翌春、私は大学三年生になった。そろそろ、就職活動の準備。地元に帰ってできる仕事を探す。
「桃花ちゃん」
 校門で、若い男に呼び留められた。丈の長い黒のコートを着て、帽子を深くかぶっていたので、一瞬誰か分からなかった。判断に迷っていると、男は強引に私の腕を絡め取る。接近され、男の匂いで私はそいつの正体を思い出した。私がもっとも恐れていた、あの人物。
 引っ越す原因を作った元彼にして、ストーカー男。
「電話番号も変えて、しかも勝手に引っ越しちゃうなんてひどい。おれ、桃花ちゃんのこと、ずーっと捜していたんだよ。ようやくつかまえた。やり直そう。おれ、桃花ちゃんのためなら、なんでもする」
 甘えた声が薄気味悪い。窺うような目つき。顔にも軟弱さがにじみ出ている。お金もない。そして、このしつこい性格。たとえ一度でも、どうしてこんな男と付き合ったのか、自分の見る目のなさに再び絶望してしまう。
「離して」
 当然、私は拒否した。けれど、薄ら笑いを浮かべる元彼にはまったく通じない。
「照れなくていいんだよ。もしかして、おれの気持ちを確かめようとして、わざと身を隠した? 今なら許してあげるよ。ただし、お仕置きしちゃうけど」
 なにがお仕置きだ。かわいく言っているつもりだろうが気持ちが悪い。鳥肌ものだ。私はつかまれた腕を強く振って抵抗した。
「あなたとはとっくに別れました。警察にも届けてあるし、これ以上私につきまとったら逮捕されるから」
 冷静に周囲を見渡し、校門の横に守衛室があるのを確認した。あそこへ駆け込んで通報してもらおう。人通りもある。だいじょうぶ、私はもう逃げない。
「そうはいかない。おれに対する仕打ち、懺悔してもらわないとね」
 元彼はコートの下にナイフを隠し持っていた。鋭い切っ先が静かに光っている。私は息をを止めた。人が刺せるほどの勇気ある性格ではない。ただの脅し、見せかけだ。そう思い聞かせても、いざ本物を目の当たりにすると脚が竦んで動けない。走ろうと身構えていた力が逃げてしまう。
「女の子はおとなしいほうがかわいいよ。生意気な女は嫌い。ねえ、今日はどこへ行こうか。おれ、桃花ちゃんの新居がいいなあ。ごはん、作ってよ」
 肩を組まれる。元彼の吐息が顔にかかる。いやだ。くさい。
 流されてしまったら、以前の私と変わらない。戦わなければ。私は歯を食いしばり、おなかに力を入れた。
「あんたなんか、まったくの他人だって言ったのが聞こえないの?」
 渾身の力を込めて両手で思い切り、元彼の胸を押した。突然の抵抗に元彼は体勢を崩し、私は退路を確保できたと瞬間的に喜んだけれど、元彼がとっさに私の足を払ったため、その場に転んでしまった。対応しきれずに、お尻と膝を打ってしまった。ずきずきする。動けない。
 最悪だ。ほんの三秒で、形勢が逆転。
「かわいくない。ほんとに刺しちゃうよ」
 右手にナイフを握った元彼がうれしそうな顔で、私のことをにやにやとを見下ろしている。はじめは人目を気にしていた様子だったが、すでになりふり構わぬ姿で私に襲いかかろうとしていた。
 通りすがりの女子学生の口から悲鳴が上がったが、私を助けてくれる人はいない。どこかへ電話している人もいるけれど、間に合わないだろう。この春から男女共学になったばかりの大学なので、学生も職員も男性が少ない。ナイフを振り回している狂気じみた男に挑む女子など、そうはいない。桃花にも、護身の心得がなかった。