リンゴンと電車の発着音が鳴る。昨日の余韻を引き摺りながら私は電車に乗り込んだ。職場まで約三十分。人いきれがいつもより不快に思えるのは昨日、甘いバニラの香りを嗅ぎ続けたせいかしら。

 昨日、原宿の路上でキスをされた。この時ほど都会の無関心がありがたいと思った事はない。チラチラと視線は感じたけれども。それよりも五月蠅いのは早鐘のように鳴る自分の心臓だった。

「かのん君っ」
「へへへ、びっくりした?」

 まったく悪びれないかのん君。今日はヒールを履いているので私より高い目線が金色に揺れている。

「長田さん! 聞いてる?」
「えあっ」

 気が付けばかのん君ではなく、職場の主任が不機嫌そうにこちらを睨み付けていた。いけない、もうとっくに会社に着いて仕事が始まっているというのにぼんやりしてしまっていた。

「じゃ、このデータまとめたら私の方に回して。チェックするから」
「はい」
「しっかりしてよ」

 ふう、お小言を戴いてしまった。昨日の強烈な体験から急に現実に戻るのは難しい。いや、あれも現実なんだけどさ。とにかく一応社会人なんだからちゃんと切り替えしなくちゃ。
 私はかのん君の事を頭から一生懸命追い出すと、主任から託された膨大なデータを前に気持ちを引き締めた。

「はぁ……目が死んだ……」

 ある程度目処がついた所で、ランチ休憩に入る。コンビニで買ったおにぎりとヨーグルトを休憩所に広げてようやく昼食にありつく。そこでふとスマホを見て、私は驚愕した。

「わわわ、これ……全部かのん君?」

 かのん君からの鬼メッセージが通知に表示されていた。

「なんなのこれ」

 恐る恐る開くと

「おはよう! 今日も1日がんばってね」
から
「今から着替える」
「撮影に出かける」

 と実況のようなコメントが続き、あとは撮影風景と思われる写真が続けて貼り付けてある。

「ふーん、こんな風に撮影してるんだ」

 白い布? をバックにポーズを撮っている。これは誰が撮ったものなんだろう。スタッフの誰かかな? じっとそれを見ながらおにぎりをぱくついていると、ピロンとまた一枚写真が送信されてきた。

「やっとランチ!」

 上目遣いにベーグルサンドをほおばるかのん君。今日はブルーのカラコンだ。

「おいしそう、いいな。私はおにぎり……っと」

 私がそう送信するとすぐに返信した。

「おにぎり食べてる真希ちゃんが見たい」

 見てどうするんだ……。

「ってかやっと真希ちゃんから返事きた」
「ごめん、さっき気づいたの」

 元彼は仕事中に連絡すると怒るタイプだったから、こんなにメッセージが来るなんて想定外だった。

「で、真希ちゃんのおにぎりまだー?」

 スマホの中ではまだかのん君のメッセージが続いている。

「あ、桜井さん。ちょっと写真とって貰える?」

 私は隣でお弁当を食べていた、同僚の桜井さんにスマホを渡した。

「写真?」
「うん、おにぎりを食べているところを……」
「なにゆえ……」
「その、か……彼氏? が見たいって」
「え、あんたの彼氏ってそういうタイプだったっけ」

 あう、そうか。桜井さんには一昨日破局した事を話していなかったんだ。

「その彼氏とは違くて……また別の」
「は!? 別の彼氏? 初耳なんですけど?」

 桜井さんの目が鋭く光った。う、怖い。

「撮ってもいいけど、その彼氏の写真見せて」
「えええ~?」

 私がしぶしぶさっきのベーグルサンドの写真を桜井さんに見せると。彼女は固まった。

「~~~~~!!」
「さ、桜井さん?」
「これ、かのん君じゃない!!」

 え、知ってるの? 

「私フォローしてるよ、ほら!」

 桜井さんは素早く自分のスマホを操作するとSNSの画面を開いた。

「フォロワー……15万……」
「知らなかったの!? マジ? 信じらんない」

 桜井さんは鼻息荒く、かのん君がいかに天使かを語りはじめた。それは昨日私は嫌と言うほど実感したんだけど。

「よし、長田はおにぎり食べてて写真とるから」
「ちょっと、桜井さんも映るの?」
「へっへっへ」

 桜井さんは私のスマホを自撮りモードにすると、おにぎりを持っている私と一緒に写真を撮った。

「はい、送信っと」

 するとまたすぐにかのん君から返信がきた。

「美味しそう! 隣は会社の人?」

 その画面を横から覗いていた桜井さんはにま~っと微笑んだ。

「ふふふふふ……やった……かのん君に認識された……」
「桜井さん……」
「今夜! 飲みに行くわよ! ちゃんと話しして貰うからね!」

 ギラギラと獲物を狙う目の桜井さんの勢いに私は絶対に逃げられないことを悟り、静かに頷いた。