね……。でも……結婚ってなると、やっぱり違うんだ」

「どうして? なにが違うの?」


小さく紡いだ美乃に、広瀬は小さく笑った。

「タイミングがね、よくわからないのよ……」

「タイミング……?」


美乃は、不思議そうに小首を傾げた。


「私はもうすぐ二十五になるけど、まだまだ中途半端な位置なの。やっと今の仕事に慣れて、自分のやりたいことがわかってきた。だからこそ……今、結婚すると仕事を続けられるのかとか、色々考えちゃうのよ」


ため息を零した広瀬が、困惑を含んだ笑みを浮かべる。


「女にとって、今はすごく迷う時期なのかもね……。私はできれば仕事を続けたいし、信二もそれは賛成してくれてる。だけど、まだ自分に自信が持てないから、今は保留にしてもらってるの」


広瀬が一気に話すと、美乃が口を開いた。


「……私のせいじゃない?」

「それは絶対にない! 結婚は私たちのタイミングだもん。さっきもそのことを話してたのよ」


広瀬は、おもむろに左手を自分の顔の横で見せた。
彼女の薬指には、小さなダイヤが埋め込まれたプラチナリングが光っていた。


「それって……エンゲージリング⁉」


目を見開いた美乃に、広瀬がゆっくりと頷いた。


「今、ここでもらったの」


今まで黙っていた信二も、笑顔で美乃を見た。


「だから心配すんな! 結婚式にはお前らもちゃんと招待するから、絶対来てくれよな」

「うんっ……!」

「なんだよ、信二! ちゃっかりプロポーズしたのかよ! 来る時は、散々俺の事をからかってたくせに!」

「あの時は緊張して、落ち着かなかったんだよ! 振られたらどうしよう、って……」

「バーカ! 何年あたしと一緒にいるのよ!」


からかう俺に信二が情けなく笑い、広瀬が呆れたように信二の頬を抓った。


「じゃあ、そろそろ帰るか」


少しだけ照れ臭そうな信二に続いて、俺たちは水族館を後にした。
美乃はふたりの話を聞いて安心したらしく、笑顔で俺の腕にくっついていた。