バイバイまたね、クドリャフカ

 安曇(あずみ)穂高(ほだか)は、高校の入学式で新入生として颯爽と現れ、その場にいた多くの人間の注目や関心をさらっていった。

 朱に交われば赤くなるというのは、きっといつも正しいわけではなくて、どこに交じっても彼は彼だった。むしろ周りが彼の存在の引き立て役になっているとでもいうか。

 くりっとした瞳、笑うとできるえくぼ、ほどよく日に焼け引き締まった体。背が高いのにどこか可愛いと思わせてしまう人懐っこい印象で、性格も穏やかならモテないわけがない。

 ルックスも文句なしで頭もよく、生粋の日本人でありながらアメリカ生まれのアメリカ育ちで英語もペラペラ。

 当然彼はすぐに学校一の人気者になった。それはもう半端なものではなく、動物園のパンダ並みに。

 彼の噂を聞きつけ、一目見ようとクラスや学年などの境界を越えて、連日休み時間には教室に人が集まった。対する彼はやはりパンダのようになにも気にすることなく、マイペースに過ごしている。 

 そんな彼が進学校とはいえ、こんな田舎にやって来たのは家庭の事情らしく、高校から市内に住む祖父母宅でお世話になっているのだと人伝いに聞いた。

 だからか、彼は学校を休むことも多々あった。それがさらに彼のレア感を高めていく。

 都会ならわからないけれど、こんな田舎にアイドルのような外見と才能を持つ彼が流星のごとく現れたので、しばらく学校だけではなく町中で彼は話題の人となった。

 そんな彼とたった一年。ううん一年もない。高校生活を一緒に過ごした。

 目を引く彼を入学式で認識し同じクラスとはいえ、どちらかといえば地味で男子が苦手な私が彼と関わり合うのはきっとほとんどない。そう思っていた。

 ところが私と彼にはある共通点があって、よく会話するようになった。

『紺野さん、この問題教えてくれない?』

『原(はら)先生、いなかった?』

『今、三年生の補習中らしくて』

 困ったように目尻を下げる安曇穂高の表情は、捨てられた子犬とでもいうのか、どうも突き放せない。

 私はため息をついて読んでいた本を閉じた。

『どこ?』

 彼は嬉しそうに私の前の席に座り、うしろを振り向いて問題集を開いた。

『現国ってさ、文章を書かすだろ。はっきりとした正解があるわけでもないし、どうも苦手なんだ』

『英語だって英作文の問題あるでしょ?』

 そう言って私は彼の示す問題文を読んでいく。安曇穂高は優秀だった。いつも成績は学年でトップ。一番か二番のどちらか。

 そして私、紺野ほのかの成績も常に一番か二番だった。

 うちの学校は『月城高校』と市の名前を掲げ、こんな田舎にあるにも関わらず、全国的にもちょっとした有名な進学校だった。

 おかげで視察に訪れる学校関係者は後を絶たず、この学校に入学するため県外からやって来て一人暮らしをする学生も少なくはない。

 そんな学生のために市が専用の寮を作って生活を保障するなど行動し、それが称賛を呼んで入学希望者はさらに増えた。

 わざわざ家族で移住してくる人もいて、人口減少が問題となっている市としては学校のために投資するのは悪い話ばかりではないらしい。

 つまりこの学校に入学するだけでそこそこのレベルなのは証明されていて、そんな中で私は新入生代表として入学式で挨拶をした。自分にとっては当たり前だと思っていた。

 ところが翌日の実力テストの結果が張りだされたときに、私は自分の目を疑った。中学まで自分の名前は常に一番上にあった。それ以外の光景を見たことがない。

 なのに今、自分の上に名前がある。そのインパクトの強烈さといったら……。

【安曇穂高】

 大袈裟だけれど、足元から崩れ落ちそうになった。彼だから、というわけじゃない。誰かに成績を抜かれるなんて。

 全国模試で一番を取ることも珍しくない私が、学内でトップをあっさりと譲るとは夢にも思っていなかった。

 たった一点差、でも一位と二位とでは天と地ほどの差がある。

 周りは私が一位から転落した事態などどうでもよく、それよりも安曇穂高のすごさをさらに思い知らされ、彼に向けられる羨望の眼差しと人気に拍車がかかった。

 自惚れていたわけじゃない。ライバルが身近なところにいただけ。悔しさをバネにしてもっと頑張ればいい。

 私は静かに闘志を燃やす。彼に、というより自分自身に。

 彼の存在は逆に私のやる気を掻き立てた。身近にはっきりと負けたくないと思える相手がいるのはいい刺激だ。私は一方的に彼をライバル視した。

 もちろん自分の中だけで。彼に直接宣言したり関わろうという気は微塵もない。

『安曇くんってかっこいいよね』

 しかし、彼に対してそんなふうに思っているのは私だけのようで、女子たちの会話での彼の話題はいつも似たり寄ったりのものが多かった。

『本当。外見も性格も文句なしだし』

『英語もペラペラでお父さんはNASA勤めなんでしょ? すごすぎ!』

『アメリカに住んでいたら英語ができるのは当たり前だし、お父さんの件は本人とは関係ないんじゃないかな?』

 思ったままを口にしたのに、私の発言は場に水を差した。気を使ってか、その場にいた女子に質問される。

『じゃぁ、ほのかは安曇くんをどう思う?』

『わからない。話したこともないから』

 私の回答に場が一気にしらけたのを感じたけれど、時すでに遅し。後悔先に立たずだ。私はどうも女子特有のノリというか、空気を読むのが苦手だった。

 逃げるようにそそくさと席に戻って勉強を始める。勉強は頑張ればきちんと結果が出るけれど、人間関係を築くのはどうすれば上手になるんだろう。

 そういう意味で私は安曇穂高に完璧に負けている。いつもにこやかで、たくさんの人に囲まれている彼には。

 やっぱり彼はすごいな。悔しいし機会もないから本人には伝えないけれど。

 ところがただの顔見知りでしかない私たちの運命が交わったのは、意外な彼からの一言だった。

 ある日の放課後、教室に残って自習していると今まで会話したことがない安曇穂高が、突然つかつかと長い足を動かしてこちらに一直線にやってきたのだ。

 なにを言われるのかと思わず身構えていると、彼は真剣な表情を崩さないまま私との距離を縮めてくる。

『紺野さん、ちょっと勉強を教えてくれないかな?』

 自分でもすごい顔をしたと思う。まさかの発言が彼の口から飛び出したとき、私は鳩が豆鉄砲を食らったようだった。

『俺さ、日本語というか現国がどうしても苦手で……。だからお願いします』

『や、やめてよ。同級生なんだから』

 律儀に頭を下げる彼に私は慌てる。突っぱねることもできず、ノーとも言えない。そんな気さえ起らなかった。

『なら、OKってことかな?』

 顔を上げた彼の表情はどうもしたり顔だった気がする。私は瞬時にあれこれ思い巡らせたけれど、答えは決まっていた。

『いいよ。人に教えるのも自分の勉強になるしね』

『ありがとう』

 男子に免疫がなく、つい可愛くない切り返しをした私に彼は穏やかにお礼を告げた。

 こうして彼をライバルだと意気込んでいた私は、まんまと彼の罠にはまってしまった。それを後から彼に話すと、『罠じゃないよ』とおかしそうに笑っていた。

 なにはともあれ、それから私たちは互いに勉強を教え合うようになった。

 私の一番の得意教科が現代国語で、どちらかといえばそこまで得意ではないのが英語。彼はその逆だった。だから利害が一致した、それだけ。
 勉強を教え合う中で、彼とは他愛ない話をたくさんした。そのどれもが取るに足らないものだった気がする。

『安曇くんはなんでもできるスーパーマンだと思ってたよ』

 問題集を一緒に解きながら、私はなにげなく彼の印象を口にした。嫌味でもなく本音だった。

『そんなわけないだろ。普通の高校生だよ』

 彼は怒る素振りもなく困惑気味に笑う。その表情がさらに私を突っつかせる。

『本当に普通の高校生が聞いたら怒るよ?』

 そんなルックスで、優しくて英語もペラペラ。おまけに頭もいい。なのに謙虚さも忘れず控えめな性格とくれば女子はもちろん、男子だって憧れている人間は数知れない。

 しかし私は、発言してからふと思い直した。

『ごめん』

『どうした?』

『安曇くんにとっては普通のつもりなのかもしれないのに、こっちの価値観を押し付けちゃったから』

 ペンを置いてしおらしく素直に謝った。私は昔からこんなふうに、つい物事をズバズバ言ってしまうところがある。

 それで友達とトラブルになって、離れていった友人もいる。悩みを相談されるときは親身なアドバイスより、うんうんと同調するのが一番だと学んだのは最近の話。

 なんとか意識して直そうと試みているけれど、なかなか難しい。もっと空気を読まなきゃ。

 彼にも悪いことをしてしまった。そう思っていると――。

『いいよ。俺、紺野さんのそういう素直で飾らないところ好きだから』

 安曇穂高は綺麗な歯列を見せて笑った。可愛いと思うのは失礼かもしれない。でも、やっぱり彼はできた人間だった。

 『好き』となにげなく口に出せてしまうのもきっと彼がアメリカ育ちで英語の方が得意だからだ。LoveじゃなくてLike。言葉のあや。

 意識するだけ無駄な気がして私は彼と向き合っている問題に集中した。


 放課後、西日が差し込む教室で机を挟んで前後に座り、世間話を入れつつ問題を解き合うのが定番になっていく。

 図書室や自習室がしっかりと整備されている学校なので、教室に残って勉強する生徒はある意味まれで、だいたいいつも貸し切り状態だった。

 ただの顔見知りのクラスメートから友人へ。彼と過ごす時間は心地よかった。変に気を使わなくてもいいというか、異性ということさえ意識せずに付き合えた。

 あれこれ考えなくても彼の前では私は私でいられて、それを彼はいつも穏やかな笑顔で受け入れてくれていたから。

 おかげで最初は現国や英語を教え合うだけだったのに、私と彼はいつの間にかそれ以外の教科もわからないところは聞き合うようになった。

 彼は毎日学校に来るわけじゃなかったから、いないときに進んだ授業内容を伝えるのも自然と私の役目になり、それが苦でもなくむしろ楽しみだった。

 教えるには自分が理解していないといけないから、授業にもいつも以上に力が入る。ふとした瞬間、彼のためというより自分のためだから!と、改めて自身に言い聞かせたりもして。

 そして夏休みも明けた頃、エアコンの効いた放課後の教室で彼が不意に切り出した。

『俺、宇宙に行きたいんだ』

『宇宙?』

 どうしてそんな話になったのか。ああ、たしか解いていた現代文の問題が天文台に関する内容だったからかも。

 私はさして気にもせず選択肢に目を通していると、彼は珍しく意気揚々と語りだした。

『物心ついたときから天文学や宇宙に興味があってさ。たぶん父親の影響が一番大きいんだけれど、それで子どもの頃にNASAのサマーキャンプに参加したんだ。そこで改めて決意して変わらずにずっと希望してるよ』

『へー。宇宙飛行士ってこと?』

『まぁ、手っ取り早く言えばそうかな。とにかく宇宙に関わる仕事がしたくて。そして人類のために大きな偉業を成し遂げるんだ』

 屈託ない笑顔はうそぶいている感じでもなく純粋だった。立派だな、と私は素直に感心する。彼なら本当にやり遂げてしまいそう。

『紺野さんはなにを目指しているの?』

『私?』

 急に話を振られ目をぱちくりとさせると、穏やかな顔をしている安曇穂高がこちらを見つめていた。大きくて形のいい目が細められる。

『そう。なにかなりたいものがあって勉強を頑張ってるんだろ』

 当然のように、そして曇りのない笑顔に私の胸はちくりと痛む。私はぎこちなく彼から視線をはずした。

『そう、でもないよ。まだ私、夢とかないし。安曇くんみたいに立派な目標とか、なにも……』

 なんとも言えない気まずさを感じ、しどろもどろになる。勉強は好き。知識も増やせるし、頑張れば結果もついてくる。

 でもその先というものが私にはなくて、なにかに向かって頑張る彼の姿が眩しくなり、勝手にうしろめたくなる。

『なら、これから見つけたらいいだろ』

 彼からの返事はあっけらかんとしたものだった。

『大丈夫。夢は無限大。これだけ頑張っている紺野さんなら、なんにだってなれるよ』

『宇宙にも行ける?』

『そう。近い未来、人類は火星に移住するし』

 どこまで本気か、冗談か。私は思わず吹き出した。彼も笑っている。

 なりたいもの、か。 

『……私、誰かに必要とされる人間になりたいな』

 夢と呼ぶには漠然としていて、彼みたいに人類のために大きな偉業を成し遂げるとか、大それたことは言えないけれど。

 いつかたくさん勉強した分、選択肢や知識を広げて誰かの役に立って、必要としてもらえる人間になりたい。

 口にして声にしたからか、自分の中にストンと落ちてくる。

『なら、もう叶ってるね』

『え?』

 かけられた予想外の言葉に、私は素直に反応した。彼は眉をハの字にして笑っている。

『俺には紺野さんが必要なんだけど?』

 続けられた彼の言葉に私は大きく目を見開いて、続いて火照り出す頬を隠すように両手で押さえた。

『……問題、早く解いちゃおうよ』

 あからさまに話題を替えたけれど、彼は変に突っこんでこなかった。

 ホッとしたような、寂しいような。

 本当にストレートすぎるのも考えものだ。私じゃなかったら、勘違いする女子もたくさんいるに決まっている。そこで悶々と煮詰まっていく心の中でチクリと刺さるガラス破片を見つけた。

 彼が必要としているのは、私自身ではなく、現国が得意で自分と対等かそれ以上の成績優秀者を指しているんだ。もしも条件に合う存在が他にいたとしたら……。

 ひねくれた自分の考えに嫌気がさす。可愛くない自覚はあるけれど、これは重傷だ。

 彼と一緒にいると、クラスの女子たちと会話しているとき以上に心が揺れ動く。どうしてだろう。異性だから?

 ズキズキと痛む胸を押さえつつ、私は答えを追求せずに問題を解くのに専念した。
 親しくなって一緒に過ごす時間が増えても彼との関係に大きな変化はなかった。 色々と話した中でも、ちょうど去年の冬休みに差しかかる前に彼と会話した記憶はしっかりある。

 だってあれが最後だったから。

 その日の放課後も私は教室で彼と期末試験の対策をしようと約束していた。彼と教室で勉強する前に、化学の授業でわからない箇所を質問するため私は先に職員室に向かう。

 すると思ったよりも先生の説明は丁寧で長く、私は彼をひとりで長い間教室で待たせてしまった。

 足音を立てずに素早く教室を目指し、謝罪の言葉と同時に中に入ろうとする。

『安曇くん、好きです。付き合って』

 ところが聞こえてきた言葉に、ドアを開けようとした私の手が思わず止まる。瞬時に存在も息も必死で押し殺して、その場で固まった。

『ありがとう。でもごめん。付き合えない』

 あまり間を空けずに凛とした彼の声も聞こえてきた。

『なんで? ほかに好きな人がいるの?』

 切羽詰まった女子の声。彼女の質問に私もわずかながらに緊張する。そして偶然とはいえ、私が聞いてはいけない気がした。

 でも足が床にくっついて動けない。

『……どうだろう。でも俺はここにずっといない存在だから』

『アメリカに帰るってこと?』

 彼はなにも答えない。ややあってしびれを切らしたのか誰かがドアの方へ、こちらへ近づいてくるのがわかった。

 私は慌ててすぐそばの消火栓の影に身をひそめる。出て行ったのはもちろん女子の方で、うしろ姿しか確認できなかったけれど、おそらく隣クラスの渡辺(わやなべ)さんだ。

 美人で大人っぽいと評判で、さらさらとストレートの髪が揺れている。

 家が大きな病院をしていて、お父さんが全国的にもかなり有名な凄腕のお医者さんだ。彼女も同じく医師を目指していて、勉強の他にもバイオリンとバレエを習い、その腕前も数々のコンクールで入賞するほどだ。

 高嶺の花扱いなのも無理はない。

 実らなかったとはいえ、彼女の告白には迷いもなく堂々としていて、自分に自信があるのが伝わってきた。ここでこそこそと隠れている私とは大違いだ。

 比べるのもおこがましくなり、私は大きく息を吐いてうつむいた。

『遅かったね』

 完全に油断していたところに声がかけられ、私の心臓は飛び上がる。反射的に顔を上げれば彼がひょいとこちらを覗き込んでいた。心なしか距離が近い。

『モル計算について聞けた?』

 なんでもないかのように問いかけられ、私は平静を装って答える。

『うん。分子量の単位が曖昧でこんがらかってたんだけど解説してもらえてなんとか理解できたよ』

 彼は安堵めいた笑みを浮かべると再び部屋に戻ろうとする。自然と後を追った。

 教室には誰もいない。さっきまで彼と渡辺さんがここにふたりでいたのだと思うと、なぜか胸が痛んだ。

『安曇くん』

 私は彼を呼び止める。すると不思議そうな面持ちで安曇穂高が振り向いた。

 告白されたばかりだというのに、彼は動揺というものを微塵も見せない。モテるのは知っているし、きっと彼にとってはあんなこと日常茶飯事なんだ。

 今さらながら彼との間に大きな壁を感じる。透明だけれど分厚くて、絶対に越えることはできない。私はおずおずと切り出した、

『今さらだけど、やっぱり私よりも先生に聞いた方がいいんじゃないかな? これからもっと難しくなるし、私の解説はあくまでも自己流で、正確さで言えば……』

 小さな子どもみたいに拗ねた感情だった。おとなげなくて、でも苦しくて。気づけば口にしていた。声にすると今度は痛みさえ伴う。

『うん、でも俺は紺野さんがいいんだ』

 それを彼の言葉が一瞬にして吹き飛ばした。心の靄(もや)がぱっと晴れて、アップダウンの激しい自分の感情についていけない。

 どうして?と聞き返そうとして、やっぱりやめた。だって聞いてもしょうがない。

『でも俺はここにずっといない存在だから』

 さっきの彼の発言。あれはまぎれもない事実だ。彼の居場所はここじゃない。今だけのかりそめのものだ。

『安曇くん、ストレートすぎる言葉はときに誤解を招くよ』

 軽くため息をついて、わざとらしく忠告してみる。私はさっさと席に着いた。彼も椅子を鳴らして腰掛ける。

『そうかな? 俺は自分の気持ちに正直なだけだよ』

 問題集を開きながら彼は告げる。私はもうどう反応していいのかわからなかった。彼は今まで私が接してきた誰とも違っていて、私の知らなかった感情をたくさん呼び起させる。

 ふいっと目を逸らして私はわざとらしく席に着いた。それに倣って彼もいつも通り前の席に座り、うしろを向く。

『今日の課題どう解く?』

 パラパラと教科書をめくる彼に、私は現国の授業内容を思い出してつい眉をひそめた。そして慌ててすぐに戻す。あまり不細工な顔を彼に見せたくない。

 気を取り直して、先生から配られたレポート用紙を鞄から取り出した。

『難しかったよね。どういう切り口でまとめようか』

 宙を仰ぎ見てため息混じりに呟く。授業で取り組んだ論説文のテーマは『命の平等さ』

 緊急時に自分の命を助けるために他者を犠牲にした場合、罪に問われるのか?というカルネアデスの板の話題から始まり、様々な角度から命の重さについて話は進んでいく。

 そして最終的に筆者の問いかけで文章は締めくくられる。

『各々の命の重さが同じなのだとしたら、ひとりの命で多くの人間の命が救われる事態になった場合、それは是か非か』

 私はわざとらしく息を吐いた。

『アメリカ映画によくありそうな展開だね』

 映画にはあまり詳しくないからあくまでもイメージなんだけれど。投げやりな私に対し、彼はふふっと笑った。
 この命題に対し冬休み明けまでに自分の立場を明確にさせ、考えをまとめたものを提出しなくてはならない。

 いつもこういった問題は書きやすい方の視点に立ってから文章を組み立てるのに、今回はそれ以前の問題だ。

『安曇くんはどう思う?』

『俺は、ありかな』

『そうなの!?』

 あまりにも迷いのない彼の回答に私はつい反射的に声をあげた。まじまじと見つめる私に彼はおもむろに目線を落とした。

『どうせ限られた命なら、誰かの、なにかのために役立てたいって俺は思うんだ』

 どうしてか、彼の言い分がものすごく寂しく感じた。訳がわからないまま勝手に衝撃を受けている自分がいる。

 だから、私はとっさに「違う!」と否定しなければという気になった。けれど喉まで出かかった声は音にならず自分の中に再びぐっと飲み込む羽目になる。

 否定したところで私は自分の答えをはっきりと見つけられていないから。

 私はどう思うの? 誰かの命で大勢の命が救われるなら。もしも自分の命で――。

『安曇くんは……』

『穂高』

 はっきりとした口調で彼は言い聞かせるように自分の名を口にした。目をぱちくりとさせる私に彼は頭を掻いて補足する。

『今さらだけど名前でいいよ。アメリカではそれが普通だったし』

『いや、でも』

 まさかの提案に私はうろたえた。そんなことをしたら彼に気のある女子たちになにを言われるか。彼の告白現場を目の当たりにしているから余計にそう思う。

 とはいえ、今まで現場に居合わせる機会がなかっただけで、風の噂で彼に想いを告げた女子が何人もいるのを私は知っている。

 その結果がすべて実らなかったことも。

 私が彼と張り合うだけの成績だからこうして一緒にいるのを許されているのであって、いいように思っていない人間が多いのも事実だ。

『なら、俺もほのかって呼ぶから』

 なのに彼はそんな私の事情などおかまいなし。勝手に話を進めていった。

『なんだか俺たちの名前って似てるな』

 “ほだか”と“ほのか”。たしかに一文字違いだ。彼はすごい発見をしたとでもいうように顔を輝かせている。続けて真面目な表情に切り替わった。

『運命かも』

『なんの?』

『それは、これから考える』

 彼の回答に私はやっぱり笑ってしまう。クリスマス前に冬休みがやってくる。夏休みや春休みに比べると短いけれど、彼に会えなくなるのは少しだけ寂しかった。

 とはいえプライベートで会おう、と誘える気軽さは私にはなかったし、彼だってそのつもりもないと思う。

 そもそも彼が学校をよく休む理由さえ話してもらったこともないし、私も自分から聞いたりしなかった。踏み込んでいいのか迷って、自分と彼との関係に戸惑う。

 内心では異性なのもあって、彼をはっきりと友達と呼んでいいのかも確信が持てずにいた。それは私が今までこんなふうに男子と特別親しくなる経験がないからなのもある。

 名前で呼び合おうと彼から言ってもらえて本当は嬉しかった。

 年が明けて三学期になったら、みんなの前では無理でも彼とふたりのときには思い切って名前で呼んでみようかな。

 本人には告げず、心の中でひっそりと決意する。

 けれど結局、彼を名前で呼ぶ機会は訪れなかった。それどころか会うことさえ。

 年の瀬に飛び込んできた月が一年以内に地球に落ちてくるというニュース。世界の秩序は崩れ、学校どころではなくなった。

 学校に通う生徒は激減し、家庭の事情でと退職する先生も何人もいた。混乱の中、三学期が始まったので一応、学校に顔を出したものの安曇穂高の姿はなかった。

 当然だと思う。みんな、残された時間をどう過ごすのか嫌でも選択を迫られていた。私も結局、学校には行かなくなった。

 あれから半年以上も地球がもったのが奇跡だ。だから、なのかもしれない。今だからこそ彼に会いに行けるのかも。
 彼の、正確には彼の祖父母宅はなかなかの豪邸だった。昔の町の中心部と言われている平屋が並ぶ一角にあるひときわ大きなお屋敷。

 『安曇』という珍しい名字もあわさって、大体の位置だけを覚えていたらたどり着けた。

 瓦屋根が黒々と輝いて、門構えからして違う。木の格子の玄関は伝統と重みを感じさせた。

 おかげで勢いに任せて来たもののインターフォンを鳴らす手前で、冷静な自分が歯止めをかけた。

 半年も音沙汰なく突然家まで押し掛けて、どう思われるだろう? そもそも彼はいるのかな。こんな状況だし、とっくにアメリカに戻っているかもしれない。

 あれこれ考えを巡らせたが、最終的に私はインターフォンを鳴らした。迷う時間も惜しい。

『はい』

 機械を通した硬い女性の声が聞こえ、私は麦わら帽子をさっと取って挙動不審気味に自己紹介する。

「あのっ、私、紺野ほのかと言います。安曇穂高くんと同じ高校で………安曇くんはご在宅ですか?」
 
 この聞き方でよかったのかな?

 しばらくの沈黙。どうしよう、と後悔にも似た感情が心拍数と共に上昇する。そのとき重厚なドアががちゃりと音を立てたので思わず肩が震えた。

「ほのか?」

 当然のように名前を呼ばれたことよりも、懐かしい顔に心が揺れる。変わらないとは言えない。痩せたというか、やつれたというか。疲れた顔をしている。

 でも仕方ない。私だって人のことは言えないし。けれど、彼はやっぱり彼だった。懐かしくて、切ないと呼ぶ感情が込み上げてくる。

 私はぎこちなくも微笑んでみせた。まるで家出娘が帰ってきたかのように。

「……久しぶり」

「どうした? 世界の終わりに俺に会いたくなった?」

「うん」

 茶目っ気交じりの彼の問いかけに素直に頷くと、安曇穂高は大きい瞳をさらに見開いた。

『とにかくあがりなよ』という言葉を受けて、迷いながらも私は家にお邪魔する流れになった。

 外観からの予想を裏切らず中の作りも立派で、モダンとでもいうのかな。いい具合に和洋折衷で大きな油絵なんかも掛けてある。

 先ほどインターフォン越しに対応したのは、彼の祖母で『おばあちゃん』というより『マダム』と呼ぶのがぴったりの素敵な老婦人だった。

 髪は白いけれど艶があり、毛先は緩やかに丸まっている。おそらく癖毛なんだろうな。髪質の硬い私とは正反対だ。

 やはり彼女の顔にも疲労感が滲んでいて、いきなり現れた来訪者に戸惑いつつも受け入れてくれた。

 安曇穂高はさっさと二階の自室に行くよう促すので、私は躊躇いつつも彼についていく。

「どうした?」

 この質問は、私が彼を尋ねてきたことに対するものではなく、彼の自室の前で足を止めたことに対してだ。

「えっと、よく考えたら男の子の部屋に入るのって初めてだなって」

 そもそも男子の家に来たのも初めてかもしれない。理由を白状すると、安曇穂高は吹き出した。

「家まで押しかけておいて、今さら?」

「そ、そうだね」

 我ながら大胆な真似をしたと思う。世界の終わりじゃないと、きっとこんな行動は取らなかったし、取れなかった。彼は笑って自室のドアを開ける。

「大丈夫。俺も女子を部屋にあげるのは初めてだから」

 私を気遣っての彼の言葉にどういうわけかホッとする。同じ初めてだからかな。浮上した気持ちを抑えつつ部屋に足を踏み入れた。

 私の自室より広く、余裕で十畳ほどはあり、失礼を承知で部屋中に視線を飛ばす。異性とはほぼ縁なく生きてきたので、なんだか新鮮だ。

 ベッドの真向かいには小さなソファがあって、奥には勉強机。隣には大きな本棚がある。小型の冷蔵庫もあって、少しだけ羨ましく思った。

 壁には外国人バスケットボール選手のポスターが貼ってあったり、本格的な天文表も目を引く。

 本棚には意外にも漫画が並んでいて、彼の年相応さを感じた。それでいて難しそうな分厚い英語の本が半分以上を占拠している。

 相場は知らないけれど、そこそこ値段が張りそうな望遠鏡が窓際に存在感を放ちながら陣取っていた。

 アンバランスのようで心地いい。それはここが彼自身を凝縮させたようなものだからなのかも。

「元気にしてた?」

 ふと問いかけられ、私は彼に意識を戻した。ソファに座るよう勧められ、おとなしく腰を下ろす。

 彼は小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取りだすと、こちらに手渡してきた。小さくお礼を告げ、私はようやく返答する。

「それなりに。そっちは?」

「見ての通りかな」

 正面のベッドに座り、彼はペットボトルの蓋を回した。カチカチという独特の音が部屋に響く。

 彼は数種類の錠剤を手に取り、口に含む。食糧不足の今はこうしてサプリメントでカロリーや栄養を補ったりするのが当たり前だった。

「アメリカには帰らなかったの?」

 今度は私から問いかけたが、彼は水を飲んでいるのですぐには答えない。豪快にゴクゴクと飲む姿は男子っぽかった。

 自分にはない喉仏が上下するのをぼんやり見つめる。そして、彼がペットボトルから口を離した。

「色々事情があって」

「そっか」

 なんとも表面的なやりとり。でも深くは聞かないし、聞けない。年が明けてから今まで、なんの苦労も苦悩もなく過ごせた人はきっといない。

 そこは暗黙の了解だ。

「で、いきなりどうしたんだよ?」

 わざと明るめに振られた彼の質問は真っ当なものだった。でも言葉が続かない。

 本当に久しぶりに外に出て、そこで月に怯えるカップルに偶然に会って、そのとき彼の言葉を思い出して……。

 あれこれ思い巡らせた結果、私は正直な部分を打ち明ける。

「会いたく、なったの」

 しかし発言してすぐに後悔と羞恥心に襲われる。

 これでは、まるで恋人かなにかだ。私たちは普通のクラスメートよりは親しかったかもしれないけれど、そんな特別な関係でもない。

 慌てて言い直そうと口を開こうとした瞬間、先に彼が続けた。

「俺も会いたかったよ」

 耳鳴りがしそうなくらい部屋が急に静まり返った気がした。彼の顔は穏やかで、からかいなどもなく真面目だった。私の訂正の言葉を封じ込めるほどに。

 続いて数秒遅れで体が勝手に反応する。血が沸騰したんじゃないかと思うほど全身が熱くなり、勢いよく私はうつむいた。

 膝の上で握り拳を作り、存在を煩く主張する心臓の音が体中に響くのをただ受け入れる。

 いちいち彼の言葉に翻弄され過ぎだ。彼がストレートな物言いをするのは、もう十分にわかっているはずなのに。そもそも私だって同じことを彼に言ったわけで……。

「ほ、他にも学校の誰かに会ったりした?」

 訂正しない代わりに無理やり話題を変える。ちらりと彼を見れば、少しだけ複雑そうな表情をしていた。

「……いや。ほのかだけだよ」

 それでも律儀に答えがあり「そっちは?」と返されたので私も、素直に答える。

「私も、誰にも会っていない。ずっと家に籠っていたから」

「なら、今ここにほのかがいるのは地球が助かるのと同じくらいすごい確率なんだ」

 今度はおどけた口調で告げられた。おかげで私も乗っかる。

「そうだよ。私がここにいるのは、ある意味奇跡なんだからね」

 口にして彼と目が合い、どちらからともなく笑みがこぼれた。こんなふうに自然と笑ったのはいつぶりだろう。

 世界が終わるかもしれない事態に直面して、大げさかもしれないけれど私が笑えたのはこのときが初めてだったかもしれない。硬かった空気が一度崩れると、懐かしい雰囲気に包まれる。
「へー。ほのかはこんなときでも相変わらず予習復習をしていたわけだ」

「そういう言い方ってどうなの」

 私はつい口を尖らせる。まったく緊張感がないのもいいところだ。軽口を叩き合いながら私と彼は他愛ない話で盛り上がった。まるで放課後にふたりで勉強していた時に戻ったかのような感覚。

 けれどそれが私の心を落ち着かせていく。その延長線上で私は彼に尋ねた。

「安曇くん、宇宙好きだったよね。今の状況をどう思う?」

「なかなか切り込んでくるね」

 ここで深刻そうな顔をされたら、私はきっと自分の振った話題を後悔した。けれど彼はおもしろおかしそうに笑っている。

 だから私も下手に気を使わずに素直に返せた。

「だって聞きたくなったの。安曇くんは今の世界をどんなふうに思っているんだろうって」

「なんで俺?」

「それは……」

 彼はいつも私とは違う世界を見ていた。考えを持っていた。私とは違い、はっきりとした自分の信念にも似たものを。

 答えに窮している私に対し、彼はわざとらしく窓の方に目をやった。

「今の状況がどうというより、もしも本当に月が地球に落ちてくるなら、そのときは肉眼でしっかりと目に焼きつけるべきか、それとも望遠鏡を通して見た方がいいのか、いっそのこと宇宙にでも行って見るべきなのかは悩むところだね」

 足元には大きなトランクが置いてある。やっぱり帰国も考えたのかな。それともそんな予定でもあるんだろうか。

 湧き出る疑問を口にはせず、改めて彼を視界に捉えた。

「今、なにか見えるの?」

「月は見える」

 間髪を入れずに返ってきた答え。それは望遠鏡を使うまでもないんじゃない?

「そういうのじゃなくて、こう……おすすめの星とか」

 勢いのまま続けると彼がぽつりと呟いた。

「アルビレオ、かな」

「アルビレオ?」

 おうむ返しをすると、彼はぱっと明かりが灯ったように血の通ったいきいきとした表情になった。

 そして私の前を横切って壁の天文表を指し示す。

「ちょうど今綺麗に見える時期で、はくちょう座のくちばしにある星なんだ。北十字星とも呼ばれて、それを構成している」

 星や宇宙の話をするとき、彼はいつも子どもみたいに楽しそうで溌剌としている。

 私は余計な口を挟まずに話を聞き入った。まるで先生と生徒。久しぶりに学校みたい。

「ほのか、知ってる? アルビレオは肉眼で観るとひとつの星に見えるんだけど、実はふたつの星が連なってるんだ」

「そうなの?」

 彼は白い歯を覗かせた。見慣れた位置にえくぼができる。

「そう。『天上の宝石』っていわれてて、オレンジの主星と青い伴星からなるんだ。このふたつは見かけの重星なのか、互いに重力的な影響を及ぼす真の連星なのかはまだはっきりとしていないんだけど、いつもそばにいて互いに輝き合ってる。望遠鏡で見ると、はっきりわかるよ。めちゃくちゃ綺麗なんだ」

 専門用語を交えながらも彼の勢いは止まらない。私が把握できたのはふたつの星の色くらい。けれど十分に心は動かされた。

「見てみたいな」

 気づけば素直に希望を口にしていた。ところが彼は意表を突かれた顔になる。

 なにかまずいことでも言ったかな?

 私の不安をよそに、安曇穂高はしばし考えを巡らせる素振りを見せた。そこでふと思い直し「本気にしなくてもいいよ」と付け足そうとする。

 しかし、なにかを閃いたのか悪戯を仕掛ける相談でもするかのような笑顔を彼はこちらに向けてきた。

「なら見に行こうか」

「へ? どこに?」

「西牧(にしまき)天文台へ」

「えっ!」

 まさかの提案に私はつい大きな声を出してしまった。西牧天文台は月城市に隣接する西牧村にある。

 市でも町でもなく村だ。市町村合併が進んだ今でも村として名前を残し頑張っていて、その西牧村にはいくつかの有名施設がある。

 そのひとつが今挙げた県内唯一の天文台だ。私は小学校の頃に社会科の授業で行ったっきりになる。

 基本的に天文台での活動は夜になるので、そこまで興味のない私はあまり訪れる機会もなかった。

 まさかそこに行こうと彼が言いだすなんて。

 見たいと言った気持ちに嘘はなかったけれど、なにやら本格的な話になってきた。

「今から行けば夜にはつくよ」

「本気なの?」

「もちろん」

 腕時計を見ておおよその見当をつける彼に、私も時間を確認する。午後一時半。

 隣村まで海岸沿いのバイパスを歩いて十キロほどだ。ただ天文台は山の上の方にあるので、なんとも言えないけれど。

「でも、行っても施設が動いているとは限らないよ? 誰もいなくて閉まっているかも」

「大丈夫。あそこの管理者さんと知り合いだから。あの人は、きっといるよ」

「この状況で?」

「この状況だからだよ」

 あっけらかんと返してきた彼に私はますます意味がわからない。世界がいつ終わるかもしれないというときに、真面目に仕事をしている人はほんの一握りだ。

 かろうじて電気や水道はまだ通っているけれど、スーパーや病院、公共交通機関などはごく一部しか機能しておらず、私たちの生活は不便さと縮小を強いられている。

 ここは田舎だからとくにだ。

「月が落ちてくるかもしれないなんて事態、天文マニアからすると絶対に見逃すわけにもいかないだろうしね」

 私は開いた口が塞がらなかった。彼を含め宇宙や星が好きな人たちの考え方は、私には衝撃的だ。でも、なんだか羨ましい。

 ずっと忘れていたワクワクするという感情が自然に湧き起こる。この逸る気持ちは不安や絶望が原因なんかじゃない。

「世界が終わりそうなときに星を見に行くなんて。私たちって馬鹿なのかな?」

「なんで? 終わりそうなんだから好きなことをしない方が馬鹿だろ」

 彼の切り返しに私は笑った。本当だ。誰になにを遠慮する必要があるんだろう。

 こうして彼に会いに来たのだって、そんな気持ちからだ。

 話が決まればあとは行動するのみ。なんといっても時間は限られている。

 てきぱきと支度を終えた彼は明るい水色のダッフルバッグを肩にかけた。階下に下りると彼は祖母に出かける旨を伝える。

 彼の祖母はなにかを言いたげに眉をぴくりと動かした。さすがに止められるのではとハラハラする。

「そうね、穂高の好きにすればいいわ。気をつけていってらっしゃい」

 不本意と顔に書いてある気がする。無関心でも突き放すわけでもなくて心配しているのは伝わってきた。

 それでもこんな状況だからって最終的には本人の意思を尊重して『好きにすればいい』というのは、なんとも理解がある。

 男と女の違いか。私だったら許されそうもない。お邪魔したお礼を言い、彼の祖母に頭を下げた。

 外に出ると、やはり蝉の声が煩い。空は綺麗な青に染まっていたのに、今は雲が出てきている。

 日差しが遮られるのは有難いけれど天気が悪いと星は見えにくいのではと心配になる。

 空にはやはり不気味な形の月も浮かんでいて、視界を遮るように私は手に持っていた麦わら帽子をかぶった。

「その帽子」

「え」

 彼の指摘に私は首を傾げる。

「初めて見る。ほのかもそういう格好するんだ」

 思えば、お互いに制服姿しか見たことがなかった。今の私は白のフリルがあしらわれたトップスに、動きやすさ重視でチェックのキュロットスカートとスニーカーの組み合わせだ。

 彼に会うつもりでもなかったから、お洒落とか女子っぽさとかは意識していなかった。

「変かな?」

「いや、似合ってるよ」

 ストレートに褒められ、私は無意識に帽子のつばに触れた。

「安曇くんも……」

「穂高」

 なにげなく口にして、彼に強く言い直される。

「名前でいいって言っただろ。俺も呼んでるし」

 むず痒くも温かい気持ちになる。彼の顔を見られないまま私は静かに頷いた。

「うん。穂高の私服も初めて見るけど、よく似合ってるよ」

 ブイネックのボーダーシャツに白い七分袖シャツを羽織り、細身のジーンズを合わせている。シンプルだけど知的な感じがして彼らしい。

「元がいいから」

「そうだね、穂高はカッコイイよ」

 茶目っ気を交える彼に私も応酬する。彼は柔らかく微笑み私に手を差し出した。

「行こう、ほのか」

「うん」

 私は迷わずに彼の手を取った。

 不思議。世界が終わらなかったら、月が地球に落ちてくるなんて状況を迎えなければ、私はこうして彼と一緒に今ここにはいない。

 夜の海みたいに不気味で容赦のなくすべてを飲み込みそうな存在から逃げるために外に飛び出した。逃げ切れるわけもなくて、いっそのこと飲まれてしまった方が楽になるのかもしれないと何度も思った。

 抗うだけ無駄なのかもしれない。でも、その先に掴んだものがこの手なのだとしたら――。

 繋がれた手は骨ばっていて私よりもずっと大きい。力強く一歩足を進め、私は彼と世界の終わりにも関わらず無謀な冒険に出かけた。
 右手には大きな塀があり、その向こうからは規則正しい波の音が聞こえる。私の身長では見えないのが残念だ。すぐそこは海だった。

 潮風と波音で存在を主張している。県庁所在地から大きく東に離れた月城市は山あり海あり川ありと自然の恵みたっぷりで、大きな道路はこうして海沿いに作るしかなかった。

 田舎だと馬鹿にする人もいっぱいいるけれど、私はこの生まれ育った場所が気に入っていた。

 ところが今は自然や環境という言葉は無視され、道にはプラスチックの容器や紙くずなど様々なものがが散乱していて綺麗とは言えない。

 乗り捨てられたような自転車が無残な姿で横たわっている。目を背けたい気持ちに駆られながら私は意識を切り替えた。

 ちらちらと視線を飛ばしながらも左手に注意がいく。穂高とは彼の家を出発してから手を繋いだままだった。

 男の子と手を繋いで歩くという経験なんて幼稚園以来だ。

 勢いで繋いでしまったものの冷静になると、恥ずかしさと緊張で手に汗が滲むんじゃないかと心配になりますます心臓が早鐘を打ちだす。

 振りほどきたい衝動に駆られながらも、私の手は思ったよりも彼に力強く握られているので余計な抵抗はできない。

 きっと彼にとって大きな意味はなく、足元が悪いから転ばないようにと気を使っただけなのかも。

「あまり車通らないね」

 意識を逸らしたくて苦しまぎれに私は呟く。県の中心部からここら辺の市や村へと繋ぐ唯一の大通りなのにほとんど車が通らない。

 もうすぐ高速道路が開通するって話だったのに、それも中途半端に終わっているらしい。

 どこもかしこも渋滞だったのは、月が地球に落ちてくるというニュースが流れた直後の話だ。キャンピングカーが飛ぶように売れ、生産はすぐに追いつかなくなった。

 多くの人々がどこか安全な場所を求め、家族、恋人、大事な人たちを乗せて食料品や生活必需品を詰め込み走っていくさまは、まさにノアの箱舟だ。

 滑稽だとは思わない。私は、私の家族は逃げ出す気力さえなかったから。

 目線を上にし空を見ると、太陽の光を遮る雲が現れさっきまでいた月も隠している。

「昔からさ、地球に一番よく似ている火星に移住するって話がずっと言われてたでしょ? あれって現実的にどうなのかな?」

 ふと、私は思いついた疑問を口にした。たしか彼もそんな話をしていた。

「なに、ほのかは火星に住みたい?」

「そういうんじゃない。仮に移住できてもそこで生きていけるかは別でしょ」

「そうだね。なら火星以外で考えてみようか」

「火星以外?」

 穂高も空を見つめ、口元を緩めた。

「そう。たとえば木星。自転の早さは太陽系の惑星ナンバーワンで地球が一日二十四時間なのに対し、木星は九.九時間しかない。せっかちにはいいかもね。ただし嵐のような暴風が吹き荒れているから飛ばされないようにしないと」

 どう考えてもそれ以前の問題だ。けれど彼の説明が面白くて、私はつい質問した。

「じゃぁ、一番自転が遅いのはどこ?」

「金星だよ。一日を終えるのに百十二日かかる。ほのかみたいにのんびりさんにはいいかもしれないけど、天気はいつも曇りのち硫酸の雨が降るし、温度は四百六十度にまでなるよ」

「全然駄目じゃん」

 あきれ半分で私は返した。もちろん最初からなにも期待していないし、別の星に真剣に移住なんて考えてもいない。

 でも穂高の言い方は興味というか期待というか、そういうのを抱かせるのが上手いと思った。

 私は長めの息を吐く。潮の香りが鼻を掠めた。

「……ほかの惑星からすると地球って本当にすごい星なんだね」

 小学校の理科の時間に先生から『地球は奇跡の星だ』なんて言われた記憶がある。あのときは深く考えずにいた事実が、こうして身をもって感じる日が来るとは。

 この広い宇宙で太陽系の星が水星から海王星まで並び、確認できる範囲でとはいえ私たちの住む地球だけがこうして生物が生きていけるのだと思うとなんだか不思議だ。

「ほのかこそどう思っているんだ?」

「え」

 不意に握っていた手に力が込められる。足を止めて彼を見れば、真剣な顔でこちらを見ていた。

「今の状況。俺にどう思うかって聞いてきたけれど、その前にほのかはどう思ってるんだよ」

「どうって……」

 私は答えに言いよどむ。代わりに穂高が続けた。

「俺は、事情があって月の落下騒動があってから色々な人たちを見てきた。泣いて絶望して自分の家の屋根から飛び降りた人や、とにかく家族だけは守ろうと一家で安全と噂される土地へ行った人。淡々と自分の仕事や使命に精を出す人、信念を持って行動する人もいれば変な宗教や信仰にハマる人もいた。そもそも月が落ちてくるという情報自体を頑なに信じない人も」

 お前はどれなんだ? そんなふうに聞かれている気がして、私は視線を泳がせる。

「私は……受け入れたの。完全にって言ったら嘘になるけど。でも、もう疲れちゃったんだもん。泣くのも、絶望するのも、必死になるのも。だから考えないようにしたの」

 死ぬのが怖くないわけがない。もし本当に月が地球に落ちてくるのだとしたら、その瞬間はどんな感じなの?

 苦しまずに死ねるのかな? 死因はなにになる? 死んだその先はどうなるんだろう。

 何度も何度も頭の中でシミュレーションしてみては、真綿で首を絞められるように息が苦しくて心臓が止まりそうになった。

 勝手に涙が溢れて体が震え、眠ることもできずに頭やお腹、体の至るところが悲鳴を上げる。

 地球が滅びる前に自分がボロボロだった。

 叫びたくて、このモヤモヤを払いのけたくて、走り出したい衝動を必死に抑える。自分を痛めつけたくなる感覚は生まれて初めてだった。

 だから、私はもう考えるのを放棄した。今まで私が必死でやってきたのは勉強だけだったから、なにかに取り憑かれたようにひたすら教科書と参考書のページをめくって問題を解いていく。

 その間は余計な考えに心を支配されずにすんだ。

 勉強以外になにをしていいのかわからず、時間を持て余す日々。カウントダウンが始まっている世界で、時間を持て余すというのもなんだか矛盾しているけれど。

 三学期になり学校にもしばらくは通っていた。でも生徒も教師も人数は徐々に減る一方で必然的に学級閉鎖の状態となった。しょうがない。

 ただ穂高の姿がなかったのには少しだけ胸が痛んだ。彼に会うのを期待して真面目に通っていたところもあったから。

 そんな彼と今、一緒にいるなんて信じられない。月が地球に落ちてくるっていう事実ほどに。なにもかもが夢みたい。それならどこまでだろう?

 境界線がぼやけて苦笑する。どうやら私はこの期に及んでもまだ、現実を受け入れられてないみたい。
 空を映していた瞳を正面に戻す。すると遠くから車が近づいてくるのが見えた。

 色は黒で高級そうな雰囲気だ。デザインが少し珍しい。車には詳しくないのでメーカーまでは判断できないけれど、おそらく外車かな?

 ついじっと注視していると、車は反対車線なのにも関わらず、あろうことか私たちの少し手前で止まった。端に寄せハザードランプがチカチカと灯りだす。

 位置やタイミング的に私たちに用があるのだと直感する。驚きが隠せず、怖い人が出てきたらどうしようと嫌な想像が脳裏を過ぎった。

 穂高も警戒心を露わにして私の手を引き、自分の方に寄せた。   

 ところが後部座席のドアが開き、降り立ったのは見覚えのある人物だった。

「安曇くん!?」

 私は目を丸くする。穂高の名前を呼び、こちらに早足に駆け寄ってきたのは隣のクラスの渡辺さんだった。偶然、穂高に告白しているのを聞いてしまった相手だ。

 制服ではなく水色のワンピースを身にまとっている渡辺さんは、痩せて髪も短くなっていた。それが彼女の大人っぽさに拍車をかけている気がする。

 彼女は私に目もくれず、一目散に穂高に寄った。

「よかった。無事だったんだ」

 渡辺さんは安心した表情を見せ、ちらりと車の方に顔を向けた。

「あのね、今からお父さんの知り合いで、隕石の専門家に会いに行くの。安曇くんも行かない?」

「隕石の専門家?」

 穂高はオウム返しに尋ねる。私も話の意図が読めず、黙って耳を傾けた。

「うん。その人が中心になってね、一部の人たちが巨大な地下シェルターを作っているんだって」

 そういった類の話は与太話も含め、散々聞いてきた。一部の政治家や権力者は、都心の地下深くに国民には内緒で自分たちのためだけに巨大なシェルターを作っているんだとか。

 どうしても胡散臭く感じてしまう。渡辺さんの話がどこまで本当なのかはわからないし、聞いた噂の件とは別なのかもしれないけれど。

 私たちの訝し気な空気を汲み取ったのか、渡辺さんは声のトーンを上げて必死に続けた。

「ほら、隕石がぶつかって恐竜は絶滅したけど、すべての生物が死に絶えたわけじゃないでしょ? しばらく地上で生きられないなら、それまで強固な地下深くのシェルターで生活すればいいのよ!」

 彼女の瞳には曇りなどなく、むしろ希望で満ち溢れている。疑いなど微塵もない。

 おかげで、私の気持ちも揺れそうになる。もしも、そんなシェルターが本当にあるのだとしたら……。

「ね。でもシェルターには限りがあって、特別な人しか入れないの。私たち家族は選ばれたんだけれど、お父さんに頼んで口をきいてもらうから。だから安曇くんも行こう」

 まるでここにいないかのように扱われる私は、穂高の返事を緊張して待つしかできない。彼の表情だけでは、相変わらずなにを考えているのかわからない。穂高はふっと笑った。

「ありがとう。でも遠慮するよ」

 虚を衝かれたのは私だけではなく渡辺さんもだ。すかさず彼女が噛みつく。

「なんで? こんなチャンス、もうないよ!? ここで私に会えたのはとんでもない奇跡なんだから」

 穂高は詰め寄られながらも笑みを崩さない。

「俺は、特別な人間じゃないからね」

「そんなっ! 安曇くんは十分に才能もあって、他の人にはない特別なものが……」

「それに」

 ここで初めて穂高が渡辺さんの話を遮った。そう大きくない彼の声が勢いのある彼女を止める。そして同じく成り行きを見守っていた私は、急に彼の手によって場の中心に引っ張り出された。
 
「俺には彼女と行くところがあるから」

 私の肩を抱き、にこやかに答える穂高に対し私は渡辺さんと今日初めて目が合った。彼女は綺麗な顔を歪め、まるで親の敵を前にしたかのような形相になる。

 血色のいい唇を噛んで彼女がなにかを発しようとした。

 ところが、その寸前で車のクラクションが鳴り場の意識はすべてもっていかれる。痺れを切らした彼女の父親が乱暴にハンドルを叩いたのが伝わってきた。

「馬鹿じゃないの!?」

 渡辺さんは吐き捨てて、さっさと車に戻っていく。ドアが閉まったのとほぼ同時に車はアクセル全開で、あっという間に消えていった。

 エンジン音が遠くで木霊して、波の音がそれを攫う。あまりにも突拍子もない出来事に私は口をぽかんと開けた。穂高の手が肩から離れ、私はようやく彼に視線を移す。

「……よかったの?」

 どうしてか私は申し訳ない気持ちを抱えていた。

「うん。正直、隕石の専門家には少し心動かされたけど、シェルターには興味ない」

「でも、もしも渡辺さんの話が本当だったら……」

「隕石と月とじゃ体積も威力も比べものにならないよ。仮に耐えうるシェルターがあったとしても俺の返事は変わらない」

 未練も強がりもまったく感じられない。穂高はなにげなく帽子越しに私の頭に触れた。

「だから、ほのかは気にするなよ。ほのかがいたからとかじゃない。それに彼女の態度、かなり失礼だったろ」

 穂高が言っているのは渡辺さんが私を無視していたことだろう。でもあれは無視というよりいちいち気にかける時間さえ惜しかったんだと思う。

 時間はみんな限られて切羽詰まっている。そんな中、渡辺さんはお父さんに頼んで車を停めてもらい、わざわざ穂高に声をかけてきたんだ。

 彼女のまっすぐな気持ちが、少しだけ羨ましかった。私はそこまで誰かに心を動かされたり、誰かのために行動するとかあったかな。
『でもシェルターには限りがあって、特別な人しか入れないの』

『俺は、特別な人間じゃないからね』

「……穂高は特別でよっぽど価値のある人間だと思うけどな」

 渡辺さんが穂高も連れて行きたいと思ったのは彼に対する好意の他にも、彼の能力に惹かれた部分もあると思う。

 どういった基準かは定かではないにしても、もしもシェルターに入れる人間を選別するのだとしたら、間違いなく彼は選ばれだろう。

「そんなことない。だいたい、特別や価値って誰が決めるんだよ」

 珍しく怒った口調だった。私はぎこちなくも微笑む。

「本当、そうだね」

 そこで私は唐突に話題を振った。

「冬休み前、現国の時間に出された課題の内容を覚えてる?」

 前触れのない会話のパスに穂高は大きい目を瞬かせた。

「『一人の命で多くの人の命が助かるのだとしたら』ってやつだよ」

「ああ」

 私の簡単な説明で彼はすぐに思い出したようだ。私はわざと明るく続けた。

「あのときは、いまいちピンとこなくて、自分の考えもはっきりさせられなかったんだ。おかげでどう課題に取り組もうか悩んだけれど、今この状況なら誰もがイエスって答えそうだよね」

 わざと穂高の顔は見ずに前を見据える。映画にありそうどころかリアルにありえそうな事態になってしまった。

「ほのかも?」

 穂高の問いかけに言葉を迷い、私はそっと目を伏せた。

 月が地球に落ちてくる可能性が高くなって、今まで以上に理不尽な出来事が増えた。

 なにも悪いことをしていない善良な人たちが簡単に亡くなって、自分勝手で他者を押しのける人たちがまだ生きていたりする。裁く人も咎める人もいない。

 希望を抱くのも馬鹿らしい。けれどそうやって人の醜さが露わなっていく世界で、つらいニュースや報せを聞くたびに胸が締めつけられるのは、非難からでも絶望からでもないと気づいてしまった。

「私も……同じだよ」

 出せた声は震えていた。まるで罪を告白するみたいに。

「私も自分が助かりたくて、誰かを犠牲にするかもしれない。誰かの命で大勢の人が……自分が助かるならイエスって言うかもしれない」

 自分の中にもそんな感情が眠っているなんて思いもしなかった。汚くて醜い真っ黒な部分。

 それでいて世界のためにも、誰かのためにもなにかしようと動くこともできない。非力で無力で、自己嫌悪に陥って殻に閉じこもっているだけ。

 もっと自分になにか誇れるものがあったら。渡辺さんみたいに自分は当然、特別な人間だって思えるほどの揺るぎのないものがあったら――。

「私はどうして生きているのかな?」

 生まれてきた意味って? 私の価値ってなんだろう? 

「ほのかが生まれて、今日まで必死で生きてきたから今ここにいるんだろ」

 深みにはまりそうな思考を、穂高の力強い声が引き戻す。まっすぐな眼差しが私を見据えていた。

「誰かを犠牲にするにしたって、ほのかはきっと結論を出すのにすごく迷うんだと思う。現に今も迷っているんだろ。正しい、正しくないかじゃなくて、自分の気持ちの奥底にあるところで」

 疑問系じゃなく確信めいた言い方は、反発心どころかストレートに私の心に飛び込んでくる。一つひとつ、はっきりと彼から紡がれていく言葉が沁みていく。

 穂高はふっと優しく微笑んだ。

「大丈夫。綺麗なだけの人間なんていないよ。なんだっけ。聖人君子? じゃあるまいし。だからいいんだよ。悩んで迷って出した答えは、どんなものでもきっと意味があるから」

 穂高はそう言って私の手を再び取った。指先が大きな手に包まれる。

「俺はさ、ほのかがここにいてくれて嬉しいよ。なんたって奇跡なんだろ?」

 最後は軽やかな口調にウインクまで飛んできた。

『私がここにいるのは、ある意味奇跡なんだからね』

 彼の家で思わず放った台詞だった。でも奇跡ならさっき彼女も言っていた。

『ここで私に会えたのはとんでもない奇跡なんだから』 

 だから、おずおずとつい可愛くない切り返しをする。

「渡辺さんに会ったことよりも?」

 穂高はまるでさっきの渡辺さんとのやりとりなど忘れていたとでもいう表情だ。目を丸くした後で、やっぱり彼は笑った。繋いでいる手を軽く持ち上げ、今度は白い歯を覗かせて思いっきり。

「もちろん。俺にとってはこっちの奇跡の方がとんでもなく貴重だね。だから手放すわけにはいかないんだ」

 貴重なのは、こうして今一緒にいるのが奇跡だと思うのは、私も同じだ。むしろ彼以上にそう感じている。

 誰にも吐き出せなかった自分の心の奥底にある感情を、まさか穂高の前で吐露するとは思ってもみなかった。痛みさえ伴ったけれど、逆にそれが教えてくれた。

 大丈夫、彼も私もまだ生きている。

 伝わってくる彼の手の温もりを感じながら。そんな単純な事実に私はひどく安心した。
 歩幅的にどうしても彼が私の手を引く形になる。それでも私に合わせてくれているんだろうな、というのが伝わってきた。

 影がないので視界は開けている。ずっと遠くまで見渡せそうで目を凝らしてみたけれど景色はあまり変わりそうにない。

 冷夏で、かつ雲が太陽を遮っているとはいえ七月の気候は歩いているだけで体力を消耗していく。

「ねぇ!」

 不意に、別の方向からやや高めの声が飛んできた。

 のろのろと首を動かし声の主を探せば、道路を挟んだ反対側から小学校中学年くらいの少年が切羽詰まった表情をこちらに向けている。

 律儀に左右を確認し、彼は迷わず私たちのところに駆け寄ってきた。ボーダーのTシャツに短パンとまさしく少年といった格好で、ひょろりとした手足はいい感じに日に焼けている。

 麦わら帽子と虫取り網を持っていれば完璧だ。けれど今はそういった事態ではないみたい。

「猫、見なかった? 茶色いぶちですごく体が大きいの」

 なんの前振りもなく彼は質問してきた。私と穂高は思わず顔を見合わせる。

「見て、ないな」

「そうだね。猫は見てないと思う」

 私たちの回答に少年があからさまに落胆の色を顔に浮かべ肩を落とす。

「やっぱ食べられちゃったのかな」

 冗談でもなく彼は本気だった。『そんなわけないよ』と反射的に言ようとしてやめる。

 ここらへんではわからないけれど、食料供給が追いつかずリアルに今は犬猫さえ食べられてしまう時代だ。

「きみ、おうちこの辺?」

 励ましや慰めの言葉がかけられず、今度は私から聞いてみる。彼は大きく頷いた。

「うん。じいちゃんが店をしてるんだ」

「お父さんとお母さんは?」

「いないよ」

 私は一瞬、反応に困る。答えた彼は私とは対照的にあっけらかんとしていた。

「今の俺の家族はじいちゃんとミケなんだ」

「そっか。俺たちも気にかけとくよ。ミケ、見つかったらいいな」

 優しく答えたのは穂高だった。少年は笑顔になる。

「俺んち、『谷口(たにぐち)商店』ってとこだから、品数少ないけどよかったら寄ってよ。じいちゃんも喜ぶだろうし。じゃあ俺、猫を探すから!」

 再び道路を渡り、民家側の細い道に入っていく少年を私たちは見送った。元気いっぱいのように見えて、彼なりに背負うものはきっと色々あるんだろう。

「家族がいなくなったら探すのは当然だよね」

「ほのかの家族は?」

 突然の質問に目を瞬かせると穂高は困ったように笑った。

「俺は出かけてくるって伝えたけど、ほのかは大丈夫? こんな状況だし、ちゃんと連絡しておかないと……」

「うちは平気」

 彼の心配を払拭するように明るめの声で私は答えた。そして自分から足を進めだし、先を促す。

「お父さんは警察官で忙しいの。ここらへん一帯を担当しているみたいで、それこそこのご時世、治安も不安定なのに人手も足りないし、いつも忙しくていつ帰ってきているのかもわからないくらいだし」

 彼の顔を見ないまま一方的にまくし立てる。波の音、そして蝉の声がやっぱり煩い。太陽がまた顔を覗かせ、地面を明るく照らしだす。

「お母さんは? それにほのか、妹がいるって言ってなかったか?」

「……ふたりとも、もういない」

 予想通りの沈黙がふたりを包む。もしかして穂高は今、さっき少年に質問して答えが返ってきたときの私と同じような気持ちになったのかな。だとしたら申し訳ない。

 でもフォローの言葉も浮かばず黙々と足を動かす。そうやって彼よりも先に歩いていた気がするのに、いつのまにか地面に映る私たちの影は並んでいた。

 そして彼の影が動いたのを見て私は顔を動かす。穂高と目が合ったときには、すでに彼の手が頭に触れられていた。

 麦わら帽子越しだから直接じゃない。けれど彼の大きな手のひらの感触が伝わってくる。

 この接触がどういう意味なのか理解できない。同情しているのか、彼なりの慰めなのか。

「俺は、今こうしてほのかと一緒にいられてよかった。ここにほのかがいて」

 どんな言葉を投げかけられても上手く返そうと思っていた。なのに、これは不意打ちだ。彼の落ち着いた声は、目の奥を熱くさせる。無意識に繋いでいた手に力が入った。

 汗ばむのとかもう気にならない。穂高は改めて握り直してくれた。

 私はまだここにいてもいいのかな? 世界が終わるそのときまで。

「少し休もうか」

 穂高の家を出て一時間以上になる頃に、彼から提案してきた。

 さすがに疲れを感じていた私は小さく同意する。ここまで歩いたのは久しぶりで、普段部屋に引きこもりがちの私としては、情けないけれど足が棒みたい。

 今日より明日の方がよっぽど痛むだろうな、と予想するとわずかに憂鬱な気持ちになる。それでもいいか。明日が無事に訪れればの話なんだから。

 日陰に入ったおかげで体感温度は下がった。どちらからともなく手を離し、屋根のあるバス停のベンチにふたり並んで腰掛ける。

 プラスチックの青いベンチは色褪せてあちこち汚れているし、座る必要がないなら遠慮したいところだ。でも今はそうも言ってられない。本当に疲れた。

 ごみの収集もないから、道路にもここにも多くのごみが散乱していた。見慣れた風景が荒れていくのを見るのはなんとも言えない。

 手だけじゃない、じんわりと体全体が熱い。熱が発散できず、中にこもっているような感じだ。

「大丈夫か?」

「うん。普段まったく運動しないから」

 眉尻を下げて私は答えた。彼の家でもらった飲みかけのペットボトルを鞄から取り出し、蓋を開ける。

 すっかりぬるくなっていたけれど、火照った内臓には冷たく感じた。のどを潤し胃に届く。ほっと一息ついて目を閉じた。

 体力が落ちているのは運動不足のせいだけじゃない。今は慢性的に食料不足に陥っているのもある。生産や流通などが滞って、豊食と言われていた頃が嘘みたい。

 一部の権力者や裕福層が買い占めている、なんて噂もあるけれど少なくとも近くのスーパーは閉店が相次ぎ、お父さん経由でもらってくる食材などで我が家はなんとか食いつないでいる。

 今日の私のお昼は少しのご飯、おかずは熟れたきゅうりを炒めて塩こんぶをかけて味付けしたものだ。

 一応、お父さんの分もいつも残しておく。満足な食事などほとんどできず栄養も偏る。そうなると極力エネルギーを使わない生き方をするしかない。

 金銭トラブルで揉めるよりジュース一本で命がけのケンカが起こる確率の方がよっぽど高いのが現状だ。

「つらかったら言えよ。無理しても意味がない」

 私はゆるゆると目を開け、左に座る彼に視線を送った。

「大丈夫。穂高こそ無理しないでね」

「無理?」

「うん。なんだか顔色がよくない」

 屋根下の影にいるという要因もあるのだろう。それを差し引いても彼の顔色は青白く見えた。なんだか息も荒い気がする。

 もしかして私よりも彼の方がよっぽど――