「親が離婚したのは……俺が五歳のときだった」


 そう言って、青司くんは洗い物の手を止めて話しはじめた。


「離婚する前、父さんには大きな仕事の依頼があったそうなんだ。その仕事を邪魔したくなくて……母さんは『身を引いた』って、言ってた」

「身を引いた?」

「うん。もともと父さんも画家で……でも画廊に勤めながら絵を描いていたんだ。でも、画廊のオーナーに『そろそろ後継者として育てたい』って言われたみたいで……。でもそのためには海外を飛び回ったりして商談にも行かなきゃいけなくて……」

「だから……? だから、桃花先生は相手のために離婚したっていうの? んー、よくわからないな。たとえ仕事で出張が多くなったとしても、先生と青司くんだけが家で待ってれば良かったんじゃ……? わざわざそんな離婚しなくても……」

「それは、俺も思った。単身赴任っていう形はとれなかったのかって。でも母さんは、その時心がかなり病んでたんだ」

「え?」


 心が病んでいた。

 その言葉に、わたしは思わず身を震わせる。

 まさか。あのいつも笑顔だった先生が? いつもとっても優しかった桃花先生が?

 わたしみたいに……心を病んでいた、なんて。信じられない。


「母さんは、父さんのことをものすごく愛していた。人間としても、ひとりの画家としても。夫の可能性を信じていたんだ。でも……だからこそ、その才能を日常ですり潰させてはいけないと、思ったみたいだ。そこはわからなくもないけど……でも、その理想と現実との間でかなり苦しんでいた。本当は離れたくないのに、離れなきゃいけないって。そのことに心をすごく痛めてた」

「桃花先生は……とっても優しい人だったもんね」

「うん。それに真面目すぎるところもあったから、中途半端に『待ってる』ってことができなかったんだと思う。完全に父さんはいないんだって思わないと、心が安定しないってわかってたんだね。だから、母さんは親類を頼って……この町に身を寄せた」

「この加輪辺(かわべ)町に?」

「そう。正確には、親類が所持していたこの洋館のある町にね。この家は……ずっと長い間誰も住んでなかった。でも、母さんはこの家の手入れも兼ねるなら、住んでもいいって許可をもらえたんだ」


 そう言って、青司くんはぐるりと部屋を見渡す。

 たしかに壁や床は、どこも年月を感じさせる風合いをしていた。いつだか桃花先生が説明してくれた気がする。「この家は大正時代に建てられた建物なのよ」って。

 大事に大事に補修を重ねながら存続させてきた、歴史を感じる家。


「母さんはここで、俺とふたりで生きていこうとした。父さんをまだ愛してたけど、忘れようと必死だった。お絵かき教室を開いて、自立して、経済的にも父さんに頼らないようにして。もともと体が弱かったのに、いつも人一倍頑張ってて……。そんな人だったから森屋さんのことを本当に好きだったのかなって……少し疑問なんだ」

「……」


 わたしは言葉につまった。