バイバイまたね、クドリャフカ

「そうだ。お姉さんもよかったら肉食べていきなよ! ね、じいちゃんいいだろ!」

 谷口さんはトングを持ち上げ、『おう』と軽く返事する。宮脇さんだけが席に着いて黙々とお肉を食べていた。

「どうしてお肉が……」

「じいちゃんが牛を育ててるんだよ! 俺も世話、手伝ってるんだぜ」

 理恵さんの質問に健二くんは胸を張って誇らしげに答えた。それでピンと来たのか理恵さんが谷口さんを見た。

「もしかして……『おおつき食堂』をされていました?」

 肉を焼いていた谷口さんが手を止めこちらに顔を向けた。

「ああ。節子(せつこ)が、家内が元気なときにやってたんだよ。あんた地元の人かい?」

「はい。小さい頃、おおつき食堂さんによく両親とお邪魔しました。お肉がとても美味しくて、県外に出てもよく思い出してましたよ」

「そうか、それは有り難いね」

 谷口さんの視線は再び七輪の上に向けられる。一見、無表情に見えるけれど、微妙に口角が上がっている。嬉しさが隠しきれていなかった。

「あんた、名前は?」

「石津理恵です」

「ああ、東島(ひがしじま)の石津さんのとこかい?」

「はい」

 谷口さんは合点がいったという顔で今度は素直に笑う。目尻の皺を増やし目を細めた。

「おー。ってすると、あの小さかった女の子があんたかい。覚えてるよ。ご両親は元気かい?」

 理恵さんの顔が曇り、私は勝手にハラハラと成り行きを見守る。控えめの声の理恵さんの声がさらにすぼめられる。

「……父も母も亡くなりました」

 小さいけれど凛とした声は全員が聞き取れた。

 無関心だった宮脇さんもさすがに反応して、口に運ぼうとしていた肉を皿に戻す。そしてじっと理恵さんに視線を送る。

 沈黙を受けてか、理恵さんはゆっくりと語りだした。

「月が地球に落ちてくる可能性が高いって報道されて、両親は私に会社を辞めて実家に戻ってくるように言ってきました。でも私は半信半疑で……仕事もあるし、すぐに帰るのは無理だって取り合わなくて」

 一つひとつを思い出すような、後悔を乗せた声色だった。私は自然と自分の手を強く握る。

「あの頃は電話もインターネットも繋がりにくくなっていましたから、直接話そうとしたのかもしれません。それで私を車で迎えに来ようとして両親揃って事故にあったんです」

 『月が地球に落ちてくる』

 そのニュースが世界を駆け巡ったとき、大半の人々は冷静さを失った。混乱と動揺により、多くの場所で事故が相次ぎ殺人や強奪なども増えた。

 国民的アイドルが『月に殺されるくらいなら自分で命を終わらせる』というセンセーショナルな遺書を残し自殺したことで、自殺者も後を絶たなかった。

 たくさんの人が亡くなる日々で報道も追いつかず、正確な数も出来事も知らない。あまりにも死がありふれて感覚が麻痺しそうになった。

 誰も言葉を発しない。この沈黙を裂いたのは意外な人物だった。

「お姉さんも父さんと母さんがいないんだ。なら俺と同じだな」

 声変わり前のあどけない健二くんの声が場を包む。彼はにかっと白い歯を見せて笑うと、理恵さんの手を取った。

「でも俺には、じいちゃんとミケがいるんだ。お姉さんも家族になればいいよ」

「え……」

「とにかく飯食おうぜ。おい、兄ちゃん。全部ひとりで食うなよ」

「食わねーよ」

 最後は宮脇さんに対しての台詞だ。唖然としている理恵さんの手を引いて健二くんは座るように促した。

「あら? これってどういうことなの?」

 またまた唐突に第三者の声が間に入る。穂高が『え?』と小さく声を漏らし、私も声の主を視界に捉えて目を見張った。

 驚いたのは私たちだけのようでは谷口さんは冷静だった。

「樫野(かしの)さん、あんたどうしたんだ?」

 『樫野さん』と呼ばれた女性は、先ほど店を覗いて去っていた女性だ。その前に突拍子もなく私に貧血の薬をくれた人で……。

「それはこっちの台詞よ。さっきお店の前を通って中を覗いたら、なんだかただごとじゃない雰囲気だったから、お巡りさんを呼びに行って一緒に来てもらったの」

「お父さん!?」

「ほのか?」

 樫野さんから遅れて現れた人物に、私は思わず今日一番の声をあげる。見慣れた紺色の制服、制帽。樫野さんが連れてきた警察官は、まぎれもなく私の父だった。

「え、お父様?」

 樫野さんが不思議そうな顔をして、私と父を交互に見た。父の顔はすっと険しくなり、眉間に皺が深く刻まれる。

「こんなところでなにをしてるんだ。もう日も沈みそうだっていうのに」

「お父さんに関係ないでしょ!」

 私は突っぱねる。それは父の感情を逆なでするだけだった。

「関係あるだろ。だいたい、お前は」

「あの」

 ヒートアップしそうになる寸前で私たちの間に穂高が入った。視界には彼の逞しい背中が映り、続えて穂高は父に深々と頭を下げた。

「ほのかさんの高校の同級生で安曇穂高といいます。すみません、今日は俺が誘って彼女を連れ出したんです」

 意表を突かれたように父は目を見開いた。すかさず理恵さんが私の右隣にやってくる。

「それで私が体調を崩していたら、娘さんが気遣って家まで付き添ってくれたんです」

「いなくなったミケも探してくれたんだよ」

 いつのまにか健二くんも私の左側にしがみつくようにして主張した。

「孫が世話になった礼に、ここで夕飯をご馳走していたんですよ」

 締めくくるように谷口さんが現状を伝える。父は立て続けの勢いに押されてぽかんとしている。ややあっておもむろに口を開いた。

「店に不審者がいるという話は……」

「ああ。ちょっと知り合いに店の整理を手伝ってもらっていたんだが、なんせ初めてで棚を倒したりしてな。粗暴だがこのご時世、番犬にはいいだろ」

 谷口さんのフォローに宮脇さんが目を丸くして視線を送った。さらに樫野さんがつけ加える。

「ごめんなさい。私の勘違いだったみたいね。ほら、今はこんな世の中だから少しのことで怖くなってしまって」

 父は目を伏せて制帽を整え直した。

「いえ、なにもなかったのならよかったです。しかし空き巣や喧嘩も増えています。皆さん、戸締りはしっかりしてください」

 警察官の顔を見せた後で父は私の方を見つめた。

「ほのか。遅くなるかもしれないが、今日は仕事を切り上げてくる。お邪魔にならないようここで待ってなさい。家まで送っていく。君もだ」

 最後は穂高を見つめて父は言った。有無を言わせない重たさを感じる。でもそれでは私たちの目的は達成できない。

 もっと夜にならないと星は見えない。とはいえ正直に話して父が納得してくれるとも思えなかった。

「私は……」

 言い返そうとしたものの言葉に詰まる。

「よかったらうちに泊めますよ」

 前触れもない助け舟は、樫野さんからだった。

「さっきもお話しした通り、部屋はたくさんありますから。みんなで集まっていた方が防犯の意味でもいいでしょ?せっかくの機会ですしお父様もお仕事終わったら、こちらにいらっしゃいませんか?」

「なんであんたが仕切ってるんだ」

 お約束のように谷口さんがツッコんだけど樫野さんはまるで聞こえてもいないかのように父と向き合ったままだった。

「いいえ。仕事がありますから。ほのか、迷惑にならないようにな」

「……うん」

 静かに答えると、父は踵を返してさっさと行ってしまった。複雑な感情を抱えながら父の背中を見送る。

 結局その場に理恵さん、樫野さんも加わり、行きずりといってもいい共通点がまったくないメンバーで七輪を囲む状況になった。
「で、結局なにが起きてたの?」

 割り箸を真ん中でまっぷたつに割った樫野さんが改めてさっきの現状を尋ねる。谷口さんは再び忙しく肉を焼きはじめながら答えた。

「言った通りだよ。ちょうどいい番犬を見つけたんだ」

「番犬って……」

 宮脇さんが横目で谷口さんを見る。その宮脇さんの皿に谷口さんは焼けたお肉をひょいっと入れた。

「お前、車は運転できるのか?」

「……一応。ミッションも持ってる」

「ならいい。ちょっと店を手伝え」

「は?」

 素っ頓狂な声を出した宮脇さんの顔を谷口さんはようやく見つめた。

「金はあまり出せねぇが、食べ物と仕事はやる。俺も目がだいぶ霞んできて運転がきつくなってきてな。牛を割ってもその肉を卸す場所がない。でも車使って中心地まで行けば、それなりに取引相手はいる。店に置く商品も仕入れて欲しいしな。その面と体格なら簡単には襲われないだろ」

「じゃぁ、ウインナー食える?」

「かもな」

 無邪気に尋ねた健二くんに谷口さんは軽く答えた。宮脇さんは呆然として口を開けたままだ。

 ややあって、うつむくように静かに頭を下げた。そして顔を上げた宮脇さんが見つめたのは谷口さんではなかった。

「おい坊主」

「な、なんだよ」

 肉を頬張ろうとしていた健二くんは、突然話題を振られ怪訝そうに答える。

「肉のお礼に、ウインナー探してきてやるよ」

 しかし続けられた宮脇さんの言葉に、健二くんは目をぱちくりとさせる。そして満面の笑みをみせた。

「おう。兄ちゃん頼んだ!」

 それを聞いて宮脇さんだけではなく、谷口さんも微笑んだのに私は気づいた。なんていうか、言葉では上手く言い表せないけれど温かい気持ちになる。

「あの、すみません」

 そこで理恵さんが口を挟んだ。

「図々しいお願いだとは思うんですが、もし車を運転されるなら私も県庁のところあたりまで乗せていってもらえませんか?」

 県庁近くには国立病院がある。そういえば理恵さんは元々体調が悪くて病院に行こうとしていたのを今更ながら思い出した。

 確認するように理恵さんの皿を見れば、肉を食べた様子もない。

「理恵さん、大丈夫ですか?」

「どうした? どこか調子悪いのか?」

 私と谷口さんの声がほぼ重なる。理恵さんはその場にいる全員の視線を一気に引き受け、どこか居心地悪そうにしながらも、ぽつりと呟いた。

「実は私……妊娠してるんです」

「え、ええ!?」

 思わず椅子から立ち上がって叫んだのは私で、周りを見ればどう考えても過剰反応だった。

 でも、まったく予想もしていなかったので本当にびっくりした。それと同時に納得する。

 妊婦さんと接した経験はほとんどないけれど、つわりと呼ばれるものがあるのは私も知っている。どこか悪い病気でもと心配していたので少しだけ安心した。

 ふと我に返り、話の腰を折って恥ずかしくなりながらも、そろそろと椅子に座り直した。

 ところが理恵さんの顔はどうも浮かない。

「相手の方は?」

 冷静に尋ねたのは樫野さんで、その質問で私は、はっとした。

「……同じ職場だった人で、両親が亡くなった際もすごく支えてもらいました。しばらくして妊娠がわかって一緒にこっちに来たんです。でも翌日に彼の姿は車と一緒に消えていて」

 絞りだすような声だった。なにかを堪えるような、痛みに耐えるような。理恵さんは肩を震わせながら続ける。 

「つわりもひどいし、私ひとりでどうしようって。ばちが当たったのかもしれません。私のせいで両親も亡くなって、この子にも申し訳なくて。もうすぐ世界は終わるのにこんなときに妊娠して……ちゃんと生んであげられないかもしれない」

 押し殺していた不安と共に理恵さんは吐露する。最後は嗚咽混じりで言葉が消えた。

 呼応するように私の心臓は握り潰されるように、ぎゅっと痛む。七輪の炭がバチッと音を立てて赤い色を宿していた。

 世界はもうすぐ終わるんだ――。

 暗闇に飲み込まれそうな自分を想像した。消えて、なくなってしまう。

「おめでとう」

 力強く明るい発言が私の意識をはっきりとここに戻す。理恵さんも顔をゆるゆると上げた。

 理恵さんの隣に座っていた樫野さんが椅子を寄せ、理恵さんを支えるように肩を抱いた。

「あなたひとりでよく頑張ったわね。つわりがひどいのはつらいけれど、いつかは落ち着くわ。そんなに自分を責めないで。大丈夫よ。まだ月が地球に落ちてくるとも、世界が終わるとも決まったわけではないでしょ?」

「ほぼ確定だろ。九十三パーセントだぜ?」

「でも七パーセントの可能性で助かる」

 樫野さんに横やりを入れたのは宮脇さんで、さらに穂高が間髪を入れずに静かな声で告げた。イラついた顔で宮脇さんが穂高を睨む。

 樫野さんは理恵さんに言い聞かせる。

「あのね、自分が今ここに存在している確率って考えたことがある? 自分の両親が出会って愛し合い、妊娠してからお母さんのお腹で大きくなって、外に出てからはたくさんの人に助けられ守られて、今こうして生きているって確率」

 理恵さんは目を瞬かせながら、樫野さんの話を聞いている。それは他の人もだった。樫野さんの言い分には理屈ではない、なにかを突き動かすような熱いものがみなぎっている。


「すごい可能性じゃない? ましてや、この生物が育っていける地球が存在する確率なんて考えだしたら、きりがないわ」

 穂高と話した内容を思い出す。ほかのどの惑星でも駄目だった。

 そしてこの広い世界で、もしもお父さんとお母さんが出会わなければ、結婚して妊娠しなければ、無事に生まれてこなければ……どれを欠いても私はここに存在しない。

「だから確率だけ考えても意味ないのよ。未来は誰にもわからない。たとえ一パーセントでも起こるときは起こるし、九十九パーセントでもはずれるときははずれるわ。だったら自分の決めた未来を突き進んでいけばいいと思わない?」

 初めて会ったときとは印象が違い、樫野さんは饒舌だった。でも一つひとつの言葉が身に染みて、さっきまで私の心を覆いそうだった黒い靄を消してくれる。

「詭弁だろ」

 そこに水を差したのは宮脇さんだ。小さな椅子に窮屈そうに腰掛けて鼻を鳴らす。

「なにを言っても、月は地球に落ちてきて俺たちはみんな終わりなんだよ」

「お前は終わらない気でいたのか?」

 谷口さんは静かに口を開き尋ねた。宮脇さんの眉がぴくりと動く。谷口さんは弱くなった七輪の火をじっと見つめていた。

 わずかに灰が舞い、小さくなった炭が音を立てて崩れる。

「命あるものは尽きる。それは月が落ちてこようが関係ないだろ。不意の事故や病気などで突然命を奪われることもあれば、長生きして自然と逝く者もいる。でも、みんないつかは終わりがくる。だから必死で生きるんじゃないのか?」

 そこで谷口さんが顔を上げた。遠くを見据え、その瞳は迷いがない。強い決意を感じさせた。

「俺はな、ひとつだけ決めてることがある。隕石降ろうが月が落ちてこようが、立派でなくても、情けなくても最後の最後まで必死で生きてやるってな。俺たちはなにかの命をもらってここまで生きてきたんだ。なのに自分から生きるのを諦めるなんて、頂いてきた命に示しがつかねぇだろ」

 水を打ったように場が静まり返った。ライトが落とされたように辺りもすっと暗くなる。

 いつも命と向き合ってきた谷口さんの言葉には強い信念を感じた。だから、こんなにも刺さるようにずっしりと響くんだ。

「……俺はずっと娘と会っていなかったんだ」

 ところが続けられた谷口さんの告白は、弱々しいものだった。内容が内容だけにみんなの意識が集中する。谷口さんはそっと健二くんに視線を投げかけた。

「健二の母親である聡子(さとこ)が、芸術家になりたいって言ったときは反対してな。んなもんになれるかって俺は頭ごなしに否定した。あんなのごく一部の人間しか成功しねぇ。苦労はして欲しくなった。できれば進学するなり、手に職をつけて欲しかったんだ」

 谷口さんは娘さんが中学生の頃に奥さんを亡くし、それからは男手ひとつで娘さんと向き合ってきたらしい。仲のいい父子だった、と谷口さんは物悲しく話す。
 娘さんが進路の相談に来たとき、谷口さんは大反対したのだという。

「俺たちは似たもの親子だった。一度言い出したら聞かない頑固者同士。娘は家を飛び出し、何年も帰ってこなかった。俺も気にはなっていたが、こちらから連絡もできなかった。すぐに弱音を吐いて帰ってくる、そう高をくくってたんだよ」

 そして娘さんが戻ってきたのは実に十年後だったらしい。ひとりではなく男の子を連れてだった。当時五歳になる健二くんだ。

「相手の男とは別れたと言ってそれ以上は話さなかった。俺も聞きはしねぇ。ただ娘と孫が帰ってきてくれて俺は純粋に嬉しかった。でもな、あいつは娘としてではなく、母親として戻ってきたんだよ」

 意味がわからずにいると、今度は樫野さんが谷口さんの話を継ぐように口を開いた。

「……聡子ちゃん、病気だったのよね」

 肉が網の上で焦げそうになっている。でもそれを指摘する人は誰もいなくて、炭っぽい独特の香りが辺りを包んでいった。

 樫野さんは目を閉じて、静かに息を吐いた。

「もう手の施しようもなかった。聡子ちゃんもわかっていたんだと思う。だから谷口さんに健二くんを託すつもりだったんでしょうね」

 聡子さんは、往診を受けながらお父さんと息子の健二くんと一緒に最期までここで静かに暮らしたんだという 

 そして、ミケは聡子さんが亡くなる前に、健二くんに与えたものらしい。だから名前がミケランジェロのミケななんだ。

 勝手な想像だけれど、聡子さんが好きだったのかな? 健二くんがどんな思いで名付けたのかを想像し、また切なくなる。

 直接知っている人でもないのに、まるで自分の知り合いを亡くしたかのようだった。私も母を亡くしたから健二くんに同調しているのかもしれない。けれど、きっとそれだけじゃない。

「でも母ちゃん言ってた。じいちゃんとミケが俺の家族になるから大丈夫だって。いつも俺とじいちゃんとミケを見守ってるから心配しなくていいって」

 不意に健二くんが言葉を発し、全員の注目が集まった。彼はそれを受けるように全員をぐるっと見渡し立ち上がる。その表情はいつになく真剣だ。

「だいたい、みんなが言ってる七パーセントってそんなに難しいのかよ?」

 必死で訴えかけているのに、机がないので手に皿と箸を持ったままなのがどこか締まらず、健二くんには申し訳ないけれど、つい気が緩んでしまう。

「七パーセントっていえば……医学部の平均合格率がそれくらいかしら?」

 彼の質問を真面目に考え、曖昧に答えたのは樫野さんだ。それを聞いた健二くんは、閃いた!という顔になる。

「じゃ、俺医学部に入って医者になるよ! そしたら地球が助かるって証明できんだろ?」

 突拍子もない宣言に皆、目が点になった。ややあって一番に吹き出したのは宮脇さんだ。

「どういう理屈だよ、それ」

「なんだよ。そういうことじゃねーの?」

「なら、まずはミケランジェロが誰なのかちゃんと知るところからだな」

 穂高も笑っている。私も自然と顔を綻ばせた。

「なら健二くんには、是非うちの後継者になってもらおうかしら?」

 なんの後継者だろうと口を挟もうとしたら、谷口さんがやれやれといった調子で説明する。

「この人、医者だよ。国立病院でずっと産婦人科を担当していたらしく。今は自宅で助産院をしている」

 まさかの職業に私は樫野さんを二度見した。それは理恵さんも同じようで、まじまじと樫野さんを見つめている。

 ただ、初対面での樫野さんとのやりとりを思い出せば納得だ。たしかにまさに診察というか医師という感じだった。先生というところまでは直感的にあっていたらしい。

「安心して。まずはやっぱり大きいところで診てもらって、異常がないようならうちで面倒見てあげるから」

 どんっと厚くない自分の胸板を樫野さんは叩く。続けて神妙な面持ちになった。

「ずっと田舎の産科医不足が気になっていたの。出産するのにここから中心地まで来る人も珍しくなかったし、でもいざというときにそれだと困るでしょ? だから思い切って二年前に自宅を改装して助産院を開いたもの。ところが隕石やら、月が降ってくるわで閑古鳥状態で……」

 肩をすくめて樫野さんは笑う。私たちに泊まっていくようにと『部屋がたくさんある』と言ったのは、出産した人の入院用にと設けられたものだったというわけだ。

「たぶん国立病院なら機能していると思うわ。なんなら知り合いの先生宛に紹介状を書いてあげるから」

「はい。ありがとうございます」

「お礼はいいわよ、医者だもの。私もやっと自分の役割を果たせて嬉しいわ」

 気づけば、理恵さんの頬には涙が伝っていた。

「おい」

 ところが不機嫌な声に理恵さんの肩がぴくっと震える。宮脇さんは怖い顔のままぶっきらぼうに言い放った。

「道路事情も不明だし、病院の混み具合もわかんねぇだろ。だから明日の朝にこっち出るぞ。早めに医者に診せた方がいいんだろ」

「よ、よろしくお願いします」

「兄ちゃん、軽トラだけど飛ばすなよ」

「ったく、わかってるよ」

 すっかり打ち解けた様子の宮脇さんと健二くんがやりとりし、二人の間に挟まれた谷口さんが『思い出した』と口にした。

 そのまま谷口さんの視線は理恵さんに向けられる。

「そういや石津さん夫婦があんたが生まれる前におおつき食堂に来たんだよ。奥さんが妊娠して、やっと体調が安定したから焼肉食いに来たって、嬉しそうだった。だから周りも、俺もおめでとうって声をかけたんだ」

 谷口さんは優しい顔をした。慈しむような、懐かしそうな表情だ。

「両親が亡くなったのは自分のせいだとか、ばちとか思うなよ。親は子どもが幸せだったらいいんだ。あんたも腹の子のことを考えてるんだからもう立派な母親だよ。……おめでとう、ご両親も喜んでるだろうな」

 理恵さんは両手で顔を覆い、何度も頷いた。『ありがとうございます』というのは嗚咽混じりで、でもしっかりと届いた。やがて理恵さんは涙目ながらも、柔らかく微笑む。

「私、妊娠がわかって、彼がいなくなって、どうしようってずっと不安でした。つらいこともたくさんあったから。でもこの子がいるから、ここまで生きてこられたんです」

 そう語る理恵さんの笑顔は、もうすっかりお母さんの顔だった。

 一年以内に地球が滅びると聞いて、誰もが未来を奪われたと思った。思い描いていた夢は、叶わずに消えるだけなんだって。

 世界が終わりを迎える間際になり、多くのものを失っていく。それは物であったり、大切な誰かだったり、信念やプライドという曖昧なものかもしれない。

 そして月の落下が伝えられ、露になっていく人間の醜い部分ばかりを見ていた。他者を押しのけてでも自分が一番という人が多くて、争いも絶えない。

 私を含めて人は弱いのだと思い知らされた。
 
 だから人間関係を上手く築けない自分は、誰も信じずに関わらないのが最善だと思った。部屋に閉じこもって勉強で現実逃避をした。

 ところが今、私の目の前にいる人たちは、みんなほぼ初対面で他人なのにも関わらず、それぞれなくしたものを補い、支え合っている。

 人ってこんなに優しかったんだ。
 
 それから他愛もない会話を再開させる。終始和やかな雰囲気とは言えないけれど、こうして誰かと食卓を囲むなんて久しぶりだった。

 キャンプみたいで楽しい、という感想は不謹慎かな?

 世界の終わりとか、月が落ちてくるとか、そんな話題はもう出てこない。笑い声も聞こえてくる。ただ私はその一方でずっと自分のお母さんやお父さんのことを考えていた。
 食事を終え、久々に満腹という状態に身を落ち着かせる。といっても胃が小さくなっているのか私の食べた量はたいしたことない。

 片付けしようと腰を浮かしたところで理恵さんに声をかけられた。

「ほのかちゃんのお父さん、こんなときでも仕事を優先するなんて警察官の鏡というか、正義感の強い人なんだね」

 父を褒められているはずなのに、私の心はざわつき返答に迷う。お茶を濁していると樫野さんも話題に入ってきた。

「あの人、たいてい役場前の派出所にいてくれてね。もちろんほかにも何人か警察官はいるみたいだけれど、必要があればどこにでも来てくれて、地域の人にとってはすごく有り難い存在なのよ」

「そう、なんですか」

「ほのか」

 私の知らない父の話に少しだけ興味が湧いた。しかし穂高に名前を呼ばれ、私の意識はそちらに向く。
 
「そろそろ行こうか。あまり遅くならないうちに」

「そうだね」

 当初の目的を思い出して私は彼のそばに駆け寄る。西牧天文台に行くには、山道を登っていかなくてはならない。

 車も通れる道とはいえ外灯も気持ち程度しかなく、暗くなってからは危ないだろうという判断だ。まだかろうじて空が明るさを残している今出発しないと。

「ふたりだけで歩いて大丈夫? 帰りはどうするの?」

 理恵さんが穂高に尋ねる。

「まだ暗くなっていませんし平気ですよ。天文台を管理している人と知り合いで、泊めさせてもらうこともできると思うので」

「こんなときに天文台って頭おかしいだろ。降ってくる月でも見るつもりか?」

 心配そうな理恵さんとは対照的に宮脇さんは小馬鹿にしたような言い草だ。

 無理もない、たいていの人は私たちが今からしようとすることを聞けば彼みたいな反応だろう。

 谷口さんに改めてお礼を告げ、私たちは谷口商店を出発した。もう日も落ちているので麦わら帽子はかぶらず、かばんに引っ掛ける。

 穂高はためらいなく私の左手を取ると、さっさと歩き出した。強引だけれど乱暴さはなく、疲れているのか口数は少ない。

 彼に手を引かれ大通りに戻り、迷わず進んでいく穂高になにも言わずついていく。しかし私はふとあることに気づいた。

「ね、ちょっと。西牧天文台ならこっちの大通りじゃなくて、東島公園のルートから行った方が近いんじゃない?」

 私の質問に穂高はなにも答えない。こんな初歩的な間違いを彼がするだろうか。

 なにかを避けようとしている?……それとも、別のどこかに向かっている?

 不安になって、もう一度同じ内容を尋ねようとしたときだった。

「ほのかのお父さんに会いに行こう」

 彼の口から信じられない提案が突然飛び出し、私は目を白黒させる。

「な、なんで?」

「ほのか、お父さんに言いたいことがあるんだろ。だから、ちゃんと話せ」

「なに言ってるの? 話したいことなんてないって」

 そう言っても穂高は足を止めない。繋がれている手も痛いくらい強く握られている。

「強がりも、嘘もいらない」

 穂高はこちらを見ようとしない。だから私はカチンときて彼に噛みついた。

「強がりでも、嘘でもないよ! なんで穂高がそんなふうに言い切れるの!?」

 彼は足を止め、ゆっくりとこちらを向いた。真剣な表情に私は思わず息を呑む。穂高は私から視線を逸らさずに告げた。

「ずっとほのかを見てたんだ。だから、わかるよ」

 ほんの一瞬、風も、海も、すべてが凪いだ。瞬きも呼吸も忘れて時が止まったような感覚に陥る。

 穂高は私の手を握り直した。

「今、話さないと後悔する。ほのかはまだ、話ができるだろ」

『お父さんとお母さんは?』

『いないよ』

『家族はね、いないの』

 健二くんや理恵さんの寂しそうな表情が頭に浮かんだ。かまわず歩き出そうとする穂高にとっさに声をあげる。

「待って!」

 彼の視線がまたこちらに向けられ、逃げるように私はうつむき気味になった。

「でも、お父さんはきっと私と話したくないと思う。……お父さんは私を嫌ってるから」

 私の発言を受け、わずかに穂高に緊張が走ったのが繋いでいる手から伝わってきた。続きを言う勇気が出ない。

 喉の表面を空気が掠め、声を出そうにも何度も不発に終わる。

「……私のせいなの。お母さんとまなかが、妹が死んじゃったのは」

 なんとか振り絞って出せた音はカラカラだった。

「年末にお母さんの実家に帰省する予定だった。お父さんは仕事でいけないから私とまなかとお母さんの三人で。でも……」

 ありありと蘇る思い出を、痛みを伴いながら口にする。
 出発前夜、私が体調を崩し急遽帰省するのは母と妹だけになった。父は仕事だし、ふたりは私を置いていくか悩んみ、中止にしようかとも言いだした。

 それを私が断固反対した。飛行機のチケットも取っていたし、なによりおばあちゃんが待っている。

『ほのか、本当にひとりで大丈夫? お父さんは夜には帰ってくる予定だけど、つらかったら遠慮なく連絡しなさいね。お父さんにも言ってるから』

 家を出る直前まで、母と妹は私の部屋で名残惜しそうに心配していた。

『寝てれば平気だよ。おばあちゃんによろしくね』

『お姉ちゃん、なにか欲しいものある? お土産買ってくるよ。お年玉はばっちりもらっておくから、それ以外で』

 必死に尋ねてくるまなかに私は苦笑した。みっつ年下の可愛い妹。成績は普通だけれど、明るくて朗らかで優しくて。友達もたくさんいる。

 人懐っこくて、誰からも愛されるような性格だ。私とはまるで正反対。

『じゃぁ、お守り買ってきて』

 ベッドからふたりの顔を見上げ、私は母と妹に告げた。東京で学問の神様として有名な神社の名を挙げる。

 一度、お参りしてみたいなと思っていた。祖母の家に行くときに、もし寄れたら行ってみよう。それくらいの気持ちだったけれど、せっかくなのでねだってみる。

『お姉ちゃん、それ以上頭よくなってどうするの?』

 呆れた様子のまなかに母は『ほのからしいわね』と笑った。

『わかった。ほのかの分もお参りして買って帰ってくるわ』

 母が私の額にそっと手を乗せた。ひんやりとして熱が奪われていく。心地よくて手が離れたときは、寂しく思えた。もう小さい子どもでもないのに。

『早くしないと飛行機乗り遅れちゃうよ。年末で混んでるだろうし』

 気持ちを誤魔化すように指摘すると、母は時計を確認した。

『そうね、そろそろ行くわ』

『お姉ちゃん、またメールするからね。しんどくなったらお父さんに電話するんだよ』

『うん、ありがとう』

 ベッドから母と妹を見送る。部屋のドアがゆっくりと閉まり、ふたりの姿が消えると、なぜだか私の頬にひと筋の涙が伝った。

 待って。行かないで。私を置いていかないでよ。

 心の奥底にあった本音が溢れる。でも声に出せない。体調を崩しているから心が弱っているのかな。

 胸騒ぎが収まらない。吐き気とは違うなにかが体の中をかき回しているような不快感だ。

 きっと予兆だった。第六感とでもいうのか。

 この日、政府から地球に月が落ちてくるという発表があった。瞬く間に人々はパニックに陥り、人の多い都心部はとくに酷かったらしい。そして――

「自棄になって暴走した車が、ごった返す人たちの中に突っ込んだの。そこにお母さんたちもいて………」

 場所は私が話した神社前の大通りだった。ふたりとも即死だったらしい。

 遠くに飛ばされ、後から返ってきた母のバッグの中には、私の頼んでいたお守りが大事そうに入っていた。

 私がお守りなんて頼まなければ。私が体調を崩さなければ。私が……。

 月が落ちて世界は終わる。けれど、その前にうちの家族は壊れてしまった。

 世界の行く末を伝える大きなニュースを前に、母や妹の死はメディアに取り上げられることもなかった。それがいいのか、悪いのか。

 運転手はかろうじて命は助かったらしいが、重傷を負い不自由な体になったと聞いた。なにを望んでいたのだろう。知る気さえも起きない。

 混乱のさなか、ひっそりと葬儀が執り行われ、母と妹は白い灰になった。あの厳格な父が静かに泣くのを初めて見た。

 誰を、なにを恨めばいいんだろう。この感情をどこにぶつけたらいいの?

 それから父は以前にも増して仕事に力を入れるようになった。正義感や使命感に燃えていると、周りの人は口々に評する。

 でも、そうじゃない。きっとがむしゃらになにかをしていないと押し潰されそうだったんだと思う。それとも私と距離を取りたかったのか。

 母と妹が亡くなり、喪が明けた頃だった。

『ほのか、父さんは仕事に行く。状況が状況だからあまり頻繁には帰って来られないが、戸締りはちゃんとしておけ。当分、必要なものはこちらで用意するから極力外を出歩くな』

『うん』

 言葉通り父は仕事に精を出し、私とじっくり話す機会もなくなった。とはいえ、まなかが一緒ならまだしも元々私と父が一対一で過ごした思い出もあまりない。

 あまり口数が多い人でもないし、仕事も不規則で忙しそうだったから。そんな父にまなかは懐いていて、いつも素直に甘えられる妹が羨ましかった。

 父もきっと私より妹の方が可愛かったと思う。

 家族ふたりになったのに、家に父がいても居たたまれなくなり私は部屋にこもってしまう。そして、気づけば父は仕事に向かっている。父とこの状況で真正面から向き合うのが怖かった。だって――。
「私は……お父さんの大事な人を奪っちゃったんだ」

 いつも明るくパワフルで家の中心だったお母さん。素直で可愛らしくて優しいまなか。そんなふたりが先に逝って、私が残ってしまった。

 お願い、許して。私ももうすぐ逝くから――。

「だから?」

 ぼそぼそと事情を話すと、遮るような声が響く。反射的に顔を上げれば穂高はまっすぐに私を見据えていた。

「全部、ほのかの推測だろ? お父さんがそう言ったのか?」

 鋭い指摘に、私は一瞬唇を震わせる。

「言っては、ない。けど私のことをよくは思ってないよ」

 いつの間に、お互い避けるようになってしまったんだろう。顔を合わせてもさっきみたいな感じだ。

「それも含めて、聞いてみればいい。お父さんの気持ちはお父さんしか知らないんだから」

 想像して私は即座に首を横に振る。

「やだよ。もういいの。なにを話してもお母さんとまなかは返ってこない」

「そうだな。でも、ほのかもお父さんもまだ生きてる。なにかが変わるかもしれない」

 今さらなにが変わるの? 変わってどうするの? どうせ世界はもう終わるのに。それなのに――。

『両親が亡くなったのは自分のせいだとか、ばちとか思うなよ。親は子どもが幸せだったらいいんだ』

 お父さんはどうなんだろう。なにを思ってるの?

 私は穂高から視線を逸らし、うつむく。

「……もしも話したとして、本当にお父さんに嫌われてたら、いらないって言われたら、私はどうしたらいい?」

 穂高はなにも答えない。しかし不意に腕を引かれ、私は顔を上げた。

「俺のものになればいいよ」

 これでもかというくらい目を開いて、私は固まった。穂高はふっと微笑んで私の頭を撫でる。

「大丈夫。俺がいるから」

 手を繋いだまま、彼は私に背中を向けて歩き出した。ぎこちなく私も続く。

「お父さんのところに行ってたら、天文台行けなくなっちゃうよ」

「いいよ。今はこっちが大事」

 目の奥がじんわりと熱くなる。胸が詰まって息も止まりそう。

 地球が終わりそうなときに、人の事情に首を突っ込んで、お人好しなのにもほどがある。

『終わりそうなんだから好きなことをしない方が馬鹿だろ』

 ああ言ってたのに。突然押しかけて、なにげなく口にした私の希望を叶えようとして。

 なんなの? なんで私に優しくするの?

 でも穂高がそばにいるから、一緒にいるから、諦めていた私が今、こうやって一歩踏み出せるんだ。変われるかもしれないって思える。

 繋がれている手に力を込める。穂高の手は相変わらず温かかった。
 役場前の派出所は、すでに明かりが灯っていて遠くから見てもよく目立っていた。近づく度に心臓の音が大きくなる。

 空は急速に闇を濃くしていき、かすかになびく風はすぐそばの海の匂いを運んでくる。波の音も届かず、蝉は活動を終わらせたのか静かだった。

 大通りに並ぶほとんどの店はシャッターが下りていて、犬猫の気配もない。もちろん人も。かすかに聞こえるのは虫の声だけ。必死に鳴いて、自分の存在を主張している。

 まだ、ここにいるんだって。

 派出所の入り口近くに来て、私の足が止まった。

 どうしよう。なにを話せばいい? なんて言えばいい? その前に、いないかもしれない。心臓が早鐘を打ちはじめ、私はごくりと唾を飲み込む。

 立ちすくんでいると、すぐ隣にいる穂高が心配そうにしているのが伝わってくる。大きく息を吐いて私は意を決した。

 彼の顔を見て軽く頷き手を離す。ひとり私は歩き出した。

 おそるおそる派出所の入り口に顔を出せば、中には同じ制服を身に纏ったふたりの警察官がいた。ひとりは父だ。

「お父さん」

 声をかけていいものか悩みつつ弱々しく呼びかける。すると私に気づいた父は大きく目を見張った。

「ほのか。お前どうしてここに?」

「ほのかちゃん?」

 父だけではなく、父と話していたもうひとりの警察官が私の名前に反応する。

 髪を短く刈り上げ、父よりも若い男性だった。どちらかといえば穏やかな雰囲気で、こちらに近づいて私を確認し笑顔になった。

「うわぁ、大きくなったね。うちの娘がもう五才だから高校生か?」

「あの」

 戸惑う私は奥にいる父に視線を送る。

「父さんの部下の飯島(いいじま)だ。娘さんが生まれたとき、家族でお祝いを持って自宅にお邪魔したんだ。覚えているか?」

 私は自分の記憶を辿り、ぎこちなくも頷いた。飯島さん本人はともかく、たしか小学生の頃に家族で赤ちゃんを見にいった覚えはある。

 ベビーベッドでぐっすり眠る赤ちゃんを見ながら、まなかと『可愛いね』と言い合った。

 すると母が『あなたたちもこんなに小さくてとっても可愛かったのよ』と話してくれたような。

 優しい記憶に胸が軋む。それを振り払うようにして、我に返った。

「今日はどうしたの? お父さんに用事があったのかな?」

「はい、あの。でもまだお仕事なら……」

 飯島さんに尋ねられ、私の返答は尻すぼみになる。私の不安を吹き飛ばすように飯島さんは笑ってくれた。

「いいよ、大丈夫。それに紺野さんには今まで随分と負担をかけてきたから。俺も現場に戻ってきたし、ほかにもそういう連中が何人かいるから、これからは前より家に帰ってもらえると思うよ。ほのかちゃんにも迷惑かけてごめんね」

 飯島さんに切なそうに謝られ私は首を横に振った。

「どうして、戻って来られたんですか?」

 つい口が滑る。なかなかデリケートな質問だし、この場でするようなものじゃない。相変わらずすぐに気持ちをストレートに口にする自分に嫌気が差した。

 しかし、飯島さんは嫌な顔ひとつしない。

「最初はね、もうどうせ世界が終わるなら最後まで家族と過ごそうと思ったんだ。だから仕事も放棄して、安全だって言われるヨーロッパへの移住も考えた。でも信憑性も低いし、実際は難しくてね」

 苦笑して飯島さんは、わずかに視線を落とす。その表情は穏やかだ。

「しかも、こちらは神経すり減らしてピリピリしているのに子どもは無邪気でね。本当にいつも通りなんだ。逆に、どうして自分は幼稚園に行かないのか、どうしてお父さんは家のいるのかって質問ばかり。そんなとき、混乱した都心部の様子がテレビに映し出されているのを家族で見てね。娘に言われたんだよ。『パパは警察官なのになんでみんなを守らないの?』って」

 私はぎゅっと唇を結ぶ。奥にいる父はなんとも言えない面持ちだ。対する飯島さん力強く続けた。

「だから決めたんだ。むしろ娘の望む通り、最後まで普段通りのままでいようって。娘にとって俺は警察官で正義の味方だからね。それに妻にも『もし地球が助かったら、あなた無職のままどうするの?』なんて言われてさ」

 思わず笑ってしまいそうになる。飯島さんは、ちらりとうしろにいる父に目を遣った。

「ちょうど紺野さんがほぼひとりで、このエリアを担当して奔走しているっていうのも聞いてね。俺はなにしてるんだろうって情けなくも思ったよ」

「そんなことないだろ」

 父がすかさず口を挟む。飯島さんは父に向って軽くお辞儀をすると、再び私に笑顔を見せた。

「ま、いざ月が落ちてくるってなったら、なにを差し置いても俺は家族の元に帰るけどね。それくらいの時間はあるさ」

 冗談混じりの口調だけれど、本気だと感じた。続けて飯島さんは笑顔を収め、真面目な顔で父に告げる。

「では、さっき話していた木田(きだ)さんの家に行ってきます」

「わかった。暗くなったし気をつけろよ」

「はい」

 そう言って飯島さんは派出所を後にした。私と父のふたりになると、あっという間に静寂が舞い降りる。
 父はこちらの様子を窺っていた。自分の鼓動音が大きく響く。

「お父さん」

 かすれた声。一瞬、気持ちがぐらついたが、必死で踏ん張る。大丈夫、私はひとりじゃない。言い聞かせてから、自分の心の奥底にあった気持ちをゆっくりと解き放つ。

「私、ずっと謝りたかった。お母さんとまなかのこと……ごめんなさい」

 声も、唇も震えて、上手く言葉を紡げない。堪えきれずうつむくと、涙の膜で視界が一気にぼやけた。感情が勝手に走りだす。

「なんでほのかが謝るんだ」

「だ、って。私の、せいで。私が、お守りを頼んだから。だから、お母さんとまなかは……」

 涙が溢れだし、もう制御不可能だ。

 責めてくれたらよかった。お前のせいだってはっきり言われた方が楽だったのかもしれない。

 重すぎる罪悪感を自分で処理することはできなくて、ずっと苦しかった。でも実際は怖くて……父に拒絶されるのも不安で言い出せなかった。

 静かに嗚咽を漏らして泣いていると、私の頭に大きな手が乗せられた。

「ほのかはなにも悪くない。それだけは言える」

 ゆっくりと、はっきりとした父の声。こんな近くに父がいるのはいつぶりだろう。

「でも、私が……」

「でも、じゃない。天国の母さんもまなかも、ほのかを責めるような気持ちはひとつも持っていない。絶対にだ」

 私は手で乱暴に涙を拭う。熱い液体が皮膚に染みた。鼻を軽くすすり、調子を取り戻そうと試みる。

「お父さんは……私に怒ってるから、こんな状況になっても仕事をずっと続けているんじゃないの?」

「そんな理由なわけないだろ」

 反射的に否定されたものの、それから言葉がない。しばしの沈黙。それを経て父は唐突に語りだした。

「母さんとな、約束したんだよ」

 その言葉に私はゆるゆると顔を上げる。いつ見る厳格な父の面影はなく、どこか寂しそうで切なそうな表情だった。

「もし自分になにかあっても、どんなことがあっても警察官としての役目を果たせって。あなたはそれができる人なんだからって」

 初めて語られる話だった。今まで父から母の話を聞く機会などほとんどなかった。

「車を運転していた犯人を憎んだ。落ちてくる月を恨んだ。自棄を起こしそうにもなった。でもな、母さんとの約束があって、ほのかがいたから父さんはここまで生きてきたんだ」

「私、お父さんにあまり好かれていないと思ってた。お父さんはいつもまなかの方を可愛がっていたし」

 予期せぬ本音も思わず漏れ、父は虚を衝かれたような顔になる。それを受け、珍しく動揺しているのが伝わってきた。

「誤解だ。父さんは、ほのかもまなかも同じように大事に思っているよ。ただ……まなかは母さんに似ていて、ほのかは自分に、父さんに似ていたから」

 父から飛び出た言葉に、今度は私が狼狽える。そこで一区切り入れるた父は顎を触りながら、続きを悩んでいるように見えた。

「父さんもどちらかといえば人付き合いが苦手で、自分からあまり誰かと関わっていくのは得意じゃない。だから、ほのかが人間関係で悩んでいるって母さんから聞いたときは、痛いほど気持ちがわかったよ」

 母になにげなく愚痴をこぼすように人間関係について相談した覚えがある。上手く振る舞えない自分に嫌気が差すって。

 それからしばらくして非番で家にいた父が突然、私の部屋のドアをノックして顔を出した。

『ほのか。みんなにいい人って思われなくてもいいんだぞ。お前が大事にしたい人のために、誠実でいたらそれでいいんだ』

 前触れもなくあまりにも唐突に言い捨て、父はその場をさっさと去っていた。私は意味がわからず、しばらくぽかーんと口を開けたままだった。

 そっか。父は父なりに私を気遣ってくれていたんだ。嫌われていたわけでもなくて、私だって自分から父に歩み寄ろうとしなかった。

 どちらも受け身なら、関係は進まない。やっぱり私たちは親子で似た者同士なんだ。

 結論付けてようやく私は笑えた。ずっと長い間、遠回りしていたんだ。

 さらに父の弁明によると、地球が終わりそうだからとはいえ、元々仕事人間だったのもあり今さら娘とどう接していいのかずっと悩んでいたのだという。

 基本的に家にいる私に安堵していたそうで、だから今日、谷口商店で私を見かけ驚きと外にいることで強く当たってしまったんだとか。

「ほのかまでいなくなってたら、父さんはきっと今、生きていない。ごめんな。父さんも自分のことでせいいっぱいでほのかの気持ちを汲んでやれなくて」

 涙で顔がぐちゃぐちゃだ。私は大袈裟に首を左右に振る。

 思い出した。私が勉強を頑張りだしたのも、小学生のとき普段無口な父が『ほのかは頭がいいんだな』と成績を褒めてくれたからだ。

「……お父さん、私が生まれたとき嬉しかった?」

「嬉しかったよ。ほのかとまなかが生まれたときが、生きてて一番幸せだと思った」

 そう言って父はハンカチを差し出してくれた。真っ白の綺麗なハンカチだ。申し訳なく思いつつ私は遠慮なく受け取ると、顔に押し当てて涙を拭った。
「お父さんとは話せた?」

「うん」

 穂高は律儀にも派出所前から少し歩いた角で、私と別れたところで待っていてくれた。泣いたおかげで私の瞼はまだ腫れている。なので、この顔で彼に会うかどうか悩んだけれど、もう諦めた。

 私はぽつぽつと父と話した内容を穂高に伝える。

「お父さん、前より少しは家に帰ってきてくれるって」

「そっか。それはよかった」

 穂高は、まるですべてを見越していたかのように満足気な顔をしている。私は素直にお礼を告げた。

「ありがとう、穂高のおかげだよ」

「ほのかが頑張ったからだよ」

 その言葉を受けて確認するように空を見上げる。お昼過ぎに空に浮かんでいるのを見かけた青白い月は、今は黄金色に輝き西の方へと移動している。

 星が輝く暗さになり、雲がないので天体観測にはちょうどよさそうだけれど、こ照明などがほとんどない道を歩いて、山奥にある西牧天文台に向かうのは無謀だ。

 それは穂高もわかっている。ごめんね、と謝ろうとしたら突然、乱暴なクラクション音が辺りに響く。さらにはライトの眩しさに私は眉をひそめた。

 迷わず車がこちらに近づいてくる。とっさに穂高が私を庇うように肩を抱いた。すると車はスピードを落とし、私たちのいるところへ横付けする形で止まった。

 白い軽トラだ。どういうつもりなのかと不安で身をすくめていると、軽トラの窓が開く。

「おい。お前らこんなところでなにしてんだよ? 天文台には行ったのか?」

「宮脇さん」

 運転席から顔を出したのは、まさかの宮脇さんで、となると乗っている車は谷口さんのものだろう。それにしても、どうしてここに?

 浮かんだ疑問に答えるように宮脇さんは面倒くさそうに続ける。

「谷口さんとか、あそこにいた連中がやっぱり心配だから送っていってやれって言い出したんだよ。で、車乗って追いかけてみても、どこにもいねぇし」

「す、すみません」

「で、行ったのか?」

「それが……」

 私は首を縮めながら言いよどんだ。それで宮脇さんは察したらしい。

「乗れよ。ここまで来たんだから乗せてってやる」

「え」

「ただしふたりとも荷台にだ。落ちないようしっかりつかまっておけ」

「派出所前で言います?」

 穂高が呆れたようにツッコんだ。すると宮脇さんが愉快そうに笑う。

「いざ月が地球に落ちてきそうになったら、みんな荷台にでも乗り込んで必死で生きようと逃げるんだろ。警察もいちいち取り締まってらんねぇよ」

 どうだろう。父に見つかったら普通に違反として捕まるかもしれない。そんな考えが過ぎる。でも宮脇さんの言う通り、こんな状況だ。

 私と穂高は顔を見合わせる。ふたりの気持ちは一緒だ。

「ありがとうございます、よろしくお願いします」

 宮脇さんは運転席から降りると、軽トラの荷台部分を囲っているうしろのあおりを倒した。穂高が先に乗り込むと、ぎしっと軋む音がする。

 不安になりながらも、手を差し出してくれたので私は彼に引っ張り上げてもらい乗り込んだ。宮脇さんが再びあおりを起こし、運転席に戻る。ゆっくりと車は走り出した。

「ほのか、こっちに移動できる?」

「う、うん」

 ぼこぼこしていてお世辞にも座り心地はいいとはいえない。バランスを取ながら荷台の上を這うようにして穂高の方へ移動する。

 穂高の隣に座りあおりにしっかりと背中をつけ体勢を安定させた。ぎこちない私に穂高が問いかける。

「怖くない?」

「全然! むしろワクワクしてる」

 風を受け、髪を押さえながら私はつい声を張り上げて答えた。

 不思議。もうすぐ世界は終わるのに。絶望と不安と諦めしかなかったのに。

 軽トラの荷台に乗ったのももちろん初めてで、今から天文台に行ける期待もあるのかも。心地いい高揚感が不安や恐怖などを押しのける。

 穂高は私を固定するためか、さりげなく私の腰に腕を回して自分の方に引き寄せた。心拍数が一気に上昇する。これくらいの密着で照れるのは、今さらだ。

 そうは思っても、まともに顔が上げられず穂高の顔が見られない。

『大丈夫。俺がいるから』

 ようやく自覚した、彼に対する想いを。愛とか恋とか知らないし、今まで色恋沙汰とは無縁だった。だから、これを恋と呼んでいいのか自分で判断もできない。

 でも穂高は特別なんだ。それだけは確信をもって言える。今まで出会ってきた誰とも違う。

 いつ地球が滅びるかもしれないというこんなときでも、私はこうして彼と一緒にいたい。この気持ちは本物なの。