「ただいまー」
私、女子大二年の長谷川桃花(はせがわとうか)は、ワンルームの部屋に『彼』を飼っている。彼は見た目がよくて、細かいことにもよく気がつく。家事もできる完璧男子。いつも笑顔でおとなしく、部屋で私の帰りを待ってくれている。
「おかえり、桃花ちゃん。今日はポトフを作ったんだ。すぐに食べる? それともおふろにする?」
「おなか空いているし、先にごはんかな」
「じゃ、仕上げする。もう少し待っていて。手洗いうがいを済ませたら座って」
「ありがとう」
彼といると、とてもラク。気を張らなくて済む。これだけ容姿がいいと、不安になりそうなものだが、彼は部屋の外に一歩も出られない極度の引きこもり。私のことしか眼中にない。
だって。
彼……斯波(しば)リョウは、この部屋に憑いている地縛霊。
地縛霊付きの部屋を、好んで借りたわけではない。下見のときは、存在に気がつかなかった。けれど、リョウは部屋にいたと言う。気がつかなかっただけらしい。
そのころ、私は焦っていた。
当時付き合っていた彼の干渉がきつくなり、果ては付きまとわれ、私から別れを切り出したところだった。同性の友人と遊んだだけで、浮気かと責められてうんざりした。嫉妬深すぎて、関係を継続することが不可能だった。
そもそものはじまりだって、私が彼を好きになったのではない。女子大への通学途中の電車内で声をかけられて交際を申し込まれ、田舎出の私はのぼせてしまった。冷静になってみれば、ゲーム好きの、どこにでもいそうなオタクな学生。
その後、元彼は逆上。ストーカー化したので身の危険を感じ、引っ越しを決意。郵便物を盗まれたり、ひとり暮らしのマンション前に二十四時間張りつかれては怖すぎる。以前の部屋の契約更新までは、半年ほど残っていたけれど、とにかく彼を見たくなかった。すべてをやり直すつもりで、不動産屋めぐりをはじめた。
いいな、と思ったのは、郊外のとある駅付近周辺。ストーカーから離れるためには、今のマンションの近所ではだめだ。候補に選んだ街は、ほどよく都心に近く、そこそこ栄えていて、けれど静か。通っている大学からはやや遠くなるものの、気持ちをリセットするためにも日々を充実させたい。買い物、カフェめぐり、公園散歩。映画を見て、本を読んで。妄想がふくらんだ。
だが、人気の街ゆえ、家賃が高かった。仕送りと簡単なアルバイトで生活しているが、貯金はない。かわいい服を見かけたらつい買ってしまうし、甘いものにも目がない。
自然と、安い物件ばかりに目が奪われる。けれど、駅から遠かったり、古かったり。女子のひとり暮らしなので、三階以上というのも必須条件。
「オートロック。駅から五分以内。築浅。バストイレ別。上階。できたら広くて南向きで静かな場所。お家賃はこれぐらい」
何軒もの不動産屋を巡っては笑われ、断られた。予算と理想がまったく合っていない、と。
東京の、もっと西寄りの市街にすれば、その予算で住めますよと提案されたこともある。けれど、私は大学生活が終わったら、実家に戻って地元で就職するのが親との約束。憧れの東京住まいができるのは、今だけ。楽しみたい。ストーカーに怯える生活なんて、時間のムダ。
部屋探しに飽きてきたころ、理想の部屋を見つけた。導かれたのかもしれない。
何枚もの資料の一番下に紛れていた、物件。自分の強硬な提示条件にぴったり。すぐに内覧をお願いした。
「ガーデンハウスの507。条件がいい掘り出しものですよ」
駅から三分。瀟洒なハイグレードマンション。ダブルオートロックの五階。分譲賃貸物件なので、設備は申し分ない。ひとり暮らしに必要な家具家電も完備。希望をすべて叶えている。この部屋に出会えたことを、天に感謝した。
「今、申し込みます。すぐ、引っ越します」
私は、ほいほいと契約し、十日後には住みはじめていた。
リョウの存在に私が気がついたのは、引っ越し初日の夜。
家財は業者さんが運んでくれたので、実際に自分が運んだわけではないけれど、疲れていた。
「おつかれさま。肩、揉んであげる」
という、やさしい声が天井のほうから聞こえた。
「うれしい。お願い」
反射的に答えてから、なにかが違うと思った。この部屋には、私ひとりしかいないのに、声がするなんてありえない。テレビもつけていない。私は背後を見ようと決心し、勢いよくがばりと振り返った。
そこには、私とそう変わらない年頃の男子がいた。
やさしい笑顔で、私を見つめている。背が高くて、きれいな顔立ちをした、ふわふわの銀灰色の髪の美青年。
「だ、誰なの」
そう言うのがやっとで。私の喉はからから。
「初めまして。一緒に暮らせるのを、ずっと待っていたよ」
宙に浮いた美青年は、いたって普通に話しかけてくる。肩もみ、上手い。けれど、流されていい場面ではない。
「って、だからあなたは、どこの誰なの!」
「ここの住人」
聞いていない。先住民がいたなんて。私は速攻で携帯電話を取り上げた。
「ここは私が借りた部屋。いくら美男子でも、勝手に室内へ上がることは許せない。不動産屋、いいえ警察、呼ぶから。もしもし、もしもーし」
「話の途中だよ。電話しないで」
電話は通じない。圏外になっている、ありえない。私は携帯を床に落としてしまった。
「ほら、落ちたよ。長谷川桃花さんだったよね。『桃花ちゃん』って、呼んでいい?」
ありえない。この部屋は、空いていなかったのだろうか。
「あなたは、住んでいた、の?」
「うん、三年ぐらい。正確に言うと、憑いていたっていうか。ぼく、霊体だから」
手を引かれたけれど、その腕にぬくもりは感じられなかった。ぞくりとするほど、冷たい身体をしている。
「ぼく、この部屋で三年前に死んだんだ」
私は面喰らった。それは、世間で俗に言う、『地縛霊』というやつではないだろうか。
「ここは私が借りたの。とっとと成仏……」
「よろしくね。ちなみに、ぼくは出て行けない。どうしても外には出られないんだ」
「ていうか、あなたはどうして死んだの」
「よく覚えていないんだけど、誰かが教えてくれた限りでは、ぼく自殺したみたいで」
思わず、私は叫びそうになった。引っ越し初日に、新居の黒い噂を聞くなんて。もう一度、電話を取り上げて不動産屋へかけ直す。今度はつながったけれど時間も時間、誰もいないようだ。
「新しく来てくれたのがかわいい女の子で、うれしい。桃花ちゃんはぼくのこと、やっぱり怖い?」
いじらしい視線でじっと見つめてくるから、突き放せない。地縛霊だかなんだか知らないけれど、無視したら私は一生、罪悪を感じるだろう。この世の、しかも自分の目の前に霊がいるなんて信じられない。信じたくない、のに。気味が悪いけれど、傷つけてしまいそうで言えない。
「怖いっていうか、驚いただけ。顔はいいし、やさしそうだし、害はなさそう……かな」
「うわあ、うれしいな。ぼく、家事得意なんだ。任せてね」
家事全般が苦手な桃花でも、とにかく消えろ、消えて、いなくなれと思った。
「よかったー。桃花ちゃん、すごくいい人。前の人もその前の人も、ぼくを見るなり絶叫したり、怒鳴ったりされて。長くてもひと月。短い人は三日で引っ越して行った。ぼくは仲よくなりたかったのに、残念だった。桃花ちゃんとは、うまくやっていけそう」
なけなしのお金をはたいたのに、引っ越し先には地縛霊が居座っていたなんて。笑い話にもできない。
「とりあえず、私は寝る」
「そうだね。桃花ちゃん、おつかれだもんね。おやすみなさい」
夢かもしれない。布団をかぶって寝た。怖くて電気を消せなかったけれど、気をきかせてくれた地縛霊さんが、私が寝たあとにそっと消してくれたようだった。
「やっぱり、なにか出ましたか」
翌日。不動産屋の担当者は、がははと大口を開けて笑った。
「銀髪の、若い男性が出るんです。部屋の中で、浮いているんです」
私は詰め寄った。
「わたしたちには確認できない事項なんですよ。過去、事故物件だったことは事実ですし、リフォームも徹底的にしました。そしてきちんと告示しました。けれど、借り手さんが長続きしなくて。格安物件には、気をつけるべきですよ。世間には相場っていうものがありますので」
とうとう暴言まで吐かれてしまった。
さらに引っ越すような資金はない。保証人になってくれた親も、不審がっていた。ストーカーのことは話したくない。早く、実家へ戻れと言われるのがオチ。お金が貯まるまで、あの地縛霊と仲良くしなければならないのか。
『じばくれい』。
パソコンを使って調べた。念を残すあまり、死んだ場所から離れられない魂。逆に考えると、魂が持っている念を浄化できれば、地縛霊は成仏できるはずだ。
しかし、杞憂は徒労。この部屋の地縛霊は、意外と使えて話の分かる性格の持ち主だった。
「桃花ちゃん、ごはんつくったよ」
「お留守の間に掃除しておいたよ」
「洗濯物、畳んでおくね」
性格が明るくてよい。よく働いてくれる。適当に買い物を済ませておけば、食事を作ってくれる。しかもおいしい。使える地縛霊だった。もしかしたら、ほんとうに掘り出し物だったかもしれない。しかも美形ときては、このままでいいかもと軟化してきた私は、ずるずると同居を許してしまった。
「名前はなんていうの。歳は。出身は。学生だった? どこで、なにをしていたの」
私の問いに、地縛霊はさみしげに俯く。
「なにも分からないんだ。覚えていないというより、思い出そうとすると意識が吹っ飛んじゃう。ぼくみたいに、自分で生を断ち切った罪作りな人間には、断片的な記憶しか残らないみたい」
「悪いことを聞いちゃったね、ごめん。でも、『じばちゃん』じゃ、あんまりだよね」
腕を組んで、私は考えた。地縛霊。じばくれい。じばく、れい。
「じばくりょう。しば、りょう。斯波リョウなんて、どう?」
「なんだか、格好いいね。ぼく、自分の顔って好きじゃないんだ。目が大き過ぎる。鼻も高過ぎる。唇も赤いし、顎も尖っていて。髪も癖っ毛でまとまらない。幼なじみからも変、変って言われていたし」
「謙遜? 照れている場合じゃないよ。容姿もいいんだし、もっと自分に自信を持つべき、リョウくん」
「ありがとう、桃花ちゃんに言ってもらえるなんて、うれしい」
はにかんだ表情もかわいい。ああ、こんな彼氏が現実に欲しい。図々しいかと思ったけれど、一緒に寝てと頼んだら、律儀に添い寝してくれた。リョウの体は、冷たいのが残念だけれど、久しぶりに朝までぐっすり眠ることができた。ストーカーが来たら、リョウを彼氏だと紹介して諦めさせよう。
事実、引っ越し後の私はついていた。
アルバイトの時給がぐんと上がるし、難しいと言われていた授業の評価も今年は甘いし、懸賞には当たる、なくしたと思っていたアクセサリーが偶然出てきたり、いいことづくめ。今まではそれを自分ひとりで喜んでいたわけだが、今は一緒に喜んでくれる人がそばにいる。
「すごいね桃花ちゃん。おめでとう」
「さすが桃花ちゃん。運がいい」
「ほんとうによかったね、桃花ちゃん」
リョウのことばは善に包まれていて、心地よい。私は他人に褒められたことがほとんどないので、舞い上がってしまった。
「リョウくん、私の彼氏になって」
私はリョウに抱きついた。媚びているつもりはないけれど、自然と甘えた声になってしまう。
「別に構わないけど、ぼく死んでいるんだよ。桃花ちゃんを満足させられないよ?」
「うん。いいの。リョウくん、好き」
「ありがとう。ぼく、桃花ちゃんのこと、大切にする」
こんなにいい子なのに、どうしてリョウは地縛霊なのだろうか。生きていれば、女の子が放っておかないだろう。モテモテで選び放題、毎日が輝きにあふれたきらきらの充実生活間違いないのに、自殺だなんて。理由が分からない。
だから、私はリョウを外に誘った。
もっと楽しませたい。奉仕されてばかりでは気の毒だ。外の空気に触れれば、思い出すこともあるかもしれない。
それに、こんなにステキな彼氏を連れて、一度ぐらい街を歩いてみたいと言う下心もあった。超絶美形男子が私に夢中。他人の羨望を浴びたい。自慢したい。
「ねえ、今日は散歩してみよう」
私のお願いに、リョウは表情を曇らせた。
「ぼく、外に出られないんだ」
「そんなこと、前にも言っていたね。でも、今日は天気もいいし、意外と行けるかもよ。試してみようよ、ね」
「いやだよ。ぼく、部屋がいい。外、嫌い」
「だいじょうぶ。私がいる。ね、近くの公園まで行って、コーヒーでも飲もうよ。遠くには行かない、練習だよ」
「ぼくは、桃花ちゃんと一緒にいられればいい」
うれしいことを真顔で言ってくれるものだ。
「私も、リョウくんといたい。だから誘っているの」
私は強引にリョウの身体を引っ張って玄関まで連れて行った。
「靴がない」
「でしょ。諦めて」
歩きたい。リョウと明るい道をふたりで。
「私がリョウくんを守る。靴、何センチかな。簡単なサンダルでよかったら買ってくる」
そう言って、私は強引にリョウを外出させようとした。
「気持ちはうれしいよ。でもごめん、できない」
いかにもつらそうに、私から視線を逸らしたリョウは、跡形なく消えてしまった。
「やだ、リョウくん。冗談だよね。もう言わないよ、外へ行こうだなんて。ごめん、謝る。強引だったよね。いやがるリョウくんに無理を押しつけるなんて、私がバカだった。出てきて。隠れないで」
天井に向かって訴えたけれど、リョウはあらわれなかった。
リョウが消えてから、十日ほど。
私は絶望に包まれていた。なにをしても楽しくない。なにを食べても味気ない。あの、笑顔がほしい。声が聞きたい。私はすっかりリョウに魅了されていた。
どうしたら、また出てきてくれるだろう。リョウのことが知りたい、調べたい。私は立ち上がった。
まずはインターネットでこのマンションの名前や住所を入力してみる。自殺というキーワードもつけ加えて見た。
「あった。出てきた」
事件は三年前。当時、この部屋に住んでいた男子学生(十八)が自殺。名前や詳しいことは、書かれていない。未成年だったので、特に隠されている。警察や不動産屋に普通に訊いても、個人情報は教えてくれないだろう。
このマンションが建って間もなく、リョウは入居したようだ。駅近の分譲マンションなので、強気価格でも人気の物件だったらしい。となると、隣り向かいに住んでいる人たちは事件を知っているはず。失礼を承知で、聞き込みに行こうと決めた。
リョウの名前、出身地、通っていた大学名、アルバイト先、交遊関係。
「そんなに一生懸命にならないでいいよ。ぼくは別に、今の状況でも困っていないよ」
「リョウ、くん」
久々にリョウの声が聞こえた。私のを背後から、やさしく包んでくれた。
「どこへ行っていたの?」
「ぼくはきみのそばにいた。桃花ちゃんが気がつかなかっただけ」
「見えなかったよ。何度も呼んだのに」
「もっと求めて。強く」
思わず、私はどきりとして息を飲んだ。リョウの色気に圧倒されていた。い、いや、地縛霊に色気もなにもあるはすないのに。
「桃花ちゃん、ぼくが欲しいんでしょ。もっと言って」
ずるずると後退し、私は壁際まで追い込まれていた。もう逃げられない。
「そばに、いて。ずっと」
かすれる声でそう言うのがやっとだった。
「うん。素直で好き」
リョウは私の頭を撫で、頬にキスをした。全身がこわばってしまっていて、動かない。抵抗できなかった。それを許可と受け取ったのか、リョウは私の顔を覗き込むと、今度はしっかりと唇を重ねてきた。リョウの唇が首筋をなぞり、吸った。その冷たさに、私の全身に悪寒が走る。
手馴れていた。
これだけの美形。経験も、さぞかし豊富……と考えると、怖くなった。
「そこまで、ストーップ!」
意外、だと言わんばかりに、リョウはあっけにとられている。
「同居しているけど、こういうのは早い。お互いのことをよく知ってからね」
「喜んでくれると思ったのに。ぼくのキス以上を辞退した女の子、桃花ちゃんが初めてだな」
リョウは首を傾げた。ノリのいい女子なら、さっさと仲よくなってしまうのだろうが、痛い目を見たばかりの私には進めない。ましてや、相手は地縛霊。
「うれしいよ。でも、今日はちょっと」
言い訳をすると、リョウは違った解釈をしたようで、なるほどねと頷いた。
「じゃ、また今度」
リョウは浮き浮きと台所へ消えた。
なんだか、ぐぐっと疲れを感じた。