沈黙が続いたあと、再び広瀬が口を開いた。


「美乃ちゃんのこと、好きなの?」


あまりにも突然過ぎる質問に、目を見開いて戸惑った。


「あいつは……妹みたいなもんだよ」


いつものように答えたけれど、明らかに動揺していた。
広瀬は、そんな俺の態度を見逃さなかったんだろう。


「さっき、パニックになってたじゃない。あんな染井、初めて見た……」


確かに俺は常に冷静なタイプだし、性格もどこか冷めている。
それなのに、さっきは本当に動揺したし、正直に言うと今もまだ平静を取り戻せないままで、あれからずっと不安が消えない。


「それに美乃ちゃんといる時は、本当に楽しそうにしてるじゃない」


核心を突かれた、と思った。
それは、自分自身でも感じていたことだったから……。


俺は美乃といる時がなによりも一番楽しかったけれど、それは彼女のことを妹のように可愛がっているからだと思っていた。
だけど、勝手にそう思い込んでいただけで、本当は違ったのかもしれない。


美乃が好き……?


自分自身に問いかけてみたけど、結論は一向に出ない。


「私の勘だし、違うなら別にいいんだけどね」


広瀬にそう言われても、美乃への気持ちを否定することはできなくて……。

「わからない……」

代わりに、そんな正直な気持ちが口から出た。


「私は、ふたりが付き合うといいなって思う。でも、美乃ちゃんはたぶんそれを望んでないのよ。美乃ちゃんは……恋愛を避けてるから……」


悲しそうに微笑む広瀬が、俺の瞳を真っ直ぐ見つめた。


「もうひとつ、これも勘だけど……」

「なんだよ?」


戸惑うように言葉を止めた広瀬を促すと、彼女は一呼吸置いたあとで小さく笑った。


「美乃ちゃんは、染井のことが好きなんじゃないかな……」

「え……?」


言葉の意味を理解するまでに、数秒を要した。


美乃が俺を好き……?


ソメイヨシノの話をした時、俺が感じたこと。
それを広瀬から言われたことによって、心臓がさっきまでよりも大きく脈打ち始める。


一度は、自分も感じた。
だけど、今日の美乃の様子を見て、やっぱり気のせいだったんだと思った。
どちらが本当なのかはわからないけれど、少なくとも広瀬の見解は俺と同じらしい。


そのあと、広瀬はそのことについてはなにも触れてこなかったけれど、彼女の話はもう耳に入ってこなかった。
つんざくような蝉の鳴き声が、随分と遠くで響いていた―――。

*****


翌日、仕事を終えてから病院に向かった。
まだ自分の気持ちに結論を出せていなかったけれど、そんなことは言っていられない。


昨日はあのまま広瀬と別れ、ひとりで飲みに行った。
酒には強いのに今日は二日酔いで頭痛がするし、昨日のことを考えるとますますその痛みがひどくなったけれど、美乃が心配で仕方なかった。


仕事中も何度もぼんやりして、現場監督の三島(みしま)さんに散々怒られてしまった。
俺は滅多に注意されることがないし、三島さんには働き始めた頃からずっとお世話になっているから、挙げ句の果てには怪訝な顔をされたほどだ。


病院に着いて中に入ると、すぐに信二と広瀬の後ろ姿が見えた。


「信二!」


思わず大声を出してしまった俺に、信二がいつものように笑って見せる。


「おう、染井! 昨日はありがとな」

「美乃は?」

「もう大丈夫だ。病室も元の場所だよ」


病室に入ると、ベッドの上で窓の外を見ていた美乃が振り向いた。


「調子はどうだ? 大丈夫か?」

「うん。あの、心配かけてごめんなさい」


信二の質問に頷いた美乃は、俺と広瀬を見ながら申し訳なさそうに眉を下げた。


「謝らなくていいのよ。私の方こそ、気がつかなくてごめんね。もっと早く病院に戻ればよかったね」


美乃は首を小さく横に振ったあと、俺を見ながらいつものように笑った。


「びっくりしたでしょう?」


俺はなにも言えなくて、ただ黙って彼女を見つめていた。

「いっちゃん……?」

「おい、どうしたんだよ?」

「染井?」


三人から口々に話しかけられた俺は、頬を伝う雫に気づいて右手でそれを拭った。
美乃の笑顔にホッとして、彼女が無事だったことに安心し、気が抜けたのかもしれない。


直後、自分が泣いている理由を理解した。


「美乃が好きだ……」


そのことに気づいたのと同時に、自覚したばかりの想いを伝えていた。
信二と広瀬はただ呆然としていたし、それはもちろん美乃も同じだった。
彼女は照れるわけでもなく、ただ目を丸くして言葉にならないみたいだった。


ただ……この時、一番驚いていたのは、間違いなく俺自身だ。


自分の気持ちに気付いた瞬間、言葉にしていたなんて。
ましてや自分から告白をするなんて、今までの俺なら絶対にありえないことだった。


だけど、今言わないと一生後悔するような気がした。
俺の前から、美乃がいなくなってしまうような、そんな嫌な予感がしたんだ。


長い長い沈黙を最初に砕いたのは、他の誰でもない彼女だった。


「それは同情?」


美乃は、今までに見たことがないような冷たい眼差しで俺の瞳を真っ直ぐ見つめている。


「違う、愛情だ」


俺も彼女の瞳を真っ直ぐ見つめ返し、きっぱりと答えた。
たった今気づいた想いだけれど、俺にはもう迷いはなかった。

美乃の傍にいたい。
彼女を支えたい。
今までに感じたことのない、真剣で強い想い。


俺は視線を逸らさずに、ずっと美乃を見ていた。
隣にいる信二と広瀬は、言葉を忘れてしまったかのように黙っている。


「それは同情だよ……」


程なくして視線を逸らした美乃が、冷たく言い放った。


「どうしてそう思うんだ?」


「昨日私が目の前で倒れたから、びっくりしてそう思っただけだよ。私は病人なの。恋はしない」


はっきりと言い切った美乃の瞳は、悲しげに揺れている。
だけど、俺は一歩も引くつもりはない。


「違う……。俺は美乃が好きだ。確かに、きっかけは昨日のことかもしれない。でも、俺は同情で恋愛ができるほど優しくないよ」


きっかけは昨日のことで、気付いたのはたった今だけれど、俺は同情で恋愛ができるほど、優しい人間じゃない。
そのことは信二と広瀬も、そして美乃自身も、たぶんわかっているはずだ。
彼女が今までに自分から病気のことを話さなかったのは、それを理解しているからこそ、近づき過ぎないようにどこかで一線を引いていたからなのかもしれない。


いつの間にか、美乃は静かに泣いていた。
彼女の泣き顔を見たのは初めてで、思わず言葉を失ってしまう。


「私はもうすぐ死ぬんだよ……」


そんな俺に追い討ちをかけるように、彼女が涙混じりに呟いた。
俺はこのあと初めて、残酷で悲しい真実を知らされた――。

喉の奥がチリチリと焼けつくようで、体が水を欲している。


今、美乃はなんて言った……?


頭の中を整理したいのに、耳をつんざくような雑音が邪魔をする。
静かな病室には、蝉の鳴き声がよく響く。
そして、俺の心臓もそれと同じくらい大きく響いている。


『モウスグ死ヌンダヨ』


ようやくさっきの美乃の言葉を理解した時、残忍な現実が俺をどん底に突き落とした。


なんとなく感じていた不安は、このことだったのかもしれない。
自分が死刑宣告をされるよりも、ずっとショックを受けたような気がした。


美乃が長期入院をしていることを知っている以上、こういう残酷な事態を今までに一度も考えなかったわけじゃない。
だけど、知りたいと思っていた真実は、俺にとって、そして誰よりも美乃にとって、残酷で悲しいものだった。


美乃の病気は治らない――。
彼女は十五歳の時には、既に『二十歳まで生きられない』と、医者から宣告されていたのだ。


十五歳だった美乃にとって、いったいどれだけつらかったんだろう。
同じ年頃の時には大した苦労もない学生生活を送っていた俺には、それがどれほどのものだったのかなんて想像もつかない。


自分のことよりも周りを気遣い、誰にでも分け隔てなく優しく接し、そしていつだって笑顔を絶やさない美乃。
それでも、彼女がその心の内に抱えているであろう苦しみや傷を、ずっと知りたいと思っていた。


だけど……。
知らされた現実は、あまりにも残酷で……。
俺なんかでは、どうすることもできなくて……。


そんな感情のすべてを携えた溢れ出す涙を、もう拭うことすらできなくなっていた――。

「……だから、私は絶対に恋はしないの」


泣きながら話していた美乃は、静かに話を終えた。


気が付くと、信二は涙を浮かべながら拳を強く握り締めていた。
広瀬も嗚咽を漏らしながら、信二の腕にしがみついている。


美乃はいったい、あとどれくらい生きられるのか……。
どんなに長くても、それは絶対に年単位ではない。
「今日、菊川先生からそう言われた」と、彼女が小さな声で付け加えた。


「だから……もしも、いっちゃんが私のことを本気で好きなら、もうここには絶対に来ないで……」

「美乃っ……! もうすぐ死ぬから恋はしないなんて、そんなの悲しいだろっ‼ もしかしたら、俺より長生きするかもしれないのにっ……! 誰だっていつ死ぬのかなんてわからない! だから、恋はしないなんて決めつけるな! 美乃だって、自分の気持ちを素直に言っていいんだよっ……!」


真剣な表情で叫ぶように話した信二は、手の甲で涙をグッと拭った。
俺はなにを言えばいいのかなんてわからなかったけど、もう迷わないし引かない。
自分の中で、そう固く決心していた。


信二の言う通り、誰だって自分の寿命なんて絶対にわからない。
一歩外に出れば、交通事故に遭うかもしれない。
美乃だって、病気が治るかもしれない。
それが限りなくゼロに近い可能性だとしても、俺の気持ちはもう決まっている。


俺はそっと、彼女の手を握り締めた。


「生きるとか死ぬとか、そんなことじゃなくて……。美乃の気持ちを聞かせてほしい。……俺のこと、嫌いか?」


美乃は唇をギュッと噛み締めて、ただただ泣くばかりだった。


「美乃は優しいから、俺に気を遣かってるのかもしれないけど、正直な気持ちを聞かせてほしいんだ」


すると、彼女が俺の手を払い退け、涙に支配された瞳で俺のことを睨んだ。

「……っ! そんなんじゃないっ! 誰かを好きになったら、今よりももっと死ぬのが恐くなるからだよ! だから、私は絶対に恋はしないのっ……! 返事はNOだよっ‼ わかったなら、もう二度とここには来ないでっ‼」


美乃は息継ぎもせず、大声でそう言い放った。


「もう、みんな出ていってよっ‼ お願いだからひとりにして……っ!」


泣きじゃくる彼女が、俺達を追い出そうとする。
取り乱しながらわんわん泣く姿は、まるで子供みたいで、俺も涙が止まらなかった。


興奮した美乃は、そのまま呼吸が乱れ始めた。
信二と広瀬が慌てて看護師を呼び、俺は払い退けられた自分の手をもう一度彼女の手と絡めた。


美乃は片方の手で胸元を押さえながら、俺の手を強く握っていた。
菊川先生と看護師たちがすぐに病室に駆けつけ、彼女はなんとか落ち着きを取り戻した。


「いったい、なにがあったんですか?」


俺たちは、菊川先生からの問いに答えられず、先生や看護師は怪訝な表情をしながらも出ていった。
程なくして、俺たちも鎮静剤で眠った美乃を残して、病室を後にした。


信二も広瀬も無言のまま俯きがちに歩いていて、俺は今まで彼女に絡めていた自分の右手を見つめながらふたりの後ろを歩いた。


美乃の傍にいたい……。


美乃が苦しみながらも俺の手を必死に握っていた光景が脳裏に焼きつき、さっきよりも強く彼女から離れたくないと思っていた。


静かに芽生えた、決意。


“弱さを必死に隠していた美乃を守る”


本気で恋愛をしたことがないから、こんな時どうすればいいのかわからないけれど……。
美乃にとっては、俺の愛情を押しつけるだけのつらい恋になるのかもしれないけれど……。


それでも、これが俺なりの精一杯の愛情だった。
誰になんと言われようと、この想いを貫こうと誓った――。


*****


美乃には『来ないで』と言われたけれど、俺は再び病院に通い詰めた。


『やっぱりただの同情だよ』
『もう来ないでって言ったじゃない』
『いっちゃんには会いたくない』


その度に色々なことを言われたし、こんな台詞は散々聞かされたけれど、俺はなにを言われても絶対に引かなかった。


『自己満足の愛情だね』


時には、彼女らしくない冷たい口調でひどい言葉を言い放たれたこともあったけれど、こんな言葉ですら少しだけ嬉しく感じていた。


美乃が自分の弱さを俺に見せたのはあの時が初めてだったし、どんな些細なことでも精一杯受け止めたかった。
例えそれが八つ当たりだったとしても、彼女の気持ちを少しでも知りたかったから……。


俺のしつこさに諦めるしかないと思ったのか、美乃は次第になにも言わなくなった。
俺はどんなに忙しくても彼女に会いにいき、お盆に入る頃には毎日欠かさず病院に通うことが日課になっていた。


「最近は『来るな』って、言わなくなったな」

「だって、どうせダメって言っても来るんでしょ。なにを言っても毎日絶対に来るんだもん……。疲れちゃった」


美乃は、完全に諦めたようにため息をついた。
本当は面会を拒否することもできたのに、それをしないのは彼女の優しさなのかもしれない。