翌日。私は508のドアの前で固まっていた。お隣さんのインターフォンを押す勇気が出ない。
「押す、押さない。押す、押さない。押すしかない、押せ自分」
 いつしか、ひとりごとになっていた。聞きたいことは、リョウのこと。緊張でうまく質問できないかもしれないので、メモにまとめてある。
「一、リョウくんを覚えていますか。二、どんな男の子でしたか。三、あの日のことを詳しく聞かせてください……はー、だめだ」
 なにしろ、住宅とは一生でいちばん高い買い物のはず。それが、いわくつきの事故物件マンションになってしまったのだ。怒りや落胆も大きかったことだろう。その傷をほじくり返そうとしている。
 戸惑っていると、ドアが開いた。
「どなた?」
 怪訝そうに私を見たのは、三十なかばぐらいの女性。これから出かけるらしい。やや派手目な服装に、しっかり化粧をして顔を作ってある。
「あの、初めまして。私、隣の部屋に引っ越してきた……」
 手みやげぐらい持ってくるべきだった?
「転居の挨拶? 要らないわ。エレベーターで会ったときとか、適当に『こんにちは』って、会釈しておけば問題ない。あなた、女の子のひとり暮らしでしょう、いくらオートロックの分譲マンションでも、個人情報を開示しないほうが身の安全のためよ」
 女性は部屋のドアに鍵をかけ、エレベーターへ向かって歩きはじめた。
「いきなりでぶしつけですが、私の部屋のことなんです! なにか、ご存知ですか」
「あなたの部屋? 507の?」
「はい。少しで構いません」
「あなたの部屋は、呪われている。新築当時、五階に入居した人は、半分以上出て行ったと思う。人が死んだ。しかも、自殺。あなたは、知らないで入居したクチ? 駅前の不動産屋、相変わらず汚い。気味が悪いの?」
「いいえ。彼のこと、知りませんか。自殺した朝香響くんのこと」
 エレベーターの下ボタンを押そうとした赤い爪の動きが止まった。
「若いけど、いい男だったわ。でも、彼を巡ってか、女どもがマンションの周りでよく口論していた。『響くんは私のもの』みたいな。まさか、彼が化けて出た?」
「ええっ! 死んでいますよ、彼は」
「冗談よ冗談。でも、そんな噂もある。それで借り手がつかないとか云々。でも、あなたみたいな奇特な子もいるわけだし、短いスパンで店子が入れば敷金礼金仲介手数料で、かえってボロ儲けじゃない。幽霊騒ぎには、不動産屋も一枚かんでいると見たわ。ま、実際このマンションを購入した人間にとっては価値大暴落で、迷惑のなにものでもないけど。住人に、彼のことを聞き出そうなんて、やめなさい。どうしてもって言うなら、管理室へ行くこと。じゃあね」
 隣に住む女性はエレベーターに乗った。
 かなり、話してくれたと思う。感謝しなければならない。
 気を取り直して五階全戸を回ったけれど、半分が留守。在宅の人も、三年前は住んでいないという人が多かった。そのうちの一軒には、ものすごい剣幕で怒られた。『忘れかけていたのに、思い出させるんじゃない』と。
 おそるおそる管理人にも尋ねたが、管理会社の都合で毎年入れ替わっているらしく、実際に現場で見た人の話は聞けなかった。それでも、困り顔の私を憐れに思ったのか、管理記録を見せてくれた。
「あった。ここですね」
 三年前の十一月十七日。507に住む友人が倒れていると訪ねてきた女性から報告を受け、通報。507の住人はすでに息絶えていた。睡眠薬などの大量の服薬、ベランダでの凍死だと判明。終日、事件の対応。その後も一週間ほどは507の事件でかかりきりだったようだが、十二月に入ると通常業務に戻っていた。
「彼の遺体は、誰が引き取ったんでしょうか」
「507は賃貸物件ですからね。実家の方が来られたのではないでしょうか」
 あの事件のことはマンション内で禁句になっているので、聞き込み調査はやめてほしいと釘を差されてしまった。
 引っかかるのは、発見者が女性だという点。508の方も、リョウのことで言い争っていたのを目撃している。あの容姿なら、超モテでも不思議ではない。
 それに睡眠薬。リョウは、不眠で通院でもしていたのだろうか。