「んん? ここは?」
 ベアトリスが目を覚ました。
 温かいクッションを背中に挟んで壁にもたれている感触があった。
 寝ぼけた頭で、前を見れば、何か違和感を覚える。足が四本もあった。
 真ん中の二本はベアトリスの足。その両端に長くすらっと伸びた末広がりの足二本。
 お腹にはシートベルトの役割のように、筋肉質の腕がベアトリスの体を抱きかかえて固定していた。
 暫くこの状況を考える。
 頭の中でどういうことになってるのか、順序だててイメージしてみれば、自分がヴィンセントと重なっていることに気がついた。
 しかもこの格好で暫く寝ていたと思うと、急激に頬が赤く染まる。
 自分の真後ろにヴィンセントがいて、しかも体が恐ろしく密着している。
 真相に気がつくと、これは落ち着けるはずがなかった。どうしていいか分からず、オタオタとしていると後ろも動き出した。
「ん? あっ、つい寝てしまった」
 寝起きのはっきりとしないヴィンセントの声が聞こえてきた。
「ヴィンセント! ちょっと、私何してるの。しかもあなたの上で」
「あっ、ごめん」
 ヴィンセントがベアトリスの体を支えていた腕をはずした。それと同時にベアトリスはあたふたと猫が逃げるように這い蹲い、ある程度逃げてから、くるりと向き合った。
「あの、その、えっと……」
 ベアトリスは声にならない詰まった喘ぎをしながら顔を真っ赤にしていた。
「ああ、安心して何もしてないから」
 本当はしそうだったと思い出すと、ヴィンセントは髪をかきあげ顔をそらす。
 ──何もしてないってどういうことよ。どうして私はヴィンセントと一緒にぴったりくっついて昼寝してたのよ。
 言いたくても口をパクパクするだけで声にする勇気がない。ヴィンセントにずっと抱かれていた、その事実を改めて受け入れてしまうと発狂しそうだった。
 寝込んでしまう前の出来事など考えている余裕など微塵もなかった。
「君が疲れて眠たそうだったから、寝やすいようにと思ってさ。寝心地悪かった? ごめん」
「ヴィンセント、そうじゃなくて、あのね、あん、もうー」
 ベアトリスは頭を抱える。
「ベアトリス、そろそろ帰ろうか。この時間生徒も殆ど家に帰っただろうね」
 腕時計を見ながらヴィンセントは一つ欠伸をした。
「あっ、私、早く帰らなくっちゃいけなかったんだ」
 ベアトリスは思い出したように慌てて立ち上がる。
「ああ、アメリアのことかい?」
「えっ、何も言ってないのに、どうしてアメリアのことだって分かるの?」
「いや、ほらだって、いつもアメリアはベアトリスに厳しいし、門限だってあるだろ。早く帰らないと怒られるんだろう。そんなのすぐに分かるよ」
 ヴィンセントは慌てて弁解する。
 まさか前日に父親がアメリアに電話して全てのことを知っているなんて言えなかった。
 あのときアメリアが受けた電話はこれだった。
 ベアトリスはそんな事実に気がつかず、上手い具合に勘違いした。
「違うの。昨日からアメリアの具合が悪いの。だから早く帰ってあげないとと思って」
「あっ、そうなのか。そ、それは心配だね。でもすぐに治ると思うよ。水さえ手に入れば……」
 それを言った瞬間、ヴィンセントは思わず「しまった」と心の中で思った。
 つい口が滑って余計なことを言ってしまい、ベアトリスの反応を恐れた。
「水?」
「いや、その、ほら熱があったりしたら水分をこまめにとらないといけないっていうじゃないか。だから水分補給はこまめにってことだよ」
「う、うん。そうだけど」
 ベアトリスはどこかひっかかった。アメリアのあの不思議な水を飲む姿が思い出される。
「僕が家まで送っていくよ。今日は親父が車貸してくれたんだ」
 ヴィンセントが立ち上がり、軽くジーンズをはたいた。
「もう免許とったんだ」
「驚くことないよ。この国は16歳になればすぐに取れるだろ。それに僕は学年は一緒でも、実は君より一歳年上になるんだ。腕だって免許取立てと違って幾分か慣れてるよ」
「年上?」
「あっ、留年したと思った? まあいいけどね。一年遅らすこともよくある話さ」
 ヴィンセントはドアに向かった。
 その後姿は一歳上と知っただけで大人っぽさが増して見えるようだった。
 それだけのせいではなかった。急激にベアトリスと距離が縮まったヴィンセントは一気に攻めるように大胆になり、ベアトリスの知らない内面が露出していく。
 それは強引な力となり、ベアトリスにも影響を及ぼしていた。
 優しく口数の少ないイメージから、野生的な部分が際立って目に付きだした。それはさらにベアトリスの心を魅了していく。
 ベアトリスはまるで火を見つめて飛び込んでいく虫のように、小走りにヴィンセントの後を追った。

 ロッカーで自分の荷物を取ってから、駐車場に向かった。
 がらがらになった学校のただっ広い駐車場の遠くに、白い車が置き去りにされたように停まっているのが、すぐに目に付いた。
 あれがヴィンセントの父親の所有する車に違いないと、ベアトリスはすぐに思った。
 ふと前日に会ったヴィンセントの父親の顔を思い出す。
 濃いブラウン色の少しウエーブかかった短めの髪を、七三に分けきちんとした身なりだった。
 ヴィンセントに負けず劣らずのかっこいい父親ではあったが、 隙のない鋭い感覚をもった印象が瞳から感じ取れた。
 何ごとも見逃さないそんな目をしていた。
 車もまた、そんな父親にふさわしいほど、高級感が漂ってきて威厳が感じられた。
「車借りたら、お父さん困らなかったの?」
「ああ、親父は同僚の車に迎えに来てもらって仕事に行った。今日は親父が自ら乗っていけって差し出してくれたんだ……」
 ──君を送るためにね。
「ヴィンセントのお父さんは何のお仕事してるの?」
「刑事だよ」
「すごい。正義の味方なんだ」
「正義の味方か…… なんか矛盾している気もするが」
「えっ、矛盾?」
 何でもないと笑ってごまかし、ヴィンセントは車のロックを解除すると助手席のドアを開けベアトリスに「どうぞ」と手を差し出す。
 車のことはよく知らないが、革張りのシート、大きめの車体が、高そうに見える。
 緊張して車に乗り込み、シートベルトをカチャッ と差し込んだ。
 運転席にヴィンセントも座り、車のエンジンをかけながら、シートベルトを差し込んでいた。
 車を運転するヴィンセントは、とても大人びて見える。
 注意を払い真剣な面持ちの姿は、また新たに見る姿だった。新鮮さとヴィンセントの魅力が倍増して、車を運転するだけでより一層かっこよく見えた。
「さっきからじっくりと観察してくれてるけど、そんなに僕の運転に不安?」
 ヴィンセントとは違う意味に捉えてしまい、ベアトリスはあたふたとしてしまった。
「違うの、その……」
 かっこいいと正直に言うのがとても恥ずかしくてモジモジとしてしまったが、ヴィンセントにはじれったかった。
「ベアトリス、もういい加減に僕に慣れてくれないかな。僕は君が思っているようなナイスガイではないんだ。とても我は強いくせに、自分の感情を抑えられない弱い奴さ。まだまだあるけど、僕の本当の正体を知ったら、君は……」
 信号にさしかかり、そこで赤となって、ブレーキをかけて停まった。ヴィンセントはベアトリスを寂寥の目で見つめた。
 ──本当の正体?
 口に出して聞きなおしてもよかったのに、ベアトリスにはなぜかできなかった。
 どうしても、影に襲われたときに見た野獣が頭によぎり、それを重ねてしまっていた。
 そんなことありえないはずなのに、どこか疑う自分がいた。
 また車が動き出し、ヴィンセントが話し続ける。
「でも、君が側に居ると安らぐんだ。君はおおらかでこんな僕でも受け入れてくれる。とても救われてるんだ」
「ヴィンセントこそ私を過大評価しすぎ。私なんてグズでノロで皆をすぐにイライラさせる。それなのにヴィンセントやジェニファーは私を見捨てず側に居てく れる。私の方がどんなに救われてるかって思う。二人が居なかったら私なんて誰も相手にしてくれる人なんていなかった。ほんとにいい人たちだって思ってる」
 ベアトリスの本心だった。しかしヴィンセントは申し訳なさそうにしかめっ面をする。
「ベアトリス、これだけは言っておく。今僕はこうやって君の近くにいる。そして、今日は二人っきりになることも、君に触れることもできた。僕がそうしたい とずっと願ってきたことなんだ。それがなぜ今まで出来なかったかいつか考えて欲しいんだ。僕の言ってる意味が理解できたとき、ジェニファーがなぜ君の側に 居るかもわかるよ。もうすぐ、またいつもの君のイメージ通りの僕に戻ってしまう。口数の少ない僕にね。今日こうやって君と過ごせた午後は僕にはかけがえの ないチャンスだったんだ」
 ベアトリスにはさっぱり意味がわからなかった。相槌も打てず、暫く沈黙が続く。
 ヴィンセントの思いが上手く伝わらない。
 真実を隠し、それ抜きで何も語れる訳がない、とヴィンセントはふと寂しく息をもらした。
「気にしないで、僕の独り言さ。さあ着いたよ」
 ベアトリスの家の前のストリートに車を停めた。
 何も言わずにここまでこれたことに、ベアトリスはこの時になって疑問を感じた。
「あれ? 私、ヴィンセントに自分の住んでる場所言ったことがあったっけ?」
「僕は君のことなら何でも知ってるよ。君に聞かなくてもね」
 ──ここには何度も来たよ、君に内緒で。
 ヴィンセントは切なく笑う。
 ベアトリスはシートベルトを外し、送ってくれたお礼を述べ、そして降りようとドアに手を掛けたときだった。
 ヴィンセントに腕を掴まれ引き寄せられた。
 「あっ」と声が洩れたとき、ベアトリスはヴィンセントに強く抱かれていた。
「ヴィンセント……」
「ごめん、ベアトリス。暫くこのままで」
 ヴィンセントに抱かれ、ベアトリスの両手はヴィンセントを抱き返そうか迷う。
 結局は行き場を失ったままヴィンセントが離れていった。
「ヴィンセント、あのね、私……」
 ベアトリスは決心した。
 思いを言葉にしよう。
 ジェニファーのことなど完全に頭から排除され、この瞬間に正直に言ってしまいたかった。
 ところがヴィンセントが言葉を遮る。
「ベアトリス、家に入った方がいい、玄関を見てみな。アメリアが待ってるよ」
 家の附近に車が停まる気配を感じたのか、ローブを羽織ったアメリアがドアを開け、ベアトリスを心配して待っていた。
 ヴィンセントは車から降り、まっすぐにアメリアを見つめて話しかけた。
「お体はもういいみたいですね。ということは明日からまたいつも通りですか」
「ベアトリス、早く家に入りなさい」
 アメリアはヴィンセントの言葉を無視した。
 ベアトリスは車のドアを閉め、ヴィンセントに未練を残しながら何度も後ろを振り向き玄関に向かった。
 ヴィンセントはこれ以上どうすることもできないと体に力を込めて、潔く車に乗り、エンジン音を吹かせると、断ち切るようにすっとその場から去っていった。
 ベアトリスはヴィンセントがまた手の届かないところに行ってしまうのではと不安になった。
 車が見えなくなっても暫く表庭で、でくの坊のように立っていた。
 アメリアには何が起こっているかすぐ読み取れた。
 ベアトリスの髪の色が全てを物語っている。輝く金髪、本来のベアトリスの髪の色。ベアトリスの心が解放されている証拠だった。
 ヴィンセントはわざとそれを仕掛け、本来のベアトリスの姿を引き出してしまった。
 逡巡のため息がふと洩れ、眼鏡の位置をいつもより念入りに整える。
「気が治まったら、いつでも家に入りなさい」
 アメリアの精一杯の言葉だった。暫くベアトリスを一人にし、先に家の中に入っていった。
 ベアトリスは余韻を感じながら空を見上げる。
 一日の終わりのたそがれの宵。人恋しく思う夕暮れの空は寂しく物悲しい。
 一番星の輝きがヴィンセントの笑顔と重なった。また次の日も笑ってくれるのだろうかと心はヴィンセントで溢れかえっていた。
 やっと家に入ったときすっかり辺りは暗く、夜になっていた。
 アメリアは事が収まるのを願いながら静かに居間のソファーに座っていた。
 そこで初めてベアトリスは病気のことを思い出した。
 忘れていたわけではないが、第一に考えてあげられなかったことが罪悪感へとつながった。
「アメリア、か、体の具合はどう?」
 焦って上手く言えない。
「すっかりよくなったわ。心配かけてごめんね」
 アメリアは無理もないと、この時ばかりは優しく笑う。
「ううん、私こそ何もしてあげられなくてごめん。アメリアが病気なのに私ったら自分のことばかり考えてしまって」
 ベアトリスは抱きついた。
 何もかも分かってると言わんばかりに、アメリアが優しく抱き返す。アメリアこそ罪悪感一杯だった。
 ベアトリスが言った『そろそろ私を自由にしてもいいとき じゃないの』と言う言葉が心に引っかかっていた。
 明るめの金髪に変わってしまったベアトリスの髪を見れば見るほど一層『自由』という言葉の重みがのしかかる。ぐっと堪えるしかなかった。
「ベアトリス、ゆっくりお風呂にでも入ればいいわ。簡単なものになるけど、その間に食事作っておくから」
「でも、アメリア、まだ安静にしてないと」
「大丈夫よ。いいから早くお風呂に入りなさい」
 アメリアはベアトリスを強制的にバスルームに押し込んだ。バタンとドアを閉めるとやるせなくなった。
 逃げる場所もなく、仕方ないとベアトリスはシャワーを浴びることにした。アメリアの言葉には逆らえないものがある。
 Tシャツを下からまくり、襟ぐりから頭が出る瞬間、鏡の中の自分と目が合った。
 髪もTシャツの襟ぐりを抜けてばさばさと下に落ちてくる。だが、それはいつもの髪ではなかった。
「えっ、髪が輝いてる。なぜ? これは子供の頃の時と同じ色。嘘…… でもどうしてアメリアは何も言わなかったの? こんなに色が違うのに。そう言えばあの物置部屋の鏡を見たときも違和感があった。それでもヴィンセントも何も言わなかった。どうして?」
 暫く呆然と髪を見ていた。
「私どうしちゃったんだろう」
 夢と現実の区別がつかなくなるほどの心の病に侵されたのかと、自分を病人扱いした目で眺めてしまった。
 自分の目でしっかりと見ているのに、周りのものが何も言わないということはやっぱり自分だけにしか見えないということだろうか。
 妄想に取り付かれると、幻影を見たり、幻聴したりしてしまいやすい。
「とにかくシャワーを浴びよう。そうじゃないとここから出られそうもないし」
 ベアトリスは服を脱ぎ、バスタブの中に入った。蛇口を回し熱いお湯になるのを確認すると、シャワーレバーを上にあげる。頭から勢い良くお湯を被り、シャンプーボトルを手にした。
「あっ、いつものだ。アメリア、いつの間にか取り替えたんだ」
 ベアトリスは手にとり泡立てる。髪の色を思い出すと恐る恐る洗い出した。しかし自棄になってその後乱暴に洗う。
 お風呂から出たらまた元に戻ってるかもしれない。
 今までのパターンが全てそうだったと開き直ることにも目覚めていた。
 その後、鏡の前で自虐的に笑わずにはいられなかった。本当に元の色に戻っていたのである。
「やっぱり」
 妄想──。自分の心が作り出した幻影。そう考えれば数々の不思議な体験の説明がつく。普段から人の目を気にしすぎて、いらぬ心配ごとを抱え込む体質。
 それも妄想を作り出す原因の一つであってもおかしくない。
 本人だけが本当のことのように感じているだけだで、周りは何も見えない聞こえない。
 ベアトリスは大きくため息を吐き出す。
「それじゃ、ヴィンセントのことは? あれも妄想だというの?」
 バスタオルを纏った姿で鏡の前で自分に問いかける。
「妄想だとしても、あなたが好きで仕方ないのはヴィンセントなんでしょう」
 指を立てて自分に忠告する。抑えきれない気持ちは苦しみを増幅するだけだった。
「ヴィンセント」
 その名前を口にするだけで、心が燃え滾った。