あのイヴの日から、仕事帰りや休日を利用して、たまに三〇五号室に足を運ぶようになった。
時にはお見舞いにお菓子や雑誌を買っていくと、美乃は『なにもいらないのに』と言いながらもその度に喜んで受け取ってくれ、俺はそんな彼女のことを自分の妹のように可愛がっていた。


少しずつ暖かくなって、季節はもうすぐ春になる頃、俺と美乃が出会ってから三ヶ月が過ぎようとしていた。

二回目に会った時から美乃のことを呼び捨てにしていたけれど、彼女は俺の中では恋愛対象外だった。
それは、お互いの性格的なことや俺の好みの問題ではなく、きっと俺たちふたりの距離があまりにもすぐに近くなり過ぎたせいだろう。


美乃は、少しだけ変わっていた。
初対面の時から変わった女だとは思っていたけれど、彼女の笑顔と屈託のない明るさからは、まるで病人とは思えないほどの楽しそうな人生を感じさせた。


背中の下まで伸びた黒髪と、白くてきめ細かい肌。
奥二重の瞳と、少しだけ長い睫毛。
見た目は繊細な感じだけれど、性格はそれに反して気が強く、芯も強かった。


美乃と話しているうちに、適当な理論も多いと気づいた。
俺が彼女の適当論を聞いて突っ込む度に、冗談半分の言い合いをしてはよくふたりで笑い合った。

そんなくだらない時間が無性に楽しくて、俺は自然と病院に行く回数が増えていった。

美乃の病室は個室だったけれど、いつもたくさんの人がいた。
彼女を訪ねる人は友達や見舞い客だけでなく、同じ病院に入院している患者もいた。


美乃と仲のいい患者の年齢層は驚くほど広く、幼い子どもから俺たちの祖父母くらいの年代の人たちまで、とにかく彼女は老若男女問わず人気者だった。
時には、美乃自身が他の病室に出向くこともあって、そういう日には彼女を探し出すのに苦労した。


美乃が入院している病院は県内でも有名な総合病院で、院内はかなり広い。
もっとも、院内では入院期間が長い美乃のことを知らない人はあまりいないから、彼女の居場所はだいたいすぐにわかるのだけれど。


ある日、驚いた事があった。

その日も病室にいなかった美乃を探していると、看護師の内田さんから屋上だと教えてもらった。
内田さんは五十代くらいのベテランで、美乃を担当している期間が長いからか、彼女のことをよく理解している。


「びっくりするかもね」


意味深に微笑む内田さんにお礼を言って屋上に向かい、ドアを開けた瞬間。

「ローン!」

美乃の楽しげな声が聞こえてきた。


ローン……?


首を傾げた俺は、目の前の光景を見て内田さんに言われた通り、目を見開いて驚いた。
そこには、三人の中年男性とテーブルを囲み、麻雀をする彼女の姿があった。


「麻雀かよ!」

「あっ、いっちゃん!」


麻雀なんて、美乃のイメージからは程遠い。


「麻雀なんてできるんだ?」

「入院生活が長いからねー。ポーカーもチェスも囲碁も将棋もできるよ」

「美乃ちゃんは強いよ! 麻雀以外でも手強いんだ!」


笑顔の美乃に続いて、その場にいた中年男性のうちのひとりが悔しそうに笑った。


「それより、いっちゃんまた来てくれたんだ。暇なんだね」

「うるせぇよ! だいたい、暇なんじゃなくて、今日は仕事が早く終わっただけだ」


憎まれ口を叩く美乃に言い返すと、彼女はその場にいた男性たちに病室に戻ると告げた。


病室に戻る間、いつものように『いっちゃん』と連呼する美乃に苦笑が漏れる。
俺は、伊織(いおり)という女みたいな自分の名前が嫌で、今まで誰にも呼ばせたことはなかった。


だけど、その名前を『可愛い』と言った美乃にせがまれ、散々押し問答をした末に仕方なく『いっちゃん』と呼ばれるはめになった。
『伊織』と呼ばれるよりはマシだとは言え、『いっちゃん』と呼ばれるのもなんとなく恥ずかしかった。


それを知った信二は、本気でゲラゲラと笑っていた。
その上、美乃の押しに負けてうなだれていた俺を見てさらにからかう信二に、本気で腹を立ててそうになった。

「美乃はすげぇよ! こいつを名前で呼んだ奴は、お前が初めてなんだからな!」

「でも、あだ名じゃない……」

「それでもすごいわよ」


不服そうな美乃に、信二の恋人の広瀬由加(ひろせゆか)がケラケラと笑った。
ふたりは高校時代から付き合っていて、広瀬も同じ高校だから俺も彼女を知っていた。


広瀬は活発的で気が強くて男勝りで、その辺の男よりもずっと男前だと思う。
彼女は毎日病院に通う信二と、よく一緒に来ていた。


美乃も広瀬を姉のように慕い、ふたりは姉妹みたいだった。
そんなふたりの関係を、信二は何度も自慢していた。


いつの間にかこの空気に馴染んでいた俺も、この三人と一緒に過ごすことが自然と増えていき、いつの間にか日課のように病院に足を運ぶようになっていた。


高校を卒業後に就職して建築現場で働いていて、美乃が俺の仕事のことを知った時、『いっちゃんにぴったりだね』なんて言っていた。
体を動かすことが好きな俺には、確かにこの力仕事が合っているとは思う。


年中、日焼けですっかり黒くなった肌は、夏にはさらに焼ける。

『じゃあ、夏には真っ黒に焼けこげちゃうね』

そのことを話すと、彼女はクスクスと笑っていた。

ふたりで過ごす時間を重ねていくたび、お互いのことを少しずつ知っていった。


好きな音楽やテレビ、観たい映画や子どもの頃のこと。
そんな他愛もない話をたくさん交わしていき、お互いのことを色々と知った頃、ふと美乃が高校のことを口にした。


「私ね、中卒なの。高校は二回も留年して、結局は中退しちゃった……」

「でも、それは病気のことがあったからだろ? 美乃が悪かったわけじゃない」


俺は、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめ、慰めるように頭を撫でた。



美乃は、生まれつき心臓を患っていた。


入院するようになったのは、信二から聞いた通り一五歳の時。
最初はまだ短期入院ばかりで、自宅療養をしたり高校にも通っていたらしい。
保健室で過ごすこともあったものの、できる限り頑張って登校していた。


だけど、二年生に進級する前に本格的な入院生活を強いられ、休む回数も増えた。
それでも、なんとか学校に通って進級を目指したけれど、結局は出席日数が足りなくて留年してしまった。


それからは家に帰ることもほとんどできなくなり、美乃は一年の半分は入院生活を送ることになった。
一緒に入学した友達が三年生に進級する時にはまた留年してしまい、そのまま退学した。


彼女は、『独り言』だと言ってこのことを語っていたけれど、ちゃんと俺の目を見て最後まで話してくれた。

美乃と出会った時、彼女はまだ二十歳だった。


「別に勉強は好きじゃなかったから、ラッキーかな」


美乃は笑顔でそう言っていたけれど、それを自ら望んだわけじゃない。
そうするしかなかったんだ。


俺も勉強は嫌いだったけれど、学校は楽しかったし、友達とバカ騒ぎするのは好きだった。


高校生なんて、一番楽しい時期なのにな……。


いたたまれないような気持ちになっていると、彼女がムッとしたように眉を寄せた。


「もう! いっちゃん! 同情は禁止だってば!」


“同情”と“マイナス思考”は、美乃に禁止されていること。
“マイナス思考”は身内や親しい人間だけだけれど、“同情”は美乃の周りの人間には暗黙のルールだった。


「同情とマイナス思考は禁止なの! 暗くなると、運が落ちるじゃない!」


美乃の口癖だったそれは、もしかしたら彼女の精一杯の強がりだったのかもしれない。


美乃は体調のいい時だけ外出を許可されていたものの、それには必ず付き添いが必要だった。
だいたいは二〜三時間だけで、体調が悪い日が続くと1ヶ月以上も許可が出ないことがあったけれど、そんな時でも彼女はいつも笑っていた。

「不便だけど、みんなが来てくれるから楽しいよ! ここにいればたくさんの人が遊びにきてくれるし、なんだかお姫様扱いされてるみたいだよね」


確かに、三〇五同室にはたくさんの人が見舞いに来る。
美乃は、『入院期間が長いからだよ』と言っていたけれど、俺は彼女自身が周囲の人間から好かれているからだと思う。


実際、美乃はみんなに優しい。
自分も病気なのに周りを気遣い、よく気がつく。


車椅子を押してあげたり、入院している子どもと遊んだり、時には屋上や病室で麻雀やトランプに付き合ったり……。
彼女は本当に人気者で、院内では引く手数多だった。


中でも、中年男性と子どもからは取り合いになるほどの人気振りで、お互いになかなか譲らないから、美乃はいつも困っていた。
そして、そんな時はいつも決まって彼女が俺に助けを求め、俺はよく反感を買うのだった。


病院に頻繁に顔を出すせいで、美乃との関係をよく訊かれた。
あまりにも仲がいいから恋人同士だと思われることもあったけれど、いつもこう言っていた。


「友達の妹です。今は俺の妹みたいなものですが」


美乃はたまに不服そうにしながらも、俺の隣でただ頷いていた。


信二は俺の友達で、美乃は信二の妹。
何度か付き添いとして外出したこともあるけれど、その時に知り合いと会ってもお互い同じように答えていた。


“友達の妹”と“兄の友達”。
まるで、合言葉みたいだった。

美乃や信二に頼まれ、彼女の外出に付き添うことも少しずつ増えていった。
買い物でも映画でも、頼まれればなんでも付き合ったけれど、唯一カフェに行くことだけは嫌だった。


甘い物はあまり好きじゃなく、できれば見るのも避けたい。
だけど、美乃は甘い物が好きで、外出のたびにお気に入りのカフェでおしゃれなケーキを食べていた。


新発売や季節限定のもの、そして一番お気に入りのケーキ。
時には、一個だけではなかった。


最初は嫌々だった俺も、美乃に付き合っているうちに見るのは平気になっていた。
正式には、幸せそうにケーキを食べている彼女を見るのが好きだったのだけれど。


ある時、そのカフェで美乃の名前の由来を訊いた。


「名前の由来?」

「美乃って珍しいだろ? 漢字だけ見たら俺はたぶん読めなかっただろうし、前からちょっと気になってたんだ」

「そうかな?」


俺の言葉に、美乃は小首を傾げていた。


「もしかして、由来は知らないのか?」

「ううん。あのね、美乃はね、桜なの」

「桜……? ヨシノだろ? ああ、吉野の桜?」

「違う、違う! 私のヨシノは“ソメイヨシノ”!」

「はっ? 染井美乃!?」

「そう。ソメイヨシノっていう種類の桜があるの! 私が生まれた時、近所のソメイヨシノが満開だったんだって」


美乃の説明で、想像したことは勘違いだと察した。
バカな俺は、俺の名字と彼女の名前をくっつけたんだと思ったんだ。

「あっ! ソメイヨシノって、いっちゃんと私の名前をくっつけたみたいだね! なんかすごいかも!」

「え?」

「だって、いっちゃんの名字は染井じゃない。それで、私の名前は美乃でしょ。だから、二人合わせてソメイヨシノ! ……って、これじゃあダジャレみたいだね!」


そんなことを口にした美乃は、そのあとも嬉しそうに話したり、『でもダジャレかな』なんて言ったりと、しばらく考え込んでいた。
些細なことで百面相を見せる彼女が、可愛く見えて仕方なかった。


だから、俺はつい自分も同じことを思ったと、考えたばかりのことを話してしまった。
すぐにハッとして、口を滑らせたことを後悔しそうになったけれど、それよりも先に美乃が満面に笑みを浮かべた。


「テレパシーだね!」


それは本当に嬉しそうな顔で、今までに見たことのない彼女の満面の笑みに不覚にもドキッとした。


「別にテレパシーじゃないだろ?」


必死に平常心を保ちながら、苦笑を浮かべて見せる。


「じゃあ、相思相愛?」

「いや、それはもっと違うから」


俺が呆れていると、美乃がクスクスと笑った。
そんな彼女をからかうつもりで、ニッと笑ってから口を開く。


「じゃあ、いっそ結婚するか」


だけど……次の瞬間、安易に発言してしまったこと心底後悔した。
目の前の美乃が顔を真っ赤にして、うろたえていたから。
いつものように冗談で返さない彼女の姿を見て、頭にあることが過ぎる。